3節「イエスがベタニアで」と記されております。「ベタニア」と言いますと、2つの場所が思い出されます。
一つは、ヨルダン川の向こう側で、バプテスマのヨハネが洗礼を授けていた場、主イエスが洗礼を受けられた場所です。
そしてもう一つは、オリーブ山の南東のふもと、エルサレムから3キロ離れたベタニア村です。このベタニア村には、主イエスが蘇らせたラザロと、姉妹のマルタ、マリアが住んでおりました。今日でもここにはラザロの墓があると聞きます。主イエスの御業が鮮やかに覚えられている場所ベタニア、そして、ラザロは主イエスの復活を思い起こさせるのです。
今日の箇所に記されたベタニアは、このベタニア村のことです。ラザロの出来事と並ぶ出来事として語られるもう一つの出来事、それが今日の箇所です。一人の女が主イエスに高価な香油を注ぎ、それを主は、ご自身の葬りの準備と言ってくださいました。ベタニアは、一方で復活の地であり、一方で葬りの準備の場として、主イエスの「十字架と復活」という御業を思い起こさせる重要な場所なのです。
ベタニア村で、主イエスは「重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき」と言われております。「重い皮膚病の人シモン」と言いましても、今のシモンがらい病かというと、そうではありません。かつてはそうだったということです。らい病人は共同体から離されて生活しておりました。その病の人が家にいるのですから、シモンは「癒されている」ことが前提にあるのです。敢えて「重い皮膚病の人シモン」と記すことで、シモンもまた、主イエスによって癒された人であることを示しております。
癒されたとはいえ、そのような病を負った人、人々から疎外された人シモンの所に、主イエスが来て食卓を共にしてくださるとは、どんなに大きな喜び、恵みだったことでしょう。主イエスは、どのような悪のただ中であっても病のただ中であっても、それを倒し癒すお方です。人は、甚だしい悪や治せない病に堪えることはできず、遠ざかるしかありません。けれども、主は堪えられないお方ではなく、悪を倒し病を癒し清めるお方として、シモンの家に「来てくださっている」ということが前提にあります。ですから、この食事の席は、主をお迎えする側にとっては、喜びと感謝に満ちた場でありました。
「食事を共にする」ということは「親しい交わりに入れる」ということです。主イエスは、シモンの家の者たちと親しい者として、共にいてくださるのです。ここに語られているのことは、主イエスとの嬉しい、喜ばしい食卓です。
マルコによる福音書のこの出来事の記述の配列は、大きなことを教えております。3節からの一人の女の出来事は、1〜2節を受けており、そうしますと、この物語の導入は、この世の指導者たち(祭司長たちや律法学者たち)の「主イエスへの殺意」です。主イエスを亡き者としようと計略を立てている、それは10節に続くのですが、その間になんと、殺意が語られるのと同時に、主イエスと共にいることが大いなる喜び、感謝である人々がいることが記されております。主への殺意と、主を迎える大いなる喜びと感謝。主イエスは、この世の人々が排除する者のところに、来てくださるのです。
シモンの家では、精一杯のもてなしをしたことでしょう。それは、豪華な食事ということではありません。シモンの家は貧しいに違いない、しかしその中での精一杯の、真心のこもった交わりがなされていたことが、「食事の席に着いておられたとき」という言葉に示されていることです。主が来て共にいてくださる食卓、それは麗しく、慰め深く、豊かな食卓なのです。
一方で主の御力を恐れて抹殺しようとする、一方で主の御業の恵みに与かり喜びに溢れる、そのコントラストは鮮やかです。このことから、私どもも覚えて良いことがあります。私どもも、主イエス・キリストの贖いの恵みに与った者として、主との親しい交わりを与えられている恵みを覚えたいと思います。それは、主イエスによってある交わり、主の御業があってこその交わり、恵みです。私どもは、主にある交わりに名を覚えられ、招かれているのだということを忘れてはなりません。
主の交わりの内にあることの一つ、それが「礼拝」です。私どもは、許されて今ここにあるのです。神が捕らえ、恵みをくださっているからこその「礼拝」なのです。
さて、そのような和やかで恵まれた交わり、食卓を囲んでいるときに、「一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた」と記されております。一人の女、それは突然現れた部外者です。
皆さんはどうでしょうか。家族で喜び楽しんでいる最中に、知らない人が突然やってくれば、きっと邪魔に思うことでしょう。この一人の女の登場は、そういう場面です。日本社会であれば、非常識と思われる出来事です。この女の登場自体、大変不躾なことなのです。その上に、香油の石膏の壺を壊しイエスの頭に注ぎかけたとは、その場にいた人々には、とても理解不能なことです。
「石膏の壺を壊す」とは、封印された細首の壺の首を折って使うということで、一度開けたら他には使えません。「頭に注ぎかける」とは、イスラエルの食事は寝そべってしますので、寝そべっている人の頭であれば注ぎやすいでしょうけれど、しかし異様なことです。壺に入っていたのは「純粋で非常に高価なナルドの香油」です。インド産の良い香りのする植物の香油で、イスラエルには無いとても貴重なもので、5節に「この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに」とありますように、労働者の1年分の収入に相当するほど高価なものです。
「高価な香油」というところから、この女は誰かといろいろ思い、高価な香油を持っているから娼婦だろうと言われるようになりました。4世紀になりますと、主イエスへの感謝を表した者として「マグダラのマリア」と名を特定するようになるのですが、マルコによる福音書にはその名はありません。その名を特定する必要もないのです。ただ、彼女も「重い皮膚病の人シモン」と同じ状況です。人々から軽んじられ疎外された者なのです。共同体の中で喜ばしい存在ではない、その女が、主イエスの恵みに感謝しているのです。主の頭に高価な香油を注ぐ、それは、主に対してそうしなくてはいられない思いからなのです。しかしそれは、あり得ない行動でした。
「あり得ないこと」を、多くの人は理解できません。ですから、そこにいた人の何人かが、憤慨して、4節「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか」という思いを持ったのです。理解できなかった、受け入れられなかった、それが「憤慨する」ということです。怒る、それは受け止められないことの印です。拒否反応が怒りなのです。
「憤慨して」とありますが、5節「この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに」と言ったことは、後付けの理由です。彼らの怒りは、理由付けしないではいられないほどの、受け入れがたい事柄だったということです。人は、無意識のうちに理由付けをもって自己正当化しようとします。この女の行動は尋常ではないと人々は怒り、他に理由付けをしないではいられないほどの行動ではありましたが、しかし、主イエスはこの行為を受け止めてくださいました。
私どもには理解できないほどの喜びが、この女にはありました。女の思いには、主イエスしかなかった、主イエスを思う思いが女のすべてだったのです。その思いがさせた行動でした。高価な香油は、彼女の全財産だったでしょう。それを注ぎ出しつくすほどの思い、主イエスでいっぱいの思い、この女ほどに、私どもは主イエス思うことがあるでしょうか。この女は、主イエスが自分のすべてであるがゆえに、自分のすべてを注ぎ出しました。
この女の行動は理性的とは言えませんし説明もできない行動ですが、そういうことではなく、主イエスへの思いに満ち溢れている、そういう行動なのです。ですから、人には理解できないことです。マルコ以降の他の福音書では、髪で主に香油を塗ったとか、少し理性的に語っておりますが、それは女の行動があまりにも説明しがたい行動だったからです。
もちろん、もっと理性的に感謝を表すこともできたでしょう。けれども、そういうことではない。主イエスがすべてとは、こういう姿なのです。
主イエスは何と言われたでしょうか。ユダヤにとって神が最も誉めてくださる業は「施し」ですから、人々は信仰的に「それをせよ」と言います。けれども主イエスは、この女の行為を「主の十字架のための業である」と覚えてくださいました。「主の救いの御業への参与」として受け入れてくださっているのです。主の救いの御業に仕える業とされるとは、何と感謝なことでしょうか。
私どものする奉仕について思います。「こんなことをしても何になるだろう」とか、あるいは「こんなことをして…」と思うこともあります。けれども、その奉仕が主への感謝に満ち溢れている行為であれば、「主の救いの御業のための行為、奉仕」として、主は受け入れてくださり、用いてくださるのです。
私どもは傲慢な者で、奉仕の何かにつけて不平を言う者です。けれども、どんな小さな業であっても、主イエスの十字架の御業として主は用いてくださるのです。どんな小さな業であっても、主が用いてくださるならば、それは恵みです。
そして更に、主イエスは憤慨する人々に言われました。7節「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる」。「施しの業はいつでもできる、すれば良い」とおっしゃる。憤慨する人の理由付けをも、主は良しとしておられる、退けてはおられないのです。
けれども主イエスは、女の行為に対して、「この世に対する業に勝って、わたしに対する小さな奉仕の業が勝る」と言ってくださいました。
主は、人々の怒りに任せた勝手な屁理屈をも退けられませんでした。私どもは、この世の良き業に励んでも良いのです。けれども、「いかなる良い業も、主イエス・キリストへの奉仕には勝るものではない」このことを忘れてはなりません。
主イエスは、受け止められない者の屁理屈をも退けられません。退けず受け止めてくださる主が、主になした小さな業をも「嬉しいこと」と喜んでくださることを覚えたいと思います。
この女は、主イエス・キリストに慰めを受け救われた者、その救いとは「主がわたしのすべてだったのだ」と気付いたことでしょう。
「主がわたしにとってすべてとなってくださる」、そのために「主が十字架に付き、甦ってくださったのだ」ということを、改めて感謝をもって覚えたいと思います。 |