2013年3月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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信仰が、あなたを救った | 3月第1主日礼拝 2013年3月3日 |
北 紀吉牧師(文責/聴者) |
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聖書/マルコによる福音書 第5章21~34節 | |
5章<21節>イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。<22節>会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、<23節>しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」<24節>そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。<25節>さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。<26節>多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。<27節>イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。<28節>「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。<29節>すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。<30節>イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。<31節>そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」<32節>しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。<33節>女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。<34節>イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」 | |
21節、主イエスがゲラサ人の地から再びカファルナウムに戻られたことが記されております。21節から43節までは会堂長ヤイロの話ですが、途中に、今日お話します「十二年間も出血の止まらない女」の話が入っております。 「大勢の群衆がそばに集まって来た」とありますように、いつものように主イエスを求めて人々が集まっているのです。そこに、22節「会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して」と、会堂長ヤイロが、主イエスにひれ伏して願い出ていることが記されております。 ヤイロの願いによって、主はヤイロと共に出かけられます。24節「大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た」とあります。主が出かけられる、その行かれる先々で人々が主に従って来るのです。「押し迫って来た」のですから、前に進むことは困難だったでしょう。触れ合う者もいたでしょう。そんな状況に、ヤイロはいら立ったかもしれません。 27節「イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた」とあります。この女は、どうして群衆に紛れ込まなければならなかったのでしょうか。ヤイロのように、主イエスに直接願い出ることはできなかったのでしょうか。この女は願い出ないのです。「紛れ込み」とは、人に分からないように、主イエスにも気付かれないようにということです。「イエスの服に触れた」というのですから、主イエスに直接触れたわけではありません。人に分からないようにということだけではなく、主イエスにすら知られないようにと、主の服に触ったのです。 けれども、この女は確信しています。癒されると信じて、主の服に触れるのです。29節「すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた」とあります。ここで、この女の表している思いは何でしょうか。この女ほどに、主イエスの力が絶大なものであることを表す者はないのです。どこまでも、主イエスこそ権威の全てであることを表しております。この女ほど、主を大きくしている人はおりません」。主イエスの力が自分自身に及んでいることを、この女は経験しているからです。 しかし、ただ一人だけ、主がどのようなお方かを分かった人がおります。まさしくそれは、主の服に触れた女でした。33節「女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した」と記されております。この女は、主イエスの力が絶大であることを身をもって感じ、知りました。主の力を与えられたことを、この女は実感したのです。人知を尽くして駄目だったこの身が、汚れたこの身が癒された、それ程までに、主の力は大いなる力であることを知ったがゆえに、女は恐れざるを得ませんでした。女は恐れおののいております。私どもはどうでしょうか。神の力を感じて恐れおののくということがあるでしょうか。神には、ただ愛されていることしか思わないのではないでしょうか。 そして覚えなければならないことは、主イエスが「あなたの信仰があなたを救った」と「救いの宣言」を与えてくださったことです。この宣言なくして、女の信仰は信仰とはならないのです。主イエスが「救った」と宣言してくださったからこそ、この女の信仰は信仰となったのです。 「主イエスにすがるしかない、自分は汚れでしかない」ということが、この女の思いでした。なぜ主イエスは、この女を捜してくださったのでしょうか。それは、この女に救いの宣言をお与えになるためです。探し出し、救い、「安心して行きなさい」と「平安」を与えてくださったのです。 改めて覚えてよいのです。信仰とは何か。それは、神を、主イエスを「主として示す」ことです。救いは、ただ主にあるのです。その主にすがることです。そこで「主が救いを宣言してくださる」こと、それが「私どもの信仰」です。神を神とすることによって、取るに足らない私どもが「主の恵みをいただくこと」それが「私どもの信仰」であることを覚えたいと思います。 今、私どもは「礼拝」の場におります。「礼拝すること」それは、私どもが「神を神とする」ことに他なりません。 |
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