2014年6月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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目覚めよ、わたしこそ神 | 2014年6月第5主日礼拝 2014年6月29日 |
小島章弘牧師 |
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聖書/エレミヤ書 第9章22〜25節、エフェソの信徒への手紙 第2章15〜16節 | |
エレミヤ書第9章<22節>主はこう言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。 <23節>むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい/目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事、その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。<24節>見よ、時が来る、と主は言われる。そのとき、わたしは包皮に割礼を受けた者を、ことごとく罰する。<25節>エジプト、ユダ、エドム、アンモンの人々、モアブ、すべて荒れ野に住み、もみ上げの毛を切っている人々、すなわち割礼のない諸民族をことごとく罰し、また、心に割礼のないイスラエルの家を、すべて罰する。 |
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エレミヤ書の9章から御言葉に聴いてまいります。 エレミヤの預言は、すでに起こったことを記述しているとも考えられます。今日与えられたみ言葉の一節前、21節を見ていただきますと、そのことが明白になります。ここでエレミヤは、自分が目の当たりにした現実を書いています。すなわち、エレミヤはイスラエル民族の滅びの姿を赤裸々に記しているからです。麦を脱穀した後、束ねられて放置された状態に重ねて、イスラエルの人々が糞土のように死体が放置されている、あのバビロニア捕囚による滅亡を書いているのです。 さて、今日の本題に注目しましょう。22節から25節です。ここは短い部分ですが、内容は斬新です。 トマス・ア・ケンピスの「キリストに倣いて」(デ・イミタチネ・クリスチ)に、ケンピスは、次のように書いています。「わたしから見て正しく心にかなうことをあなたに教えよう。自分の罪を大きな不快と悲しみとで顧みなさい。善い行いをしたからとて、自分を偉いと思ってはならない。実にあなたは罪人であって、多くの情欲に動かされる。自分では、常に無に帰しやすく、すみやかに投げ出され、すみやかに征服され、すみやかに取り乱し、すみやかに消え失せず。あなたには誇るべき何もなく、恥ずべきことは多い。あなたは自分で悟る事の出来ないほど弱いからである」(p110) そして、エレミヤはイスラエル民族が最も誇りとしていた「割礼」に言及していきます。割礼はイスラエル民族にとって、最重要な宗教儀式です。早くは、創世記17章から出ています。それは「神とイスラエル民族との契約のしるし」です。平たく言えば、神との絆(きずなー神の祝福と民の服従)という安全保障が成立するしるしになるわけです。 私どもの信仰も同じです。神によって信仰が与えられ、水と霊による信仰のしるしをいただいたのです。人生でただ1回だけの儀式(洗礼)ですが、心に洗礼がないとすれば、それは私どもにとっても、エレミヤに聴かねばなりません。むろん信仰は、神によって与えられるものですから、恩寵、十字架と復活によって一方的に、何の値なしに与えられるものですから、努力も善行も全く問われないものですから、恵みとしていただければ良いだけのものではありますが、それはただ単にアクセサリーのようにくっつけておけば良いというものではありません。 そして、ただ「目覚めて、あなたこそ主」と賛美して生きること、そこに最大にして究極の誇りがあるのです。讃美歌第二編の195番「キリストには代えられません、世の宝もまた富も、このお方が私に代わって死んだゆえです」と。 |
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