2014年12月 |
||||||
12月7日 | 12月14日 | 12月19日 | 12月21日 | 12月24日 | 12月28日 | |
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
■「聖書のみことば一覧表」はこちら | 音声でお聞きになりたい方は こちらまでご連絡ください |
暗闇の中に輝く光 | 2014年クリスマス・イヴ礼拝 2014年12月24日 |
北 紀吉牧師(文責/聴者) |
|
聖書/ヨハネによる福音書 第1章1〜9節 | |
1章<1節> 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。<2節>この言は、初めに神と共にあった。<3節>万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。<4節>言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。<5節>光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。<6節>神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。<7節>彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。<8節>彼は光ではなく、光について証しをするために来た。<9節>その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。 |
|
今宵イヴの夜に、こうして共々に讃美し、御言葉に与かりますことを嬉しく思います。こうして集まることは、神の元に集まることです。神の元に集まることは、そこに神の祝福があることです。ここに集う皆さんに、神の祝福が豊かにあります。神の恵みと平安が皆さんの上にいつまでもあるように祈ります。 1節「初めに言があった」と言われております。「言(ことば)」は、「神と共にあり、神であった」と言われております。「神と共に」ということは神との密接な関係を持っていること、「神であった」とは神と本質を同じくすることを示しております。ヨハネによる福音書は、「言」=主イエス・キリストが神との深い関係を持ち、本質を同じくする神であることを言い表すのです。そして、その「言」なる方が、今宵「私どもの間に宿る」と言われております(14節)。 今日この御言葉に聴きながら、私は、最初の言葉を深く思いました。御子イエス・キリストの人としての誕生について、その方は「初めなる方である」と言われております。この「初め」ということは、最初があって終わりというようなことではなく、それらを超えて「初めからのこと、永遠なる方」という意味合いを持っております。 ここで何かをしろということではありません。変えなくてはならないと思いつつも変えられない、そういう自分自身を問われているのではないかと思います。変えるべきなのに変えられないというジレンマを持っているのです。私どもは今、変わらなければならない時に来ている、なのに変えられない、そういう状況だと思います。 「初め」ということは大切です。初めに自分があるから変えられない。人はそこで保守的になってしまうのです。 御言葉なる主イエス・キリストの到来のときに、「初めに」と言われて気づくのです。「初め」は自分ではない。「初め」は神である。「初め」はイエス・キリストであると言われております。その主イエス・キリストによって、御言葉の光によって、自分が自分の殻に閉じこもりうずくまっていることを知る、自らの姿が映し出されるのだと言って良いと思います。 外から私どもに語りかけられる言葉によって、私どもは自分自身を知るのです。自分が何を前提としているかを知るのです。そして自分がいかに暗闇に閉じこもっているのか、他者が見えず、自分と自分の生活に閉じこもっている、まさに暗闇にいる、そういう自分を見出すのです。 聖書は語りかけます。「初め」は私どもではないことを。「初め」は御言葉であり神であることを。初めなる方が、世界の前提におられることを。初めなる方が、私ども人間の前提となっていることを御言葉は示しております。なぜならば、ここに、3節「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」と言い表しております。すべてのものは神によって造られたと言っております。そして、その神の創造の業に、初めなる方、主イエス・キリストも参与しておられる、万物はキリストを通して創造されたと言われているのです。 そして、その初めなる方が「人とまでなって」、私ども(人)との交わりを回復してくださるのだと、御言葉は告げます。私どもは、そこでこそ変わることができます。自分一人では変わることはできません。初めなる方が私どものところにおいでくださり、私どもに出会ってくださる。そこで私どもは、神との交わりを回復することを赦されました。神との交わりを回復することによって、私どもは変わることができるのです。 私どもが一人であるとき、自分が前提であるとき、私どもは交わりを持ちません。他者を持たない。他者を持たないとはどういうことかと言うと、存在を確認できないということです。他者との関わりを持つ、他者と向き合うことによって、人は初めて存在を確認できます。存在を見出せるのです。一人では存在を見出せません。 私ども、閉ざされた中にいる者は、御子イエス・キリストがおいでくださり語りかけてくださることによって、自分以外の世界を、神の創造物として神の栄光を表す世界である、他者であると見ることができます。閉ざされた窓を開かれて、神との交わりを見ることができるのです。 罪ゆえに、それは孤独ということですが、自分しかないという孤独、自分だけが全て、神無しという孤独ゆえに、私どもはそこで自分という視点以外を持てませんでした。他者が傷つき痛んでいても、傷つき痛んでいることに思いを馳せたとしても、そこで関係を結ぶことはなく、関係を結んで新たな関係を歩み出すことはありませんでした。 主イエス・キリストの誕生によって、私どもが神との関係を与えられました。神との関係を与えられて新しい者となる、そこで、闇の中にあった者が光を見るのです。新しい者となることによって、そこで私どもは、自らの存在をはっきりと知ることができるのです。 私どもは、今の時代をもう一度見直さなければなりません。神の視点において見直さなければならないのです。世界は神によって創造された、それは世界が神の栄光を表すものであることを示しております。人は神によって造られました。人は神との交わりに生きる者として、神との正しい関係にあり、自らの尊厳を見出すのです。神との交わり正しい関係、そこで私どもは自らの存在の尊さを知るのです。 今宵、神の御子イエス・キリストが私どもの内におられます。それは、私どもが神にとって何よりも尊い存在である、何よりも大切な存在であるという、神の好意が示された出来事です。ここに集う一人ひとりは、神から尊い存在として愛されているのだということを、感謝をもって覚えたいと思います。 |
このページのトップへ | 愛宕町教会トップページへ |