2014年5月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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主の名によって来られる | 2014年5月第2主日礼拝 2014年5月11日 |
北 紀吉牧師(文責/聴者) |
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聖書/マルコによる福音書 第11章1〜11節 | |
11章<1節>一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、<2節>言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。<3節>もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」<4節>二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。<5節>すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。<6節>二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。<7節>二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。<8節>多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。<9節>そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。<10節>我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」<11節>こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。 |
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いよいよ、主イエスが弟子たちの一行を伴ってエルサレムに入られます。これから、エルサレムを中心にして話が展開してゆくのです。 1節「一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき」とあります。主イエスがエルサレムに入られる準備の場面、それが今日の箇所です。 「ベトファゲとベタニア」は、位置的には、ベトファゲの方がエルサレムに近い場所です。ですから、主が歩かれた順番に「ベトファゲ、ベタニア」と記されていると考えると、おかしなことになります。そのために、どうしてこの順番なのかと疑問を持つ者もいるのです。いろいろな解釈がありますが、一つの理解は、この福音書の筆者であるマルコが、オリーブ山やエルサレムの地形をよく知らなかったのだろうという合理的な理解ですが、しかし、確かではありません。また、どちらが近いということではなく、エルサレムに近い二つの町の名を挙げただけだと大雑把に考える人もおります。これらのことはどちらでも良いことのようですが、しかし、このようなことにも大切なことがあるのではないかと思っております。 1節「イエスは二人の弟子を使いに出そうとして」とあります。「二人の使い」は、王の正規の使者であることを示しております。主イエスのエルサレム入城に際して必要なものを整えるための使者です。ここでは、子ろばを整えるのです。 続けて「それをほどいて、連れて来なさい」と言われ、その上で、3節「もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい」と、二人が言うべき言葉までも教えてくださっております。主イエスの御言葉に聴くことは、キリストに従う者として、私どもが語るべき言葉を与えられることです。御言葉に聖霊が働くのです。聖霊の力を頂いて、語るべき言葉を獲得するのです。 「だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら」とは、違和感のある言葉です。この場面を思い浮かべてみるならば、二人が勝手に子ろばをほどいているのですから、多分「泥棒!」とか「何をしてるんだ!」と、その行いを非難する言葉を発するのが一般的ではないでしょうか。ところが、ここでの問いは、そうではないのです。責めるのではなく「なぜ、そんなことをするのか」と、「何のために、そんなことをしているの?」と、そうしている目的を問うております。知っている人であればいざ知らず、知らない人が勝手なことをしているのですから、私どもであれば「泥棒!」と言うことでしょう。けれども、主イエスは、「あなたたちは、泥棒!とは言われない、『なぜそうするのか』と理由を聞かれるから、こう答えなさい」と教えてくださるのです。 そして実際に、すべてのことは主の言われたようになります。二人が主に教えられた通りに答えると、問うた人は許してくれました。このようにして、理由を問うた者も、主の御業に参与することになったのです。「問う者」と、主は既にその人を定めておられたのです。問うことで、主の御業に協力する者としてくださっているのです。ですから、この出来事は、たった二人の弟子に起こった出来事なのではありません。これは大変大きいことです。用いられている者だけではなく、用いられている者に関わっている者も、主の御業に参与しているのです。 ここで大事なことは、全てが、主イエスの言われた通りであるということです。全ては、主によって成し遂げられるということです。主が成し遂げてくださるのです。このことの中心にあることは、「救い」です。救いは、主イエスによって全て成し遂げられるのだということが示されております。私どもの行いが、救いを成し遂げるのではありません。主が私どもの救いを成し遂げてくださるのです。 主イエスは、鞍の代わりに服をかけ、子ろばにまたがって進まれます。8節「多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた」とは、服を絨毯としたということです。それは、王の行進を意味します。「葉の付いた枝」は、ヨハネによる福音書では「棕櫚の葉」ですが、ここでは特定はできません。 「主の名によって来られる方」と言われております。名は体を表すと言いますが、「主の名」と言うとき、神そのものを婉曲な形で言っております。「神が来られる」と言っているのです。主イエスがこの地上に来られたことの内容は、この一言に尽きるのです。主イエス・キリストの到来、神の到来を告げているのです。 10節「我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」。「ダビデの来るべき国」とはメシアの国、すなわち神を信じる民に祝福があるようにと言い、「いと高きところ」、まさしく天にある救いの出来事が、今ここにあるのだと言っております。 そして主イエスは、11節「エルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた」と記されております。ベタニアとありますから、ベタニアに戻ったのかも知れませんが、しかし、場所は特定しないということが豊かさであると覚えたらよいかと思います。 もう一つ、丁度一ヶ月前にルカによる福音書から聴きましたが、どうして主は子ろばに乗られたのでしょうか。王の入城であれば、王が乗るのは軍馬です。それは、王の政治的、軍事的支配を表します。 そして私どもは、子ろばに乗る王を信じることによって、救いに与るのだということを覚えたいと思います。 |
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