2014年5月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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わたしの家は祈りの家 | 2014年5月第4主日礼拝 2014年5月25日 |
北 紀吉牧師(文責/聴者) |
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聖書/マルコによる福音書 第11章15〜19節 | |
11章<15節>それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。<16節>また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。<17節>そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった。」<18節>祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである。< 19節>夕方になると、イエスは弟子たちと都の外に出て行かれた。 |
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主イエスはエルサレム入城を果たされ、翌日再びエルサレムに来ておられます。主イエスは神殿の境内に入られました。ユダヤ人にとって神殿に来るのは、献げものを献げて神を礼拝するためですが、しかし、主イエスはそうなさらないのです。エルサレムに行く「一行」とは、エルサレム神殿への巡礼団を意味するのですが、しかし、主イエスが過越祭に合わせて来ておられるのは、過越=十字架の時だからです。けれども、主の弟子たちは過越祭とその後の仮庵祭のために来たと思っております。 ユダヤ人にとっての祭り、それは、そこで神の恵みを思い起こし献げものをするときです。日本人の祭りの感性とは違っております。 日常性からの究極を解放、それは「礼拝である」としたのが、キリスト教です。日常を「悔い改めと感謝」と捉えるのです。それは「日々新しく恵みを覚える生活」です。日常は汚れなのではありません。神が赦し、神によって整えられた感謝と喜びの生活、それがキリスト者の日常です。 主イエスはしかし、エルサレム神殿へ、礼拝するために来られたのではありませんでした。15節「イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された」と記されております。そこは境内ではありますが、神殿の周りにある庭で異邦人の庭とも呼ばれ、神殿の内側の神を礼拝する聖なる場所ではありませんでした。ですから、異邦人も入れましたし、商売する者もいたのです。神殿への献げものである聖い家畜を売る者や、神殿に献げるのに相応しい貨幣を両替する者がいたのです。 この話は「枯れたいちじくの木」の話と繋がっております。マルコによる福音書では、一般的に「宮清め」と言われるこの話が、いちじくの木の話の間に入っております。季節でもないのに実がならないからと言って枯れたいじちく、それは「実を結ばないイスラエルに対する裁きである」と、先週、お話ししました。そのことと、この箇所は、「神の裁き」という点で繋がっているのです。 16節「境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった」とは、敬虔な者であれということです。そして「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである」と教えられました。 神との交わりは、イスラエルだけのものではありません。「すべての国の人」のためのものです。「すべての国の人」のためとは、マルコによる福音書にだけ出て来る言葉です。ですから、マルコはこのことを強調しているのです。ユダヤ人だけの礼拝を否定し、すべての国の人のための礼拝へと、道を拓いているのです。ユダヤ人だけの礼拝を否とし、神の恵みをすべての国の人が与れるようにされた、それが、主イエスがここでなさった「宮清め」なのです。 ここで大事なことは、「祈りとは何か」ということです。祈りとは、自分の願望ではありません.人は、祈りにおいても傲慢で、神に対して自分の願望を強要する、それが人の罪深さということです。 宗教改革における礼拝改革の中心にあったことは何か。それは「祈りの形」です。カトリック教会は式文によって礼拝を整えます。聖餐と儀式に基づく礼拝の形です。プロテスタント教会は、それを改革し、祈りの形をもって礼拝を整えました。式文ではなく、自由な祈りによるのですから、プロテスタントの場合は教会によってそれぞれに違いがあります。けれども、祈りの形をもって整えられる礼拝であることは同じです。 私どもの祈りにおいても、聖霊はお働きくださいます。神の霊が、私どもの心を動かしてくださって、祈るのです。聖霊が働く場、それが祈りとしての礼拝なのです。ですから、私どもの教会は、宗教改革において与えられたこの祈りの形としての礼拝を大事にしなければなりません。そしてまた、今日、この聖書の箇所を通して、主イエスが祈りとしての礼拝の形を示してくださっているのですから、それは私どもにとって大事なことなのです。このようにして、主が「わたしの家は祈りの家」と言われたことが、私どもの礼拝と繋がっているのだということを覚えたいと思います。 18節「祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った」とあります。主イエスはそれまで守られてきた礼拝を成り立たなくするような行為に及んだわけですから、神を冒涜する者として、祭司長たちが「殺そうと謀った」ということも当然と言えます。 続けて、「群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである」とあります。主イエスの教えには権威があった、圧倒する力を感じた、だから、人々は主を恐れたのです。主イエスの言葉には力がある。それは主の言葉には聖霊が働いているからです。 19節「夕方になると、イエスは弟子たちと都の外に出て行かれた」とあります。ここもまた、すごいと思います。ここを読みますと、弟子たちは、この出来事に何も感じなかったようです。何も発言しておりません。多分、主イエスのなさったことが全く理解できなかったから、聞くこともできない、それが主の弟子の姿であろうと思います。 改めて思います。私どもは、何も分からなくても良いのです。それでも、主イエスが「あなたは、わたしのもの」と言ってくださり、弟子としていてくださる、そのことだけ分かっていれば良いのです。そうすれば、何かにつまずいた時には、その主の恵みの大きさを、骨身に沁みて感じることでしょう。 |
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