2013年3月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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人々の不信仰を嘆く | 3月第3主日礼拝 2013年3月17日 |
北 紀吉牧師(文責/聴者) |
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聖書/マルコによる福音書 第6章1~6節 | |
6章<1節>イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。<2節>安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。<3節>この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。<4節>イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。<5節>そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。<6節>そして、人々の不信仰に驚かれた。それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。 | |
1節「イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った」と記されております。「そこ」とは、ガリラヤ湖畔、主イエスの活動の場であったカファルナウムです。主イエスはそこで、ゲラサ地方での悪霊に取りつかれた者の癒し、会堂長ヤイロの娘の蘇生、12年間出血の止まらなかった女の癒しをなさいました。前章(5章)には、このような「主イエスの奇跡の業」が語られたのでした。 そして、その結末が6章に語られるのです。奇跡の業の結果、その締めくくりは成功したのでしょうか。結論から申しますと、成功してはおりません。奇跡の業をなさっても、主イエスは故郷では受け入れられないのです。「救いは奇跡によらない」ことを印象づける、それが6章で語られることです。 ここで「お帰りになった」とあります。「帰る」というと、どんな印象を持つでしょうか。「帰る」ことに、私どもは何か、和んだり、くつろぎを感じるのではないでしょうか。しかし、ここで使われている言葉は「行かれた、行った」という言葉で、「帰る」ということとはニュアンスが違います。使われているのは「福音宣教に行かれる」という時に使われる「行く」という言葉ですので、主イエスは宣べ伝える者として「故郷に行かれた」のです。 また「弟子たちも従った」という言葉に、マルコによる福音書の強調点があります。すなわち「弟子」とは「主イエスに従う者である」ということです。この6章において、弟子たちの出番はありません。けれども、弟子たちは「主に従う者」として、まず語られているのです。 2節、「安息日」に、主イエスは会堂で教えておられます。まさしくユダヤ人の一番大切な信仰のただ中におられるのです。主の教えに人々が驚いたのは、なぜでしょうか。主の言葉に権威、力があったからです。ですから人々は「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か」と問わざるを得ませんでした。 3節「『この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。』このように、人々はイエスにつまずいた」とあります。ここに、人の思いの狭さを思います。自分の認識から逃れられない、客観視できない、とても残念なことですが、このことは私どもの日常にあることです。自分自身が物差しになってしまうのです。自分が物差し、自分が基準で相手を測るのです。それは自己束縛、罪の問題です。神を基準として見るという考えを持っていないのです。 ここで使われている面白い言葉があります。「マリアの息子」とあるのです。なぜ「ヨセフの息子」と記さなかったのでしょうか。イスラエルは父系社会ですから不思議です。一つの解釈は、既にヨセフは死んでいたというものです。またもう一つは、主イエスの真の父は「父なる神」のみであるから、敢えてヨセフを父としなかったというものです。どちらも捨て難い解釈と言えます。またもう一つは、聖母としてのマリアを強調したかったという説ですが、これは私どもには合致しません。またここで、4人の兄弟の名が挙げられているのは、マルコによる福音書のみです。 故郷の人々のもとに救いなる方が来てくださっているのに、人々は主ご自身に聞こうとはしませんでした。ですから、主を受け止めることはできません。「人々はイエスにつまずいた」のです。人には自分の思いがあり、こうあるべきと思う、ゆえに「つまずく」のです。「つまずき」は誰のせいでもありません。自分の思いにあることを忘れはなりません。自分の思い、思い込みから解き放たれなければ、様々なことにつまずきます。ですから、つまずかない人は幸いなのです。 4節「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」とは、主イエスが旧約聖書の言葉を用いておられるのです。密接な関係にあればあるほど、良いことも悪いことも知っているがゆえに、つまずきます。この言葉はしかし、初代教会の宣教者たちの慰めとなったと言われております。迫害の中にあって人々から受け入れられない状況に、主イエスでさえ故郷では受け入れられなかったのだと慰められたのです。 ここで言われる「奇跡」とは何でしょうか。「奇跡」は「主イエスが神の子であることのしるし」なのであって、それ以上のものではありません。奇跡によって人が救われるのではないのです。 私どもは、不信仰に留まっているのではなく、問うてくださる主に向かい合わなければなりません。不信仰ゆえに、しかし「主に憐れみを乞うことを許されている」ことを覚えたいと思います。私どもが主に憐れみを乞う、そこで尚、主の憐れみが私どもにあってくださることを覚えたいと思います。 5節、6節には、故郷での拒絶が、しかし多くの他の地域への福音宣教に繋がったことが示されております。福音は、拒絶を通しても広められるのです。 改めて、自らの小さな思いを基準によって考えることの罪深さに、主の憐れみを乞い求めたいと思います。 |
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