2013年3月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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復活された主 | イースター礼拝 2013年3月31日 |
北 紀吉牧師(文責/聴者) |
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聖書/マルコによる福音書 第16章9~18節 | |
16章<9節>〔イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。<10節>マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。<11節>しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。<12節>その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。<13節>この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。<14節>その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。<15節>それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。<16節>信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。<17節>信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。<18節> 手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」 |
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共々にイースター礼拝を守れますことを嬉しく思います。主にある愛する兄弟姉妹と共に、主イエス・キリストの復活を記念して礼拝を守る、これは感謝であり、またこの恵みをくださっている神への讃美のときであります。 9節「イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された」と記されております。「週の初めの日」とは「日曜日」です。どうして週の初めの日が日曜日なのか、そのことはユダヤ教の背景を知らなければ分からないことです。それは神の天地創造の御業を覚えてのことです。神は天地を創造され、6日目に、その全てを良しとして完成されて休まれました。それが土曜日であり、ユダヤ教では土曜日を安息日として聖別し神を礼拝するのです。 そしてまた、ユダヤ教の安息日礼拝は、「出エジプトにおける神の救い」を覚えての礼拝でもあります。ですから「創造と救い」を記念した礼拝です。 9節には「まずマグダラのマリアに御自身を現された」とあり、その後に、マグダラのマリアについて「イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である」と記されております。マグダラのマリアは今の時代にも魅力的な女性なのでしょう。彼女については様々な伝承がなされ、挙げ句の果てには、イエスの妻だったというようなことが言われたりもしております。福音書に出て来る「姦淫の罪の女」だとか「主に香油を注いだ女」がマグダラのマリアだと言われたりもいたします。 10節「マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた」。イエスと一緒にいた人々、つまり「弟子たち」が泣き悲しんでいるのは、地上における王としてのイエスに希望を抱いていたからです。弟子たちは夢破れて泣いております。それは自己優先な嘆きなのです。 11節、弟子たちは「イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった」とあります。福音書には、弟子たちが「主の復活を信じた」という伝承は、厳密に言えばどこにもありません。弟子たちは「主の復活」を望んでいたにも拘らず、「復活の証言を信じなかった」のです。なんという不信仰でしょう。しかし、人の不信仰の極みにおいても、神は御業をなさってくださるのです。 12節「彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中…」、2人は夢破れて、元の生活に戻るべく田舎へ帰ろうとしております。そこに、復活の主が現れてくださいました。 13節「この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった」。マリアの言うことも、弟子仲間の言うことも信じなかったとすれば、一体誰が信じるのでしょうか。「主の復活を信じる」ということは、いわゆる私どもが「信じる」という事柄ではないことを知らなければなりません。 そんな「信じられない者」たちに起こったことが、14節「イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった」という出来事です。主に誉められたのではありません。主は「おとがめになった」、このことが大事です。 咎めて、その後、普通であれば、心を入れ替えて信じなさいと言うところでしょう。けれども、主イエスはここで信じられないことを弟子たちに言われます。15節「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」とは、驚くべき言葉です。不信仰を咎めた、その信じられない者たちに「キリストの福音を宣べ伝えよ」と言われるのです。「復活の主を信じなさい」とは言わないで、「主の十字架と復活による罪の赦しと永遠の命の約束」を、信じられない者たちに「宣べ伝えよ」と言われるのです。キリストご自身の救いの御業を、信じられない者たちに「委託して」おられるのです。なんと驚くべきことでしょう。 改めて「信じる」とはどういうことかを思います。 16節「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける」。「宣べ伝える」そこで「洗礼」の出来事が起こっております。教会は、主より「救いの宣言をなす権能」を与えられております。それが「洗礼」の出来事です。しかし、宣べ伝えられたことを拒むならば、それは滅びなのです。 私どもは、信じる者ではありません。信じられない者でしかない。しかし、主は、信じられない私どもに真実に臨み、主との交わりのうちにおいていてくださるのです。そして託してくださる、主の恵みを宣べ伝える業を委託してくださるのです。なんと光栄なことでしょうか。主の恵みに感謝しつつ新しい一年を歩みたいと思います。 |
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