2014年6月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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語りだす弟子たち | 2014年ペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝 2014年6月8日 |
北 紀吉牧師(文責/聴者) |
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聖書/使徒言行録 第2章14〜36節 | |
2章<14節>すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。<15節>今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。<16節>そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。<17節>『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。<18節>わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。<19節>上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。<20節>主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。<21節>主の名を呼び求める者は皆、救われる。』<22節>イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。<23節>このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。<24節>しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。<25節>ダビデは、イエスについてこう言っています。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。<26節>だから、わたしの心は楽しみ、舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。<27節>あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない。<28節>あなたは、命に至る道をわたしに示し、御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』<29節>兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。<30節>ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。<31節>そして、キリストの復活について前もって知り、『彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがない』と語りました。<32節>神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。<33節>それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。<34節>ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。<35節>わたしがあなたの敵をあなたの足台とするときまで。」』<36節>だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」 |
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2章1〜13節には、聖霊降臨の出来事が語られております。弟子たちに聖霊が降り、ほかの国々の言葉で「神の偉大な業を語りだした」というのです。今日の個所である14〜36節には、弟子たちが語りだした「神の偉大な業」の内容について語られております。本来であれば、その先の42節まで読み、そこに記された「初代教会の姿」に聴かなければならないのですが、そこは要約して最後に語ることといたします。 1節「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると」とあります。「五旬祭」は、ユダヤ最大の祭りである過越祭、除酵祭から50日目の祭りです。その日、復活の主イエス・キリストが約束してくださった聖霊が弟子たちに降りました。聖霊の臨んだしるしとして、3節「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上に」とどまりました。そして4節「一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだし」ました。 聖霊が弟子たちに与えられたということは、「神の偉大な業を語る力が与えられた」ということです。そして弟子たちは、神の偉大な業を宣べ伝えたのです。 この聖霊降臨の出来事によって「終末は終わった」こと、教会(弟子たち)が宣べ伝えているのは「終末の出来事」であることが語られているのです。「若者は幻を見、老人は夢を見る」とは、終わりの日に神が啓示してくださった「裁きと救いの完成」であり、それが「今、起こっている」と語っております。 教会が語っていることは「終わりの日の救い、完全な救い」です。19節「上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ」とは、その救いは「裁きを伴う完全な救いである」ことを示しております。「裁きが終えられての救い」なのです。 教会が宣べ伝えているのは、そのような救いの宣言です。ですからそれは、口先だけの慰めではありません。聖霊の出来事として揺るぎない力、救いの宣言です。それが教会に託されている業なのです。教会は、終末に語られた大切な業、救いを語り、担っているのです。そしてそれは「裁き無しの救いではない」ことを覚えなければなりません。「完全な裁きがあっての救い」です。 22節、ペトロは「イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください」と言っております。ユダヤ人と言わず、敢えて「イスラエルの人たち」と語りかけ、「神の民イスラエルよ、心して聞きなさい」と言っております。「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です」と、「主イエスこそ救い主である」と語ります。「神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました」、主イエスの業、教えが、神の子であることのしるしであることを、神が証しなさっていると言っております。 「あなたがた自身が既に知っているとおりです」、知っていることの内容は「主イエスが十字架に死なれた」ということです。「既に知っている」と言うことで、「あなたたちユダヤ人が主を十字架につけた」ということの自覚を促しております。23節「このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです」。あなたがたは知っている、律法を知らない者、つまり異邦人であるローマ総督ピラトの手に渡して主イエスを十字架につけたことを「あなたがたは知っている」と言っております。罪の自覚は大事です。その上で、その背後には、神の意に反しての罪を超えて「神は、お定めになった計画により」と、神のご計画があったのだと言っております。 神は、主イエスの十字架の死によって、人々の罪を終わりとしてくださいました。人の罪の贖いとして、罪なき主イエスの血潮が流され、人の罪は清算されました。 ですから、「救い」は、罪の自覚を知る者には深く沁みわたります。救いを見ない罪の自覚は、人を苦しめるのみです。罪を終わりとされていることの恵みを思います。主の十字架なくして、罪の自覚の痛み、苦しみから解き放たれることはないのです。 24節「神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました」と続きます。キリスト教が宣べ伝えるのは「十字架」だけではなく、「復活」です。十字架だけでは、主イエスは滅びの世界におられることになってしまいます。 そしてペトロは語ります。このことは、25節「ダビデは、イエスについてこう言っています」と、ダビデが既に言っていたことであると、旧約聖書を引用して語るのです。このことが示すことは、救いの出来事は、教会が独自の発想で語っていることなのではなく、神の言葉(旧約聖書)の説き明かしとして語っているということです。ペトロ(弟子たち)が語っているのは、御言葉の説き明かしなのです。聖霊を受けて教会がなしていることは何か。それは、御言葉を説き明かすことです。そのことがここに示されていることです。御言葉の説き明かし、それは、教会が聖霊の注ぎによってなし得る力なのです。 31節「そして、キリストの復活について前もって知り、『彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがない』と語りました」とは、キリストの復活については、旧約聖書において予め知っているということです。 このようにして十字架と復活の主イエスを証ししたあとで、ペトロは続けて、38節「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」と言っております。教会が託されていることは、主イエスを証しするだけではなく、洗礼によって救いに与らせる力、神の権能を与えられていることを知らなければなりません。教会は人々に「信じなさい」と促さなければなりません。「悔い改めなさい」と促さなければならないのです。ここにはっきりと教会の姿が示されております。悔い改めを促し、洗礼を授けるのです。 このペトロの説教を聞いて、41節「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった」と記されております。 教会は「神の恵みを共にする者の交わり」です。だからこそ、祈りが大事です。祈りなくして、神の恵みを思うことはできません。祈りなく、恵みと言っても、それは人の思いにいつしかすり替わってしまうのです。 キリストにある交わりの内にあることの恵みを思います。たとえ、どういう者であったとしても、救いの保証が与えられているのです。 教会は、祈りの交わりであることを改めて覚えたいと思います。私どもの教会も、祈る教会でありました。「祈る者としての教会の姿」を思うものでありたいと願います。 |
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