聖書のみことば
2014年6月
6月1日 6月8日 6月15日 6月22日 6月29日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 語りだす弟子たち
2014年ペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝 2014年6月8日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/使徒言行録 第2章14〜36節

2章<14節>すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。<15節>今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。<16節>そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。<17節>『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。<18節>わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。<19節>上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。<20節>主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。<21節>主の名を呼び求める者は皆、救われる。』<22節>イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。<23節>このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。<24節>しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。<25節>ダビデは、イエスについてこう言っています。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。<26節>だから、わたしの心は楽しみ、舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。<27節>あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない。<28節>あなたは、命に至る道をわたしに示し、御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』<29節>兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。<30節>ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。<31節>そして、キリストの復活について前もって知り、『彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがない』と語りました。<32節>神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。<33節>それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。<34節>ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。<35節>わたしがあなたの敵をあなたの足台とするときまで。」』<36節>だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」

 2章1〜13節には、聖霊降臨の出来事が語られております。弟子たちに聖霊が降り、ほかの国々の言葉で「神の偉大な業を語りだした」というのです。今日の個所である14〜36節には、弟子たちが語りだした「神の偉大な業」の内容について語られております。本来であれば、その先の42節まで読み、そこに記された「初代教会の姿」に聴かなければならないのですが、そこは要約して最後に語ることといたします。

 1節「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると」とあります。「五旬祭」は、ユダヤ最大の祭りである過越祭、除酵祭から50日目の祭りです。その日、復活の主イエス・キリストが約束してくださった聖霊が弟子たちに降りました。聖霊の臨んだしるしとして、3節「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上に」とどまりました。そして4節「一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだし」ました。
 「聖霊が臨む」、それは「言葉を発する力を与えられる」ということです。エルサレムには、5節「天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人」が祭りに来ており、彼らは、11節「ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」とあるように、自分たちの日常の言葉で「神の偉大な業」を聞いたのでした。

 聖霊が弟子たちに与えられたということは、「神の偉大な業を語る力が与えられた」ということです。そして弟子たちは、神の偉大な業を宣べ伝えたのです。
 「神の偉大な業」とは何か。14節以降に聴きましょう。14節「ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた」とあります。11人は「教会」を意味します。「立って、話し始めた」とありますが、それはユダヤの通常の語り方と違っております。ユダヤでは、主イエスもそうなさったように、座って語るのです。「立って」とは、演説、弁論調であり、それはギリシャのスタイルです。
 弟子たちの様子に驚いた人々は、この出来事を理解するために「酒に酔っている」と思ったのですが、15節「今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません」と、ペトロは言います。「朝の九時」ということには、前提があります。ユダヤ人は朝食の前に祈ります。ですから、朝の九時に会堂に来ているということは、そこにいる者は敬虔なユダヤ人であることを示しており、「酔っている者などいない」と言っているのです。
  酔っているのではなく、16節、これこそ神が「預言者ヨエルを通して言われていたこと」の実現であり、17節「『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る』」と、弟子たちが語りだしたのは「神が霊を注いでくださったから」であり、また「霊が注がれる」ことは、本来「終わりの時、すなわち終末のできごとである」と、ヨエルの預言の言葉を通して、ペトロは語っております。

 この聖霊降臨の出来事によって「終末は終わった」こと、教会(弟子たち)が宣べ伝えているのは「終末の出来事」であることが語られているのです。「若者は幻を見、老人は夢を見る」とは、終わりの日に神が啓示してくださった「裁きと救いの完成」であり、それが「今、起こっている」と語っております。

 教会が語っていることは「終わりの日の救い、完全な救い」です。19節「上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ」とは、その救いは「裁きを伴う完全な救いである」ことを示しております。「裁きが終えられての救い」なのです。
 完全に罪を清算できない、罪を終わらせられない、ゆえに、人には赦すことができません。けれども、神の出来事は違います。完全にきちっと清算し、罪を終わりとしてくださった、それが終わりの日の出来事、終わりの日の完全な救いなのです。「終わりの日の完全な救い、救いの宣言」、それが、今なすべき教会の業です。
 「教会が洗礼を与える」、それは「終わりの日の保証を与える」ことです。ですから、幸いです。もちろん、保証があるから何度でも過ちを犯してよいということではありません。けれど、何度も繰り返し過ちを犯す者でしかない私どもが、終わりの日に完全な者とされる、完全な救いに与る保証が与えられているとは、本当に感謝です。
 そういう意味で、もし明日また、つまずいても良いのです。なおかつ救いの保証を与えられている、それは私どもの人生の保証です。「神によって完結する人生」の保証なのです。

 教会が宣べ伝えているのは、そのような救いの宣言です。ですからそれは、口先だけの慰めではありません。聖霊の出来事として揺るぎない力、救いの宣言です。それが教会に託されている業なのです。教会は、終末に語られた大切な業、救いを語り、担っているのです。そしてそれは「裁き無しの救いではない」ことを覚えなければなりません。「完全な裁きがあっての救い」です。
 私どもに対する裁きは、私どもが十字架にかかるということではありません。21節「主の名を呼び求める者は皆、救われる」とあります。終わりの日に、神を思う者として、神を呼び求める者は救われるのです。

 22節、ペトロは「イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください」と言っております。ユダヤ人と言わず、敢えて「イスラエルの人たち」と語りかけ、「神の民イスラエルよ、心して聞きなさい」と言っております。「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です」と、「主イエスこそ救い主である」と語ります。「神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました」、主イエスの業、教えが、神の子であることのしるしであることを、神が証しなさっていると言っております。

 「あなたがた自身が既に知っているとおりです」、知っていることの内容は「主イエスが十字架に死なれた」ということです。「既に知っている」と言うことで、「あなたたちユダヤ人が主を十字架につけた」ということの自覚を促しております。23節「このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです」。あなたがたは知っている、律法を知らない者、つまり異邦人であるローマ総督ピラトの手に渡して主イエスを十字架につけたことを「あなたがたは知っている」と言っております。罪の自覚は大事です。その上で、その背後には、神の意に反しての罪を超えて「神は、お定めになった計画により」と、神のご計画があったのだと言っております。
 神が主イエスを十字架につけてくださった、それは同時に「人々の罪を担う者として、神がなしてくださったことである」と、ペトロは語ります。

 神は、主イエスの十字架の死によって、人々の罪を終わりとしてくださいました。人の罪の贖いとして、罪なき主イエスの血潮が流され、人の罪は清算されました。
人は、自分で自分を裁くことはできません。罪なる、汚れた私どもの罪の清算を、主イエスの汚れなき命をもって、神がなしてくださったのです。
 私どもは罪ある者であることを覚えなければなりません。その私どもの罪を、主が十字架によって贖ってくださり、そのようにして贖われた者として、主が受け入れてくださっていることを知らなければなりません。
 主イエス・キリストの十字架による贖い、それによって、終わりの日の救いの保証が与えられているのです。そして、教会はこのことを語っているのです。

 ですから、「救い」は、罪の自覚を知る者には深く沁みわたります。救いを見ない罪の自覚は、人を苦しめるのみです。罪を終わりとされていることの恵みを思います。主の十字架なくして、罪の自覚の痛み、苦しみから解き放たれることはないのです。
 だからこそ、主イエスの十字架の贖いは完全な救いであることを示さなければなりません。裁きが完全でなければ、いつまでも救われません。主の十字架による終わりの日の完全な救いを見ての、今ある保証なのです。

 24節「神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました」と続きます。キリスト教が宣べ伝えるのは「十字架」だけではなく、「復活」です。十字架だけでは、主イエスは滅びの世界におられることになってしまいます。
 主を信じない者にとっては、終わりの日とは「死」です。しかし、主の復活によって、終わりの日は開かれ、死が最後の支配者ではなくなるのです。人は死の支配から解き放たれ、死において「主イエスと結ばれた者として甦る」のです。「死によって不完全な形で肉体は滅びる、しかし、復活の主と共に復活する、完全な者として甦る」、このことこそ、教会が神より託されている言葉です。

 そしてペトロは語ります。このことは、25節「ダビデは、イエスについてこう言っています」と、ダビデが既に言っていたことであると、旧約聖書を引用して語るのです。このことが示すことは、救いの出来事は、教会が独自の発想で語っていることなのではなく、神の言葉(旧約聖書)の説き明かしとして語っているということです。ペトロ(弟子たち)が語っているのは、御言葉の説き明かしなのです。聖霊を受けて教会がなしていることは何か。それは、御言葉を説き明かすことです。そのことがここに示されていることです。御言葉の説き明かし、それは、教会が聖霊の注ぎによってなし得る力なのです。

 31節「そして、キリストの復活について前もって知り、『彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがない』と語りました」とは、キリストの復活については、旧約聖書において予め知っているということです。
 32節「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です」とは、教会とは何かということを示しております。「教会は、キリストの復活の証人である」ということです。教会が宣べ伝えていることは、主イエス・キリストの復活です。日曜日は、主イエスの復活の朝ですから、私どもは日曜日に礼拝し、復活の主を証ししているのです。
キリスト者でも、復活を理解できないと口にする人がいますが、復活とは自分で理解することではありません。教会において語られておいることを「アーメン」と受け入れることです。聖霊を信じるとき、アーメンと受け入れ、そこでこそ、その人に聖霊が臨むのです。
 愛宕町教会の礼拝堂の十字架は縦長です。十字架の縦横の比率はさまざまありますが、縦に長い十字架は、復活を強調していると言われております。「復活の証人として、教会」なのです。「永遠の命の恵みを語る者として、教会」なのです。

 このようにして十字架と復活の主イエスを証ししたあとで、ペトロは続けて、38節「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」と言っております。教会が託されていることは、主イエスを証しするだけではなく、洗礼によって救いに与らせる力、神の権能を与えられていることを知らなければなりません。教会は人々に「信じなさい」と促さなければなりません。「悔い改めなさい」と促さなければならないのです。ここにはっきりと教会の姿が示されております。悔い改めを促し、洗礼を授けるのです。
 「イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい」、洗礼を受けることは罪の赦しを受けることです。ペトロは主から、天の国の鍵を授けられました。「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(マタイによる福音書16章19節)と、主はペトロに言われました。「あなたがなすこと、赦すこと」は「天においてもなされることである」というのです。何と幸いなことでしょう。「罪を赦す」という鍵は、地上にはありません。罪の赦し、それは終わりの日の神の国における救いの出来事だからです。洗礼の出来事こそ、聖霊の出来事です。教会がなすべきことは「洗礼を授けること」、それは「罪の赦しの宣言」です。それが、教会が神から託された権威なのです。このことを、ペトロが力強く説教しました。

 このペトロの説教を聞いて、41節「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった」と記されております。
 そして、42節「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」とは、初代教会の姿です。使徒の教えを聞くこと、信仰の交わりを導かれ、聖餐の交わりをなすことです。
 教会の交わりの中心にあることは「聖餐による神にある交わり」です。神の救いの恵みを中心としての交わり、永遠の命の約束のうちにある交わりです。ですからそれは、個人的な人と人との交わりを望むことではありません。教会における交わりは、天上での交わりを、今ここでいただくことです。「救いの恵みに与っている者たちの交わり」、それは「喜びに満たされる交わり」なのです。

 教会は「神の恵みを共にする者の交わり」です。だからこそ、祈りが大事です。祈りなくして、神の恵みを思うことはできません。祈りなく、恵みと言っても、それは人の思いにいつしかすり替わってしまうのです。

 キリストにある交わりの内にあることの恵みを思います。たとえ、どういう者であったとしても、救いの保証が与えられているのです。

 教会は、祈りの交わりであることを改めて覚えたいと思います。私どもの教会も、祈る教会でありました。「祈る者としての教会の姿」を思うものでありたいと願います。
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