2013年10月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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エリヤは来た | 10月第4主日礼拝 2013年10月27日 |
北 紀吉牧師(文責/聴者) |
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聖書/マルコによる福音書 第9章9~13節 | |
9章<9節>一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。<10節>彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。<11節>そして、イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。<12節>イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。<13節>しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」 |
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9節に「一同が山を下りるとき、イエスは、『人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない』と弟子たちに命じられた」と記されております。「一同」とは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの3弟子を伴われた主イエスの一行です。 ここで「山を下りる」とはどういうことかを覚えなければなりません。山上で何が起こったでしょうか。主イエスが真っ白に輝かれ、この世のものではない「神としての栄光を現された」こと、それが山上での出来事でした。その所から主イエスが「下りてくださった」ということ、このことが大事なことです。神なる方として天におられて良いお方が、敢えてまた弟子たちと共に地に下りてくださいました。ここに象徴的なことが示されております。神なる高き方、そのまま天において地を支配されても良かったお方が、低さを取ってくださるということです。被造物の姿を取られるのです。地は困難と不安に満ちております。その地に下りてくださる。人としての低さを取り、人の世の様々な問題、痛みを引き受けてくださるために、主は下りてくださるのです。 「低きに至る」、そこにキリスト教の特徴があります。現代は高く目標を掲げることに価値を置くことを思いますと考えさせられます。神は私どもに、高みを目指せとは言われません。そうではなくて、高きお方が低くなってくださるのです。そして、その低さは極まった低さ、死に至るという低さです。主イエスは、「十字架の死」というどん底の低さにまで至ってくださいました。この世に対して目標を与えるということではなく、この世のすべてを引き受けて、担ってくださるのです。「十字架の死」は、この世の罪の極みにまで至ってくださるということです。ここに、私どもの在り方との大きな違いがあります。 人は、自ら努力し目標に達したところで神に至るのではありません。それは自分の力に頼ることであり、自ら神を遠ざけることなのです。神を必要としないということです。それが高みを目指すという在り方です。 では、神の側ではどうなのでしょうか。人のところに下りてくださり、人と共にあってくださる。神は人の近くにいてくださる。神を必要とする者と共にあってくださるのです。にも拘らず、人は神を見出せない。それが高みを目指す人の行き詰まりです。 ですから、神は遠い存在なのではありません。神が遠いのではなく、人自身が神を遠ざけてしまっているのです。自分の存在を、あるレベルに達することによって確認することは虚しいことです。人は歳を経れは、出来ていたことも出来なくなり、そこに悲しみが生まれ、自分を責め、引いては自分を呪いさえすることになるのです。けれども、そのように無力になった、その淵で神を見出すとき、自らの存在を麗しく思えるようになるのです。 さてここで、主イエスは山を下りるにあたって、弟子たちに「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と言われました。「今見たこと」、それは「栄光に輝く主イエス」です。そのことを口外するなと言われます。言うなと言われると言いたくなるのが人の常ですから、主のこの言葉に納得できないと思うかもしれませんが、ここでは、そうではありません。実は、この言葉は3人の弟子たちにとっては慰め深い言葉なのです。なぜでしょうか。 けれども、いつまでも語らなくて良いということではありません。「復活するまでは」という期限付きであることが記されております。「復活のとき」とは、どういうことでしょうか。「十字架のときまで」ではなく「復活」と言われていることの意味を知らなければなりません。 ですからここで、主イエスが「復活するまでは」と言われて示されていることは、弟子たちに「救いの喜びを感じたときに語りなさい」と言ってくださっているということなのです。 主イエスは、律法や強制をなさらないことを知らなければなりません。にも拘らず、弟子たちには分からずに、10節「彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った」と記されております。 そして続けて、11節「そして、イエスに、『なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか』と尋ねた」と続きます。ここで旧約の預言者エリヤのことが出て参ります。ここは解釈の難しいところですが、主イエスの苦難と十字架の死を受け止めた上で、エリヤの話になるのです。 このエリヤを語ることによって、主イエスご自身も、この後、洗礼者ヨハネがそうであったように「威勢者によって苦しみを受け、死なれる」ことを示しております。そのことの意味を今日は十分に語る時間はありませんが、一言申しますと「栄光の主イエスは苦しみを受け、この世の権力の負の部分、過ちをすべてお引き受けくださり、『ご自身が裁かれる』ということによって、この世をお裁きになる方である」ということなのです。主は「裁き」という形で、裁かれるのではありません。主は「裁かれる(十字架の死)」ということをもって、この世の過ちと罪深さを露にしてくださるのです。それは同時に、この世が神の裁きのうちにあるということを示すことです。そしてそのことが、「主イエスの十字架」のもう一つの意味です。 この「エリヤは来た」ということから知るべきこと、それは、洗礼者ヨハネの死また主イエスご自身の死がこの世の権力の過ちによることであることを示し、そしてこの世の権力がいかに愚かであるかということを指し示しているのだということを覚えられればよいかと思います。 |
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