2014年12月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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祭司長たちの計略 | 2014年12月第1主日礼拝 2014年12月7日 |
北 紀吉牧師(文責/聴者) |
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聖書/マルコによる福音書 第14章1〜9節 | |
14章<1節>さて、過越祭と除酵祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた。<2節>彼らは、「民衆が騒ぎだすといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた。<3節>イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。<4節>そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。<5節>この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。<6節>イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。<7節>貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。<8節>この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。<9節>はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」 |
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1節「さて、過越祭と除酵祭の二日前になった」と言われております。いよいよ主イエスの十字架へのご受難が語られます。「二日前」と、その時が、日を追って時間を追って語られていきます。 ここで「過越祭と除酵祭」と言われておりますが、これらはどんな祭りなのでしょうか。それは出エジプト記12章に記されております。エジプトで奴隷の民となっているイスラエルを解放するために、モーセは神より、エジプト王ファラオの前で様々な奇跡を行うことを命じられましたが、ファラオは心を頑なにして、イスラエルをエジプトから去らせませんでした。そこで遂に、神が臨んでくださるのです。 過越祭は神の過ぎ越し・命の贖いであり、除酵祭は神の導き、奴隷という束縛からの解放、神が虐げから解き放つお方であることを覚える日なのです。このことを主の十字架で考えると、神の過越は、主イエス・キリストの十字架での贖いであり、導きは、贖われ救われて神の民とされる、罪の束縛からの解放であり、それは主イエス・キリストによって与えられる恵みです。 キリスト者とはどういう者なのでしょうか。奴隷の民を、神は神の民としてくださいました。私どもキリスト者は、主の十字架により贖われ、神との交わりを頂く者とされるのです。今日は第一主日で、私どもは礼拝において聖餐に与りますが、それは、キリストの贖いの恵みを思い起こす出来事、神の恵みの内にあることを覚える出来事です。旧約において、過越祭・徐酵祭で記念する恵みを、私どもは今、聖餐によって与っているのです。 囚われから解き放たれると言うと、いろいろと考えさせられます。私どもは奴隷状態であるということはありませんが、しかし、自らに捕らわれる者であり、自分から自由になれない者です。かつての日本人は、そのような囚われを「美」に昇華させました。囚われ、こだわりに徹することを通して、その生き方を美しいとする、それが日本人の感性、信仰です。けれども、自らの囚われに対して徹底して生きるということは、なかなかできることではありません。かなりの忍耐を要するでしょう。昨今では美へ昇華できずに、囚われを発散するようになっております。ですから、囚われないで生きるということは、不可能に近いことです。 ですから、キリスト者とは自由な者です。しばしば信仰は、捕らわれることだと思われがちですが、そうではありません。信仰とは、囚われからの解放なのです。 私どもはどこに頼んでいるでしょうか。神を信じるとき、この世の様々なことに恐れることのなく、自由に生きるのです。 囚われから解き放たれる、旧約においては、それは出エジプトだけではなくバビロン捕囚からの解放も同じです。信仰の出来事は、囚われからの解放であることを聖書は語っているのです。 1節に「祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた」と記されております。どうしてこんなことが起こるのでしょうか。それは、神の御心として起こるのです。 民に対して祭司長も律法学者も自らを権威ある者としていた、ここに示されていることは何かと言いますと、信仰においても知識においても、自らを高くするところで、他者を低くするということです。自分は低くなれません。低くなれたならば、相手の言い分も行為も理解できるのです。ですから、自らの高さを誇る者は、主の高さの前に砕かれざるを得ません。 さて、2節に「彼らは、『民衆が騒ぎだすといけないから、祭りの間はやめておこう』と言っていた」とありますが、これは変な話です。彼らは「祭りの間はやめておこう」と言っていたにも拘らず、しかし実際には、主イエスが十字架にかけられたのは、過越祭のその日でした。この日を主を殺す日と計画しなかったにも拘らず、この日に主は十字架に死なれました。すなわち、祭司長や律法学者たちの思い・計画ではなく、彼らの思いを超えて主の十字架の出来事は起こったのだということが示されているのです。「祭りの間はやめておこう」との記述は、ここにだけ記されていることですので、覚えたいと思います。 主の十字架は「神の御旨としてあること」と示されております。神のご意志としての十字架は、祭司長や律法学者たちが思う内容とは全く違うことを覚えなければなりません。祭司長や律法学者たちの思いでは主イエスを抹殺することがゴールですが、神の御心は「十字架によって救いが始まる」のです。 今、私どもの置かれた現実を考えなければなりません。残念なことに、私どもの現実は囚われとしての現実であって、救いとしての現実ではありません。選挙も行われますから思います。放射能を処理できないにも拘らず、原発を推進しようとする政治。国力を誇り、戦う力があること、軍事力を持つこと、それは自己本位な世界であり、それが私どもの現実なのです。ですから考えなければなりません。今の自分が良ければよい、という思いで選んではならないのです。 けれども覚えたいと思います。繁栄という滅びの世にあって、しかし、この聖書の箇所に語られていることは、希望です。人の殺意の只中で、神の救いのご計画が成っていく。同じように、今、この私どもの現実の中で、神の救いは為されております。私どもは、そこに希望を置いてよいのです。 |
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