2014年6月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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神を信じなさい | 2014年6月第1主日礼拝 2014年6月1日 |
北 紀吉牧師(文責/聴者) |
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聖書/マルコによる福音書 第11章20〜26節 | |
<20節>翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た。<21節>そこで、ペトロは思い出してイエスに言った。「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」<22節>そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。<23節>はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。<24節>だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。<25節>また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」<26節>もし赦さないなら、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちをお赦しにならない。 |
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主イエスがエルサレム入城を果たされたその3日目に、一行は再びエルサレムへと向かっております。そして、3日前に、実がなっていないいちじくの木に主イエスが「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われたいちじくの木のところを通りがかり、20節「あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た」と記されております。 21節「ペトロは思い出してイエスに言った。『先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています』」。ペトロは木が枯れているのを見て、主イエスが言われたことを「思い出し」、そして知りました。 ペトロはここで、枯れている木を見て、主イエスの言葉を思い起こしております。そして、そこで深くその内容を知り、御言葉の真実を知る、御言葉が真実であり、力であることを知るのです。ただ木が枯れたということを知ったということではありません。主イエスが言われたことが現実となる、力ある言葉であることを知ったのです。木が枯れているという現象に驚いているだけではありません。主イエスの言葉通りになったことを知ったのです。 御言葉の大きさを感じ取って、ペトロは「あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています」と言い、それに対して主イエスは、22節23節「『神を信じなさい』、…だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる」と言われました。これは難しいところです。この言葉を聞くと、信仰とは強い信念であると思ってしまうからです。けれども、果たしてそうでしょうか。 では、ここでの「信仰」とは何でしょうか。先ほどのこととの関連で言いますと、出来事を通して御言葉を思い起こす、それは自分の内的関心によってではなく、出来事という外的要因によって思い起こすということです。外からの刺激によって思い起こすのです。信仰とは、外からの働きかけによるのであって、自らの確信によらないということです。 「神を信じなさい」という言葉を、そのまま取ることはできます。日本語訳ではこうなりますが、けれども、元は、ここには独特な言葉が使われております。主イエスは「信じなさい」と命じておられます。ここで言われる信仰とは何かということです。「神に対する信仰」という言葉が使われております。「神を信じる信仰、神に対する信仰」と言われているのです。「信仰とは、神を信じることである」と言っている、これは、私どもは当たり前のことのように思っておりますが、「神以外のものを信じるのは信仰ではない」ことを示していることを知らなければなりません。この言葉が使われているのは、ここだけです。「神への信仰を信じる」とは味わい深い言葉です。 私どもは、人を信じられない時代を生きております。神を信じられないから、人を信頼することができなくなるのです。人は裏切る存在です。けれども、それでもなお信頼するのは、神を信じるからです。神を信じるところで、裏切りでしかないことを知りつつも、人を愛することができるのです。神を信じることなく、真実に愛することはありません。神を信じることなく愛することは、その愛が自分を満たすものかどうかを基準にするからです。 「神を信じなさい」と言われた主イエスは続けて「だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる」と言われました。どういうことでしょうか。難しいと思います。 神がこの身に働きたもう、それが山を動かす信仰です。神は、私どもの救いを起こしてくださいました。それは有り得ないことです。罪人を救うこと、それは山を動かすこと以上に難しいことです。 24節には「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」とあります。祈りの基本も同じことです。「明け渡すこと」あっての祈りなのです。私どもの祈りは、神に自分の思いを押し付けてしまいがちです。しかし、そうではない。祈りとは、自分を神に明け渡すことです。ですから、信じることと祈ることは通じております。 25節「だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい」とあります。神に明け渡しているならば、だれかを恨みに思うことはなく、執着はなくなるのです。ですから「赦し」は明け渡すことに繋がります。赦された者は、赦された者として赦すのです。赦された者として、赦してくださった神に明け渡すのです。 「そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる」とは、神の赦しの出来事、すなわち「十字架の出来事」が前提にあってこその赦しです。 |
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