聖書のみことば
2013年3月
3月3日 3月10日 3月17日 3月24日 3月31日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

「聖書のみことば一覧表」はこちら 音声でお聞きになりたい方は
こちらまでご連絡ください
 

 子ろばに乗る主イエス
3月第4主日礼拝 2013年3月24日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/マルコによる福音書 第11章1~11節

11章<1節>一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、<2節>言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。<3節>もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」<4節>二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。<5節>すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。<6節>二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。<7節>二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。<8節>多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。<9節>そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、/祝福があるように。<10節>我らの父ダビデの来るべき国に、/祝福があるように。いと高きところにホサナ。」<11節>こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。

 今日から受難週です。今年はマルコによる福音書から、私どもの罪のために十字架に死なれた主イエスのご受難の出来事に聴きたいと思います。
  明日月曜日から水曜日は、定めました聖書箇所を各自で、また木曜日には祈祷会において共々に御言葉に聴き、金曜日には受難日礼拝を守りたいと思います。 「信仰」とは「想起、思い起こすこと」と言われます。主イエスの十字架、み苦しみを思い起こすこと、それが信仰です。聖書の御言葉に聴きつつ、主の十字架を思い起こすことをもって過ごす、信仰をもって過ごす、そうありたいと思います。

 今日の箇所は、主イエスのエルサレム入城の場面です。
 1節、主イエスの一行がエルサレムに向かっておられます。それは、エルサレムへの巡礼団としての主の一行です。エルサレム神殿へ、礼拝のために向かっておられるのです。
 「オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき」と記されております。そのまま読むと、ベトファゲを通ってベタニアに行ったように思いますが、実はそうではありません。ベトファゲの方がエルサレムに近い場所ですから、ベトファゲを通ってベタニアに行ったら遠回りなのです。なぜこのように記されているかは分かりません。単にマルコが地理を知らなかったのではないかと言われております。
 けれどもここでは、細かいことは重要ではありません。記録よりも記憶の方が真理である、ということもあるのです。つかり、記されていることが真理かどうかが大事なのです。記録というものは、ただ記されているだけでは役に立ちません。そこに何が記録されているかが大事です。
 例えば、教会には「規則」がありますが、規則というものは、何か問題があるからこそ作るのです。問題がなければ規則は必要ありません。ただ教会は法人格ですから、この世に対して管理上の責任を果たすために規則を整えているのです。規則によって信仰が整えられるということではありません。
 ここで「ベトファゲ」という地名が出て来ることが大事です。主のエルサレムへの通り道として「ベトファゲ」が覚えられたということです。ベトファゲは、主が通られた所として記録されているのです。救い主が通られた場所として記されている、それが大事なことです。

 また「オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニア」とありますが、なぜ「オリーブ山」とわざわざ記しているのでしょうか。ベタニアはエルサレムから3キロほど、1時間弱の場所です。
 オリーブ山は、神が最後の審判をなさる時にイスラエルの敵を裁かれる場所だとユダヤ人は思っておりました。古代ユダヤ人の歴史を書いたヨセフスも、オリーブ山を「終末に神が立たれる場」と書いております。終わりの日に神が人を裁かれる場所、オリーブ山、そこから主イエスがどのようなお方としてエルサレムに入られるかが示されております。
 主イエスは、裁く方として、終わりの日の裁きを担う方として、エルサレムに来られる方です。主は裁く方ですが、しかしその裁きは敵を裁くということではなく、主は「救いのための裁き」をなさる方です。主の裁きは、終わりの日の救いの完成のための裁きであって、敵を滅ぼすための裁きではありません。「救い」に力点があるのです。

 続けて「イエスは二人の弟子を使いに出そうとして」とあります。「使い」とすることは「使者として立てる」ということです。「使者」すなわち「主イエスの代理人」として立てるということです。主イエスは使者を立てて「子ろば」を徴用されるのです。ここに、弟子たちが「メシアなる主イエスの使者である」ことを覚えたいと思います。
 「主を信じる者」は「主の弟子」とされる、ですから、私どもは主の弟子として、主の使者として、この世に立てられているのだということを覚えたいと思います。私どもは、主の使者として、この世に、家庭に、職場に、私どもの行くすべてのところに遣わされているのです。主の弟子として、主の使者であるということの大きさを覚えたいと思います。

 私どもにとっては、この世の生活の場が帰るべき場なのではありません。生活の場へと、主が私どもを遣わしておられることが示されております。私どもはこの世に遣わされている、そして主の使者として立てられているのです。
 私どもの帰るべきところはどこでしょうか。それは、遣わしてくださった方の所、それは教会です。主の身許こそ帰る場所です。この礼拝から、私どもはこの世に遣わされているのだということを覚えたいと思います。この礼拝において、私どもは、主より力をいただき、この世へと出て行くのです。帰るべきところは礼拝、そして教会の交わりです。そこでこそ、私どもは自らの存在を新たにし、憩い、祝福をいただき、力を与えられ、この世の生活の場へと遣わされていくのです。それが信仰者の歩みです。なんと慰め深いことでしょう。
 この世は移り行くもの、消え行くものですから、この世が帰るべき場であれば、虚しいのです。けれども、帰るべき場が「十字架と復活の主イエス・キリストの身許」であれば、私どもは死を超えて帰るべきところを持っているのです。そこは決して消え失せることのない、永遠の神との交わりの場です。帰るところが主の身許であるがゆえに、私どもは朽ちることなく、汚れなく、失せることもないのです。

 2節には、「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、…」と主の細かい指示が記されております。誰に何をどう言うべきかを、主は教えてくださっております。これはとても大事なことです。私どもは、遣わされた場所で、主イエスが与えてくださる言葉を語るのです。その言葉は力ある、権威ある言葉であるがゆえに、語られたことは起こるのだということを覚えたいと思います。
 ここで、主イエスが言われた通りに事が起こります。それは、主が権威あるお方であることを示しているのです。

 7節「二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった」とあります。軍馬に乗っての凱旋入城なさるのではなく、「子ろばに乗って」とは、主イエスが高ぶる方ではないことを示しております。
 主イエスが子ろばに乗ってエルサレムに入城される、このことは旧聖書約ゼカリヤ書9章9節の成就であると言われますが、正確にはそうではありません。ゼカリヤ書には「雌ろばの子であるろばに乗って」とありますから、小さ子どものろばということではなく、「雌ろばの子どもであるろば」なのです。いずれにせよ、主の御力は「平和をもたらす力」です。弱さによって、平和の君として来てくださるのです。
 しかしそれは、人々には想像できない姿です。滑稽でさえあります。戦いの王として立派な軍馬にまたがり凱旋する者としてではなく、日常生活の重い荷物を乗せてよたよたと喘ぎながら歩くろばに乗って、まさしく主イエスは、苦しみを担う者として来られます。主イエスは、苦しむ者、弱き者に、力を、救いを与える方として王なのです。

 8節「多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた」とは、王に対する敬意を表す故事に則っての人々の行為です。

 9節「ホサナ。主の名によって来られる方に、 祝福があるように」と、人々は叫びます。「ホサナ」と、主を讃美しているのです。「ホサナ」とは「主よ、お助けください」という意味です。「お助けください」と言って、主を讃美しております。
 「ホサナ」「ハレルヤ」という言葉を使うのは、仮庵祭(収穫の祭)のときです。そう考えますと、この場面は秋なのかもしれません。

 10節「我らの父ダビデの来るべき国に、/祝福があるように。いと高きところにホサナ」とは、讃美というより祈りの言葉となっています。

 この「ホサナ」という言葉は、象徴的であると思います。この世には多くの呻きがあります。その呻き、この世の人々の助けを求める呻き、その呻きは、讃美の言葉であるのです。
 今、私どもの社会も行き詰まり、人々の呻きがあります。声にならないその呻きは、助けを求めています。しかし、「ホサナ、主よ助けてください」と讃美する、そこに主イエスが来られます。私どもの社会の、呻きあるその所に、主が来てくださっていることが示されているのです。
  主イエス・キリストは、痛み苦しみを担うお方として、助けてくださるお方として来てくださる、そのことを「ホサナ」という言葉によって示されていることを、感謝をもって覚えたいと思います。

 私どもの心の奥底の呻き、助けを求める叫びを聞いてくださるお方として、主は来てくださいました。その恵みが「主のエルサレム入城」を語るこの御言葉に示されておりますことを、改めて、感謝すべきこととして覚えたいと思います。

このページのトップへ 愛宕町教会トップページへ