2014年12月 |
||||||
12月7日 | 12月14日 | 12月19日 | 12月21日 | 12月24日 | 12月28日 | |
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
■「聖書のみことば一覧表」はこちら | 音声でお聞きになりたい方は こちらまでご連絡ください |
光の中を歩もう | 2014年12月第2主日礼拝 2014年12月14日 |
北 紀吉牧師(文責/聴者) |
|
聖書/イザヤ書 第2章1〜5節 | |
<1節>アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと。<2節>終わりの日に/主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい<3節>多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから/御言葉はエルサレムから出る。<4節>主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。<5節>ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。 |
|
今朝はマルコによる福音書を離れて、イザヤ書2章1〜5節の御言葉に聴きます。どうしてかと言いますと、アドヴェントの時であることを覚えてのことです。教会の一年はアドヴェント(待降節)から始まります。教会暦で言えば、今年は11月30日が一年の始まりです。 アドヴェントの期間、教会は、主イエス・キリストの人としての誕生を待ち望むことから、また、主イエス・キリストの終わりの日の再臨を思う時として重んじてきました。主の再臨、終末を思う時であるがゆえに、待降節には信仰の緊張感が生まれます。 終末を思うということは、終わりの日の救いを待ち望むこと、終わりの日の救いの完成を思うことです。ですから、それがアドヴェントに覚えるべきことなのです。 今朝のイザヤ書の箇所は、ミカ書にそのままあります。イザヤ書、ミカ書のどちらが古いか、諸説ありますが、どちらかに確定する必要もありません。 1節「アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと」という言葉の麗しさを、今日この準備をしながら思いました。これから語られることは、「幻」としてイザヤに与えられたということの麗しさです。 諦め、閉塞状況にある、そういう私どもにとって大切なことは「幻を見る、夢を見る」ことです。「わたしには夢がある」と言った、マルチン・ルーサー・キング牧師の言葉を思い起こします。国家権力を傘にきた人種差別の問題は昔も今も変わらずあります。日本人ならそこで諦めるでしょう。しかし、そこで「夢がある」と語るところに希望があるのです。 1節、イザヤが「幻に見た」こと、それが何よりも今の私どもにも大事なことなのです。そして幸いなことは、行き詰まりのそのところで「神がイザヤに幻を与えてくださっている」ということです。自分の力で作った幻なのではありません。神が与えてくださる幻なのです。そこにこそ、希望があります。 2節「終わりの日に/主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい」と、イザヤは「終わりの日の幻」を見ました。「主の神殿の山」とはシオンですが、「どの峰よりも高くそびえる」と言っても、それは高い山ということではありません。「主の神殿」、つまり神の在すところを中心として「国々はこぞって大河のようにそこに向かい」と、主の在すところに集まって来る。終わりの日は、すべての者が神の前にひざまずく日なのです。 今年のノーベル平和賞を思います。ノーベル平和賞最年少受賞者であるマララ・ユスフザイは、テロリストをも恐れず女性への教育の必要性や平和を訴えました。ここでも、幻を持つことの意味を示されています。 3節「多くの民が来て言う。『主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう』と」と記されております。まさに神が、行き詰まった民に対して、暗さの中にある者たちに対して、歩むべき道を教え、示してくださることが語られております。 では、人はどのようにして行くべき道を知るのでしょうか。「主の教えはシオンから/御言葉はエルサレムから出る」と言われております。シオンにある主の神殿において祭司の口を通して与えられる神託、しかしただそれだけではなく、神が「御言」によって教えてくださる」と言われております。その御言葉に従うところで、行くべき道は示されるのです。 どんな道かを示されるのかではなく、御言葉に従うところで行くべき道が示される。行き詰まりの中で、行くべき道が無いからこそ、私どもには御言葉が必要なのです。そこでこそ、神へと至る道ができてくるのです。それは、各々が御言葉に聞いて行き着く道ですから、自分だけの道です。 ここに「幻」とは何かを示されております。幻とは何か。それは「御言葉をいただくこと」です。それが、私どもが今必要な幻なのです。神の言葉をいただくこと、神の御言葉に従うことで、そこに神へと至る道が示されるのです。 そして、御言葉に生きる者として、私どもは希望を持ちます。行くべき道を示されるからです。終わりの日には完全な者として甦る、完成を見るという約束が与えられているのです。 御言葉に導かれて行く先に示されていることは何でしょうか。それは4節に示されております。「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない」とは、なんと麗しいことでしょうか。神が国々の争いの仲介をなしてくださると言われております。剣は鋤に、槍は鎌に、鋤や鎌は農具です。ゆえに「もはや戦うことを学ばない」のです。 人が作り出す平和は、真実なものではありません。人の作り出す平和は、均衡を保つことに過ぎません。バランスを保つだけです。それが、世界中の為政者が考える平和です。けれども、その均衡が破られるとき、そこに争いが起こります。 今、日本の社会は、鋤や鍬にかえて何を持とうとしているでしょうか。創世記、エデンの園を追われたアダムとエバは、土を耕す者とされました。人は「土を耕す者である」ことの豊かさを忘れてはなりません。 アドヴェントのこのとき、主イエス・キリストの御降誕を待ち望むこのときに、知るべきことがあります。「主イエス・キリストこそ、神の御言葉そのものであられる」ことを知らなければなりません。主の御言葉に聴くことは、神の御言葉を聴くことです。神は、主イエスを通して救いをなしてくださいました。今は、救いなる神の御子の誕生をお迎えする、その備えのときなのです。 主イエス・キリストをお迎えすること、信じること、そこにこそ、私どもの希望があります。主イエス・キリストこそ、平和です。人は、罪ゆえに神に背を向ける者です。そのような罪人に、神との和解を与えてくださったお方、主イエス・キリストこそ、神との交わりを、神との平和を与えてくださったお方なのです。 5節「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」と記されております。神との交わりにある者、神の民、それが「ヤコブの家」です。 |
このページのトップへ | 愛宕町教会トップページへ |