聖書のみことば
2014年6月
6月1日 6月8日 6月15日 6月22日 6月29日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 天からか人からか
2014年6月第3主日礼拝 2014年6月15日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/マルコによる福音書 第11章27〜33節

11章<27節>一行はまたエルサレムに来た。イエスが神殿の境内を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちがやって来て、<28節>言った。「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」 <29節>イエスは言われた。「では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。<30節
>ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい。」<31節>彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。<32節>しかし、『人からのものだ』と言えば……。」彼らは群衆が怖かった。皆が、ヨハネは本当に預言者だと思っていたからである。<33節>そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」

 27節、主イエスの一行が、またエルサレムに来ております。境内で商売をする者たちを追い出された次の日に、また主が境内を歩いておられるのです。
 そこで、祭司長、律法学者、長老たちがやって来て、28節「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか」と主イエスに問いました。彼らは、問わざるを得ないのです。また昨日と同じことをされるかも知れないと思ったからです。

 主イエスは商売人を境内から追い出すことで、神殿での「犠牲を献げての礼拝」を阻止させておられます。私どもは、このことにまず聴きたいと思います。私どもの礼拝との違いは何か、本来守るべき礼拝とは何であるか、主は何と言われているのでしょうか。 鳩や羊などの小動物を犠牲として献げる礼拝は、神が望んでおられる礼拝なのでしょうか。
 犠牲の小動物は、人の罪を担っての身代わりとして献げるものです。他者犠牲による献げものです。人は、自分の罪のためには、自分の命をもって贖わなければなりません。ですから、礼拝では本来、人自らが献げられるべきです。しかし、できません。人は不完全ですから、不完全なものを献げての礼拝は、完全ではないのです。

 では、私どもの礼拝とは何でしょうか。何を献げているのでしょうか。十字架の主イエス・キリストを仰ぐ礼拝です。小動物をではなく、十字架の主イエス・キリストが献げられているのです。主イエスが犠牲として献げられる礼拝です。主イエス・キリストは神の御子です。その主を仰ぐ礼拝とは、神の御子が献げられている、神ご自身が献げられている礼拝なのです。小動物をもっての他者犠牲の礼拝ではない。神がご自身を献げられる、自己犠牲における贖いの礼拝なのです。それゆえに、完全です。人の為す不完全なものではない。神の完全、神の業として完全なのです。
 人の為す業は不完全です。裁きにおいても赦しにおいても不完全なのですから、たとえ自らを献げ得たとしても、不完全であることを知らなければなりません。自らを献げてこんなにまでしたのにとの思いや憎しみが残っても、裁きも赦しも完全にはなし得ない、人の力には限界があるのです。

 十字架の主イエス・キリストを仰ぐ礼拝こそ、すべてを完成できる全き礼拝です。全き裁きと全き赦しにおける完全な礼拝なのです。私どもの献げる礼拝とは、主イエスの尊い血潮をもってなされる礼拝です。それは神の業です。私どもの守る礼拝とは、「神が立てたもう礼拝に与ること」であることを忘れてはなりません。
 私どもが献げ、守っている礼拝は、神の恵みとしての礼拝、神の恩寵としての礼拝です。それは、主の十字架を痛みをもって仰ぎ、神への感謝をもって守る礼拝です。ですから、聖なる厳粛な礼拝に与っているのだという緊張感を失ってはなりません。

 敬虔なユダヤ人は、礼拝において多くの献げものをしました。律法の規定以上の献げものをして、自らの敬虔さを示したのです。その敬虔さはしかし、律法主義に陥るのです。
 そうではなく、私どもの守る礼拝は、神の御業として、神の恵みとして与る礼拝であり、まさしく「アーメン」と頂くものです。ですから、礼拝とは、守るべきものなのではありません。私どもの敬虔さに依らない。神の恵みに与る者として、神の御業に与る者として、欠くことのできない時です。私どもは、礼拝へと辿り着くのです。ここにこそ、完全な赦しと、神による完成があるからこそ、私どもは集わざるを得ません。集わないではいられないのです。そうでなければ、礼拝は、自らが自らの意志で守るものとなってしまうのです。

 主イエスが神殿の境内でなさったことは何か。それは、敬虔なユダヤ人たちの敬虔さの象徴であった「犠牲の献げもの」を退けられたということです。そして、主イエスは、主自ら犠牲の献げものとなってくださいました。ですから、私どもの礼拝は、神の恩寵として与る礼拝です。主イエスの十字架によって、私どもの罪は全く贖われたのです。主イエスが自らを献げてくださったからこそ守ることのできる礼拝であることを覚えたいと思います。

 「祭司長、律法学者、長老たち」とは、ユダヤの最高法院を組織する者たち、ユダヤの指導者たちです。その彼らが来て、主イエスに「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか」と問うております。彼らは、自分たちこそが「権威」であると思っているから、こう問うたのです。主イエスが境内でなさったことは、彼らにとっては由々しきことでした。と同時に、彼らの問いは、私どもがこれまで御言葉に聴いてきた主イエスの御業が何からの権威であるか、まさしく神からのものであったことを思い起こさせます。
 律法学者、ファリサイ派の人々からすれば、彼らのことを「偽善者」とまで言われる主イエスの教えは、到底受け入れられませんから、主のなさったことを不当なこととして問うております。神殿での出来事ですから、自分たちこそ神殿における権威であると思っている彼らにすれば、主の行為によって自分たちのしていることが非難されたことの不当さを思うのです。またそれだけではなく、中風の者や百人隊長が癒された主の癒しの御業は、「罪の赦しの宣言」によってなされた癒しでしたから、それは神を冒涜する業であるとして、敬虔なユダヤ人は主イエスを認めないのです。罪の赦しの宣言をなさるのは神ですから、神を冒涜する者として死に値すると、彼らの思いは主への殺意にあるのです。
 主イエスの御業は神の業であることを、私どもは御言葉から聴いてきました。この直前の箇所では、主の御言葉によって、いちじくの木が枯れたことが記されておりました。この世の一切の秩序を超えて支配なさる主イエスの上なる権威をもって、主が臨んでおられることを聴いてきたのです。

 けれども、ここで主イエスは、彼らの問いに対して「神の権威によって教えている」とは言われません。言わずに、主がなさることは何か。それは、29節〜30節「では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい」と、問われるのです。問うことによって、彼らに、「あなた方の思っている権威は、本当の権威なのか」ということを示しておられるのです。
 自分たちこそ権威であると思って、主イエスに「なぜ、そんなことをするのか」と問うている彼らに対して、「本当にあなたたちは権威なのか。何を権威と思っているのか、その内容を吟味しなさい」と問い返されるのです。

 ここで注目すべきことがあります。彼らは主イエスに「何の権威か」と問いますが、「ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか」という主イエスの問いは、「あなたたちのいうところの権威とは何か」です。内容が逆になっています。このことは、この地上を生きる上で大切にすべきことです。
 今の時代は、権力を持つ者が力で何でも押し通そうとする時代です。そこで、私どもキリスト者は、神を「権威」とする者として問わなければなりません。前提となっていること、「何を権威としているのか」と問うことで、そこに言う権威は何かを自覚させつつ歩まなければならないのです。
 真実な権威とは、相手が自ずと頭を垂れる権威です。偽りの権威は、相手を威圧し、萎縮させる、強制させる権威です。恵みに圧倒され、ただ「アーメン」と従う、それが神の権威です。主イエス・キリストの十字架をもっての神の救いの恵みに、自らすがりつく、頭を垂れる、それが真実の権威なのです。
 相手を威圧する、強制する権威は、悪しき力に過ぎません。
 主が問われるのはなぜか。それは「真実は何か」と考えさせるためです。真実な権威は、私どもを威圧し強制するのではなく、神の出来事は、恵みによって「主イエス・キリストにすがるよりない」と、人々を導く力です。

 主の問いは「ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか」というものでした。「天からのもの」の「天」とは「神」を指します。ユダヤ人は、神を直接「神」とは言いません。主イエスは神を「父なる神」と言われましたが、「神を天」と言うユダヤ人たちの敬虔さをも配慮して、主は問うておられます。

 バプテスマのヨハネは、人々に悔い改めを迫りました。それを「神からのものだった」と受け入れるか、「人々の人気を得るためだった」と取るか、どちらかしかありません。「天からか、人からか」のどちらかの答えしかないにもかかわらず、31節「彼らは論じ合った」と記されております。論じ合うことなど何もないのに論じ合っている、既にそこで彼らは負けているのです。何の権威か、権威についてしっかりした思いをもっていないことを明らかにしているのです。このように、権威について定まった思いを持っていないにもかかわらず、主イエスには「何の権威か」と問うているのです。

 群衆は、ヨハネのバプテスマを神からのものと受け入れているのですから、「人からのもの」とは言えない。33節「そこで、彼らはイエスに、『分からない』と答えた」とあります。「分からない」と言って、逃げたのです。彼らは主イエスに「権威」を問いながら、自らは権威を語れなかったのです。
 「分からない」とは、象徴的です。主イエスの前に、彼らは無力であることが示されております。論じ合った末に、自らの身の安全のために逃げたのです。主イエスの問いの前に、自らの無力さをさらすしかなかった、それがこの答えそのものです。

 彼らに、神からの権威について語っても無駄なので、主イエスは「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい」と言われました。 ですらか、彼らは去らざるを得ませんでした。
 このことは、この世のいかなる権威も、主イエスの前には、神の前には無力であることを示しております。
 今の日本の政治も同じでしょう。選挙となると人々に媚を売る、それは自分の無力さを示していることです。そんな政治が本当の意味で力ある政治でしょうか。

 教会は、この世の権威をもって立つのではありません。教会は、神の力をもって立っております。それゆえに、教会は、この世の力を恐れたり、人々の人気を求めることに魅力を感じる必要はないのです。教会はまさしく天国であり、神を畏れ、神の恵みを慕い求めるものとして、「真実な権威は神にある、この権威こそ、真実にあなたがたを救う力である」ことを示すのです。それが、教会に与えられている力であることを覚えたいと思います。

 私どもの礼拝は、まさしく天の国の御業です。ここでこそ、この礼拝においてこそ、「この地に神の恵みがある」ことを言い表しているのだということを覚えたいと思います。

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