聖書のみことば
2014年5月
  5月4日 5月11日 5月18日 5月25日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

「聖書のみことば一覧表」はこちら 音声でお聞きになりたい方は
こちらまでご連絡ください
 

 主の名によって来られる
2014年5月第2主日礼拝 2014年5月11日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/マルコによる福音書 第11章1〜11節

11章<1節>一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、<2節>言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。<3節>もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」<4節>二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。<5節>すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。<6節>二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。<7節>二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。<8節>多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。<9節>そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。<10節>我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」<11節>こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。

 いよいよ、主イエスが弟子たちの一行を伴ってエルサレムに入られます。これから、エルサレムを中心にして話が展開してゆくのです。
 一行は、エルサレムに巡礼に来たつもりです。過越祭、除酵祭と、祭りを祝うのですから、気分も高揚しております。

 1節「一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき」とあります。主イエスがエルサレムに入られる準備の場面、それが今日の箇所です。
 ゼカリヤ書14章4節には「その日、主は御足をもって、エルサレムの東にあるオリーブ山の上に立たれる。オリーブ山は東と西に半分に裂け、非常に大きな谷ができる。山の半分は北に退き、半分は南に退く」と記されております。「その日」とは、「主の日、終わりの日の裁きの日」です。主がイスラエルを裁くために来て、立たれる場、それがオリーブ山であると預言されております。ですから、ここで「オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニア」と、「オリーブ山」が言及されていることは大事なのです。「オリーブ山」と言うことで、これから起こる出来事、終わりの日の最後の審判を担う救い主、「メシアの到来を告げて」いるのです。

 「ベトファゲとベタニア」は、位置的には、ベトファゲの方がエルサレムに近い場所です。ですから、主が歩かれた順番に「ベトファゲ、ベタニア」と記されていると考えると、おかしなことになります。そのために、どうしてこの順番なのかと疑問を持つ者もいるのです。いろいろな解釈がありますが、一つの理解は、この福音書の筆者であるマルコが、オリーブ山やエルサレムの地形をよく知らなかったのだろうという合理的な理解ですが、しかし、確かではありません。また、どちらが近いということではなく、エルサレムに近い二つの町の名を挙げただけだと大雑把に考える人もおります。これらのことはどちらでも良いことのようですが、しかし、このようなことにも大切なことがあるのではないかと思っております。
 あまり大雑把でもいけないでしょう。何も気にしなくても良いのかもしれません。けれども、この記述によって意図的に二つの町の名が記されていると考えるならば、そのことによって、ある特定の町や村ということではなく、町や村が広がりを持つのです。そうであるならば、このような詮索も良いのかもしれません。
 例えば、2節「向こうの村へ行きなさい」とありますが、では「向こうの村」とはどこかということになるでしょう。マタイによる福音書では、ベトファゲという名のみ出てきますので、向こうの村はベトファゲ以外にはないのです。マルコでは、ベトファゲに加えてベタニアも記されますが、もし向こうの村がベタニアで、そこで子ロバを借りたとすると、遠いのですから返すのも大変になるでしょう。一体どちらなのか、はっきりすっきりしていた方が良いのでしょうが、しかし、大雑把で良いということもあるのです。
 ここで、「向こうの村」が特定できなければ、どうなるでしょうか。そこは「ベトファゲでもあり、ベタニアでもある」と理解するのです。それは、どこの町であろうと村であろうと、主イエスがお用いになるものがある、主が用いられる人や大切なものがそこにあることを意味します。ですから、特定するよりも、広く展開させることができるのです。ベタニアでもベトファゲでも良い、主イエスが必要とし用いたもうものがそこにあることが示されているのです。
 そして、そうであれば有り難いことです。主イエスは二つの町にあるものを用いられたとすれば、それは、私どもをもお用いになることを示されるからです。ある場所が特定されると、それはそこだけのこととして狭いかもしれませんが、特定されないことによって、そこに私どもも含まれていることを思うことが出来るのです。主イエスは、私どもを「お入り用」として用いてくださるお方です。それが、この二つの名が記されていることによって示されているのです。

 1節「イエスは二人の弟子を使いに出そうとして」とあります。「二人の使い」は、王の正規の使者であることを示しております。主イエスのエルサレム入城に際して必要なものを整えるための使者です。ここでは、子ろばを整えるのです。
 二人は、主イエスから言葉を頂いて出かけます。2節「村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる」と、主イエスは、そこに何があるかご存知で、二人に全て分かるように話してくださっております。これは、私どもにはなかなかできないことです。「あそこから、あれを持って来なさい」と言われても、大概はどれだか分からず迷うものですが、主は「村に入ると、子ろばのつないであるのが見つかる」と、二人が迷わないように指示してくださるのです。
 名将、リーダーの最も大事な条件は判断力であると言われますが、多くの情報の中からこれだと判断し決断することは難しく、多くの人は様々に迷う者です。しかし、主イエスは、私どもが迷わず分かるように言葉をくださる。それは、主の言葉、神の言葉は私どもに判断力をもたらす言葉であるということを示しております。主イエスの御言葉こそ、私どもの導きなのです。

 続けて「それをほどいて、連れて来なさい」と言われ、その上で、3節「もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい」と、二人が言うべき言葉までも教えてくださっております。主イエスの御言葉に聴くことは、キリストに従う者として、私どもが語るべき言葉を与えられることです。御言葉に聖霊が働くのです。聖霊の力を頂いて、語るべき言葉を獲得するのです。
 私どもは、主イエスに信頼しきれない、だから迷うのです。主イエスに従っている者は、主の御言葉を常に聴いているのですから、迷うことはありません。
 「誰も乗ったことのない子ろば」と言われておりますが、「誰も乗ったことのない」とは、どういうことでしょうか。それは、主イエスの御用のためにこそ備えられているもの、聖なるものということです。主がその目的のためにお用いになる、そのために特別に聖別されたものということです。

 「だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら」とは、違和感のある言葉です。この場面を思い浮かべてみるならば、二人が勝手に子ろばをほどいているのですから、多分「泥棒!」とか「何をしてるんだ!」と、その行いを非難する言葉を発するのが一般的ではないでしょうか。ところが、ここでの問いは、そうではないのです。責めるのではなく「なぜ、そんなことをするのか」と、「何のために、そんなことをしているの?」と、そうしている目的を問うております。知っている人であればいざ知らず、知らない人が勝手なことをしているのですから、私どもであれば「泥棒!」と言うことでしょう。けれども、主イエスは、「あなたたちは、泥棒!とは言われない、『なぜそうするのか』と理由を聞かれるから、こう答えなさい」と教えてくださるのです。
 また、この二人の使者の行動を見て、どうして周りの人たちは落ち着いていられたかも疑問です。それは多分、この二人が泥棒には見えなかったということでしょう。二人が何かを盗むつもりであれば、どこかそわそわした様子であったことでしょう。けれども、二人は何も盗むつもりは無いので、ごく自然な態度で行動しているのです。邪気が無かった、怪しい雰囲気がなかった、だから見ていた人たちから非難されることがなかったのでしょう。
 主イエスの御業を為すということは、ごく自然なことだったということです。主の御業に付くことは、私どもにとっては、自分の利益やよこしまな思いを持たずに行動できるという導きがあるのです。素直に、御業に付くことができるのです。もし、自分の利益を求めるためなら、怪しい態度になるのです。

 そして実際に、すべてのことは主の言われたようになります。二人が主に教えられた通りに答えると、問うた人は許してくれました。このようにして、理由を問うた者も、主の御業に参与することになったのです。「問う者」と、主は既にその人を定めておられたのです。問うことで、主の御業に協力する者としてくださっているのです。ですから、この出来事は、たった二人の弟子に起こった出来事なのではありません。これは大変大きいことです。用いられている者だけではなく、用いられている者に関わっている者も、主の御業に参与しているのです。

 ここで大事なことは、全てが、主イエスの言われた通りであるということです。全ては、主によって成し遂げられるということです。主が成し遂げてくださるのです。このことの中心にあることは、「救い」です。救いは、主イエスによって全て成し遂げられるのだということが示されております。私どもの行いが、救いを成し遂げるのではありません。主が私どもの救いを成し遂げてくださるのです。

 主イエスは、鞍の代わりに服をかけ、子ろばにまたがって進まれます。8節「多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた」とは、服を絨毯としたということです。それは、王の行進を意味します。「葉の付いた枝」は、ヨハネによる福音書では「棕櫚の葉」ですが、ここでは特定はできません。
 主イエスは、子ろばに乗って、よたよたと進まれます。そして、9節「前を行く者も後に従う者も叫んだ。『ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように』」と叫びます。「ホサナ」とは、「救ってください」との祈りです。「今こそ救いがあるように」と、救い主として主イエスが今おられることを示しております。

 「主の名によって来られる方」と言われております。名は体を表すと言いますが、「主の名」と言うとき、神そのものを婉曲な形で言っております。「神が来られる」と言っているのです。主イエスがこの地上に来られたことの内容は、この一言に尽きるのです。主イエス・キリストの到来、神の到来を告げているのです。
 主イエスは、私どものところにおいでくださった神です。ゆえに、主イエス・キリストを信じるときに、私どもは、この世において神の救いに与るのです。この世に神が来たりたもう幸いなのです。私どもが神になる必要はないからです。私どもは、自らの力で神に至る必要はないのです。自らの力で神に至ったら救われるということであれば、一生懸命努力しなければなりませんが、人には限界があります。人は衰えていくばかりですから、それでは救いはないのです。私どもは、自助努力で救われるのではありません。神が私どものところに来てくださったのです。神の方で私どものところに来てくださるがゆえに、私どもは神と出会い、神との交わりに入れられ、救いの恵みに与るのです。それが「神の到来」です。ですから、神が、主イエスとして私どものところにおいでくださったこと、それこそが私どもの大いなる恵みなのです。

 10節「我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」。「ダビデの来るべき国」とはメシアの国、すなわち神を信じる民に祝福があるようにと言い、「いと高きところ」、まさしく天にある救いの出来事が、今ここにあるのだと言っております。

 そして主イエスは、11節「エルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた」と記されております。ベタニアとありますから、ベタニアに戻ったのかも知れませんが、しかし、場所は特定しないということが豊かさであると覚えたらよいかと思います。

 もう一つ、丁度一ヶ月前にルカによる福音書から聴きましたが、どうして主は子ろばに乗られたのでしょうか。王の入城であれば、王が乗るのは軍馬です。それは、王の政治的、軍事的支配を表します。
 では、子ろばが表すものは何か。それは、弱々しさ、無力さです。それは、罪ゆえに弱くなる者、また強がるほどに弱くなっている者も含みます。強がっていることの弱さということも知らなければなりません。罪ゆえに、偉ぶろうとするほどの醜さです。そのような私どもの罪ゆえの無力さ、醜さの救いを担うものとして、子ロバに乗る王なのです。

 そして私どもは、子ろばに乗る王を信じることによって、救いに与るのだということを覚えたいと思います。
 エルサレム入城というとき、それは、主を信じる者たちのところに来りたもう主をお迎えすることです。信じるとは、迎えることなのです。
 主がエルサレムに入られました。私どももまた、主イエスを救い主としてお迎えしたいと思います。それが「信じる」ということです。

このページのトップへ 愛宕町教会トップページへ