聖書のみことば
2014年6月
6月1日 6月8日 6月15日 6月22日 6月29日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 神を信じなさい
2014年6月第1主日礼拝 2014年6月1日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/マルコによる福音書 第11章20〜26節

<20節>翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た。<21節>そこで、ペトロは思い出してイエスに言った。「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」<22節>そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。<23節>はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。<24節>だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。<25節>また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」<26節>もし赦さないなら、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちをお赦しにならない。

 主イエスがエルサレム入城を果たされたその3日目に、一行は再びエルサレムへと向かっております。そして、3日前に、実がなっていないいちじくの木に主イエスが「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われたいちじくの木のところを通りがかり、20節「あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た」と記されております。
 「見た」のは「一行」ですが、ここでは巡礼の旅路の一行ということではなく、「主イエスの弟子たちの一行」です。「いちじくの木の枯れていること」、それは主イエスには分かっていることですが、弟子たちは初めて見て、そして主が「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われたことの意味が分かったのです。3日前には、弟子たちは、主がいちじくの木に対して言われたことを理解できませんでしたが、ここで「いちじくが枯れている」のを見ることによって、主の言葉は「いちじくを枯らすことだった」と知ったのです。

 21節「ペトロは思い出してイエスに言った。『先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています』」。ペトロは木が枯れているのを見て、主イエスが言われたことを「思い出し」、そして知りました。
 私どもも、そういうことがないでしょうか。御言葉を聴いていても解らないと思うのです。けれども、御言葉とは、聞いて悟るものではありません。様々な経験を通して、聴いた御言葉が私どもの内に甦るのです。
 信仰の出来事は、御言葉を思い起こすこと、想起です。主イエスの言葉が自分のものとして響いてくる、それが信仰の出来事です。信仰とは、聴いて調べて、理解するということではありません。思い起こされること、それが信仰です。私どもは、様々な事柄に出会って、実感していくのです。「ああ、これが大切なこと、わたしに与えられた御言葉だ」と、御言葉を思い起こすのです。御言葉を思い起こすところに、私どもの信仰があるのです。
 このことを思いますときに、さまざまに経験をする者として、だからこそ、日々、御言葉に接していることが大事です。まったく聴いていない、親しんでいなければ、思い起こしようがありません。理解できるかできないかが問題なのではなく、常に御言葉に聴いていることが大事なのです。さまざまな経験の中で、その言葉が思い起こされ、そしてそこで慰めを受け、力を与えられるのです。
ですから「分からなくても良い」、そのような豊かさをもって御言葉を聴きたいと思います。分からないからこそ続くのです。分かってしまえば、そこで終わりです。何よりも、日々に御言葉に接していることが大事なのです。

 ペトロはここで、枯れている木を見て、主イエスの言葉を思い起こしております。そして、そこで深くその内容を知り、御言葉の真実を知る、御言葉が真実であり、力であることを知るのです。ただ木が枯れたということを知ったということではありません。主イエスが言われたことが現実となる、力ある言葉であることを知ったのです。木が枯れているという現象に驚いているだけではありません。主イエスの言葉通りになったことを知ったのです。
 私どもも、御言葉を思い起こすとき、慰められ力を与えられます。涙を拭ってくれる真実な力ある御言葉だと知る。それが御言葉を知るということです。

 御言葉の大きさを感じ取って、ペトロは「あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています」と言い、それに対して主イエスは、22節23節「『神を信じなさい』、…だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる」と言われました。これは難しいところです。この言葉を聞くと、信仰とは強い信念であると思ってしまうからです。けれども、果たしてそうでしょうか。
 マタイによる福音書にも同じ個所がありますが、そこでは「からし種一粒ほどの信仰があれば」と言っております。つまり、有るか無いか分からないような信仰と言っているのです。けれども、マルコではそのところは省かれております。信仰とは有るか無いかであって大きさは関係ない、それがマタイによる福音書の視点です。信仰があれば、山は動くと言っているのです。信仰の大きさ小ささを言っていないのです。このように、信仰とは有るか無いかであって、大きさに関係ないことを知らなければなりません。

 では、ここでの「信仰」とは何でしょうか。先ほどのこととの関連で言いますと、出来事を通して御言葉を思い起こす、それは自分の内的関心によってではなく、出来事という外的要因によって思い起こすということです。外からの刺激によって思い起こすのです。信仰とは、外からの働きかけによるのであって、自らの確信によらないということです。
 このことを究極的に言いますと、外なる神の働きかけによって、御言葉が思い起こされるということです。自ら理解したと思うことは、神の力を感じていないことです。「信仰」の出来事は「神の働きかけ、聖霊の出来事としての想起」です。信じることは、外からの働きかけがあってのことなのです。
 使徒パウロは、このことを鮮やかに経験した人でした。パウロは、自らの確信によってはキリスト者を迫害する者でしたが、その彼に復活の主イエス・キリストが臨み、御言葉をいただくことによって、突然の神の働きかけによって、パウロは救いを得ました。そしてそれだけではなく、宣教する者へと変えられました。パウロは「使徒であることは恵みの出来事である」と言っています。救いに与ったことと福音宣教する者となったことが同時であり「二重の恵みである」と言っているのです。
 信仰は恵みの出来事、神によって与えられた出来事です。信仰は、神からの出来事として、恵みなのです。

 「神を信じなさい」という言葉を、そのまま取ることはできます。日本語訳ではこうなりますが、けれども、元は、ここには独特な言葉が使われております。主イエスは「信じなさい」と命じておられます。ここで言われる信仰とは何かということです。「神に対する信仰」という言葉が使われております。「神を信じる信仰、神に対する信仰」と言われているのです。「信仰とは、神を信じることである」と言っている、これは、私どもは当たり前のことのように思っておりますが、「神以外のものを信じるのは信仰ではない」ことを示していることを知らなければなりません。この言葉が使われているのは、ここだけです。「神への信仰を信じる」とは味わい深い言葉です。
 改めて受け止めたいと思います。今は、神を信じなくなっている時代です。神以外のものを信仰してしまうのです。そのような私どもに、「あなたは何を信じているのか」と、主イエスは問うておられます。「神以外を信じることは、信仰ではない」ことが言われているのです。
 自然科学が言い表していることと、信仰が言い表していることとは違います。科学が万能だと思うことは、人の傲りであり罪深さであることを知らなければなりません。人は科学技術に原子力安全神話を作り出しました。その結果、人の手に負えないことが起こり、地は呪われました。科学万能と信じていたことを、痛みと悲しみをもって思い起こさなければなりません。
 また、お金も同様です。経済が第一となると、すべてがお金で判断されるのです。昔は、お金が無くても人は生きていけたのですが、しかし今は、お金が無ければ生きていくことができません。お金を第一とするならば、人は自らを呪う者になってしまうのです。
 ですから、ここで「神を信じることこそが信仰である」と言われていることは重いことであることを知らなければなりません。神以外のもの、自らが作り出した偶像を信じることは、人の尊厳を傷つけ、また自ら呪うものとなることです。

 私どもは、人を信じられない時代を生きております。神を信じられないから、人を信頼することができなくなるのです。人は裏切る存在です。けれども、それでもなお信頼するのは、神を信じるからです。神を信じるところで、裏切りでしかないことを知りつつも、人を愛することができるのです。神を信じることなく、真実に愛することはありません。神を信じることなく愛することは、その愛が自分を満たすものかどうかを基準にするからです。
 では、神を信じるからこそ真実に愛するとは、どういうことでしょうか。ご自身が損をしてまで救いを為してくださったお方を信じるのですから、そこにしか、自らが損を覚悟しての愛はないということです。
 ですから、ここで「信仰とは、神を信じること」と言われていることの内容は重いと言わなければなりません。

 「神を信じなさい」と言われた主イエスは続けて「だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる」と言われました。どういうことでしょうか。難しいと思います。
 結論は、「神に自らを明け渡す」ということです。自ら意を決して信じる、という信じ方ではなく、「神に明け渡す、そこでこそ神が働きたもう、だから有り得ないことも起こる」ということなのです。山が動くと、強く信じなさいと言っているのではありません。「神に自分を明け渡しなさい、そうすれば、そこでこそ神が働いてくださる」と言っているのです。自分が固く信じるという尺度ではない。まったく自分には何もない、だから神に明け渡す、神の御旨こそがなる、それが私どもにとっての最上です。
 信仰とは、有るか無いかのどちらかです。神がすべて、それが信仰です。自分に少しは何かがあると思えば、何も起こりません。
 今の時代、山を動かすことは、人にもできるようになりました。山を削ったり形を変えたりできるようになった、しかしそれは素晴らしいことなのでしょうか。それが、神無しにすることであれば、生態系を破壊し、人を呪うことになるのです。

 神がこの身に働きたもう、それが山を動かす信仰です。神は、私どもの救いを起こしてくださいました。それは有り得ないことです。罪人を救うこと、それは山を動かすこと以上に難しいことです。
 ですから「信じること」は「神がこの身に働かれること」であり、それは、山が動くこと以上の大いなることなのです。

 24節には「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」とあります。祈りの基本も同じことです。「明け渡すこと」あっての祈りなのです。私どもの祈りは、神に自分の思いを押し付けてしまいがちです。しかし、そうではない。祈りとは、自分を神に明け渡すことです。ですから、信じることと祈ることは通じております。
 主イエスのゲッセマネの祈りは、「この杯を取りのけてください」との願いに続けて、最後には「御心がなりますように」と、神にご自身を明け渡された祈りでした。主イエスにも葛藤はあった、しかし、最後には明け渡されました。ですから、私どもの祈りにおいても、主イエスがそうであられたように、葛藤はあっても良いのです。しかし「明け渡すことでこそ祈りである」ことを覚えたいと思います。
 祈りは、神の御心を畏むことです。明け渡さずして、畏むことはありません。「すべて既に得られたと信じなさい」とは、「明け渡しているならば、神の御心がなるのは当然である」と言ってくださっているのです。神に明け渡すとき、そのときその人は、神の支配のうちにある、神の秩序、神の御国のうちにあるのです。

 25節「だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい」とあります。神に明け渡しているならば、だれかを恨みに思うことはなく、執着はなくなるのです。ですから「赦し」は明け渡すことに繋がります。赦された者は、赦された者として赦すのです。赦された者として、赦してくださった神に明け渡すのです。

 「そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる」とは、神の赦しの出来事、すなわち「十字架の出来事」が前提にあってこその赦しです。
 主イエスは、「赦しなさい」と言ってくださっております。私どもが赦すことによって、私どもは更に「神に赦されているという恵みをなお深く知るようになる」と言ってくださっているのです。感謝です。

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