2014年5月 |
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5月4日 | 5月11日 | 5月18日 | 5月25日 | |||
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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憐れみをこう | 2014年5月第1主日礼拝 2014年5月4日 |
北 紀吉牧師(文責/聴者) |
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聖書/マルコによる福音書 第10章46〜52節 | |
10章<46節>一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた。<47節>ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。<48節>多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。<49節>イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」<50節>盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。<51節>イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。<52節>そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。 |
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主イエスは、弟子たちや主に従う大勢の群衆とエリコの町に入られました。ここで知らなければならないことは、このエリコの町で起こった出来事が大事なのではなく、「主イエスはエリコの町から出て、そしてエルサレムに入られるのだ」ということです。エリコの町を最後にして、そしてエルサレムに入られる、そのことが重要なことです。つまり、ここから主イエスの十字架への道、主のご受難が始まるのです。なぜエリコの町が最後なのかということについては、これから語ってまいります。 46節「イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた」とあります。「ティマイの子で、バルティマイ」と言われておりますが、「バル」が「子」という意味ですから「バルティマイ」で「ティマイの子」であると分かるのです。ですから、ティマイが教会の中で特別有名な人だったから「ティマイの子で、バルティマイ」と丁寧に記したのということではなく、ギリシャ語を語る人々にも分かるように記されたことの名残であると思われます。けれども、ティマイはともかく、バルティマイについては、初代教会で名を知られた人でした。それだけ、この出来事はよく教会で語られた出来事であるということです。 主イエスがエリコを立ってエルサレムに行こうとする、その時に、バルティマイは、47節「ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、『ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください』と言い始めた」と言われております。盲人のバルティマイは、主イエスをどんな方かと思っていたでしょうし、また、どんな方かを、物乞いをしながら、主に従う人たちに聞いたことでしょう。そして彼は、主イエスに対して「ダビデの子イエスよ」と呼びかけました。 バルティマイは、主イエスについて、どんなことを聞いていたのでしょうか。ペトロのしゅうとの癒し、中風の人の癒しなど、様々な主の癒しの業について聞いていたことでしょう。そして、人々を癒す方、神なる方だと聞いたのです。 48節「多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、『ダビデの子よ、わたしを憐れんでください』と叫び続けた」と記されております。バルティマイに対して、弟子たちは、心ない者です。「可哀想に」とは思わないのです。しかしで弟子だけではなく、私どもは皆そうでしょう。心ない者、それでも弟子たちは「主イエスの弟子とされている」ことを覚えたいと思います。 けれども、致し方ないと、それで済んでよいかどうかは別です。憐れむことはできなかったとしても、他に出来ることもあったのです。 ここで、方向性ということを考えたいと思います。弟子たちや主イエスに従う者たちは主へと向かわず、訴えているバルティマイに向かっています。けれども、訴えているバルティマイは、主イエスに向かっているのです。これはおかしなことです。主イエスに従う者たちが主に向かっているのではなく、人に向かっている、それは本末転倒な方向に向かっているのですから、「黙らせようとした」ということになるのです。 主イエスは、49節「あの男を呼んで来なさい」と言ってくださいました。いつもながら有り難いことです。弟子たちは、主から怒られたりしておりません。そうではなく、主は立ち止まってくださっております。そして、弟子たちの無力さが明らかになったところで、行動を起こしてくださるのです。 49節には、主イエスの言葉を聞いて、人々が盲人を呼んで「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」と言ったと記されております。耐えられない、無力で苛立つしかない、どうしようもない弟子たちが用いられているとは、何と有り難いことでしょうか。主イエスが弟子たちをお用いになるのは、癒しの業をさせるためではありませんでした。そうではなくて、人を主イエスの元に連れて行くことのために、用いられたのです。 50節「盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た」と記されております。主が呼んでくださることが、躍り上がるほど嬉しかったのです。「躍り上がってイエスのところに来た」というのですから、盲人でありながら手を引いてくれる導き手を必要としなかったということでしょう。自分一人で行くのです。主イエスの御言葉には力があるのです。 51節「先生、目が見えるようになりたいのです」と、盲人は言います。ここでの「先生」は、一般的に使われる「ラビ」という言葉よりも、もう少し尊敬を込めた言葉が使われています。 「盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った」と、続いております。「行きなさい」と主に言われたのに、バルティマイは、主に従いました。エルサレムへ、苦難と十字架への道を進まれる主イエスに従ったのです。 そういうことから、初代教会は、このバルティマイに起こった出来事を繰り返し語り、語り継いでいったのです。 |
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