2013年10月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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わたしの愛する子 | 10月第3主日礼拝 2013年10月20日 |
北 紀吉牧師(文責/聴者) |
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聖書/マルコによる福音書 第9章2~13節 | |
9章<2節>六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、<3節>服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。<4節>エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。<5節>ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」<6節>ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。<7節>すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」<8節>弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。<9節>一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。<10節>彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。<11節>そして、イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。<12節>イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。<13節>しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」 |
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5節「ペトロが口をはさんでイエスに言った。『先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう…』と、ペトロがわけの分からないことを言ったことが記されております。ペトロは「仮小屋を三つ建てましょう」と言いましたが、実際には建てておりません。ではなぜ、このようなことを思わず口にしたのでしょうか。 イスラエルにとって「喜びの祭り」の最大のものは「仮庵の祭り」です。仮小屋を建て、小麦の収穫を喜んで、その仮小屋で一週間祝うのです。 奴隷の民にとって収穫は主人のものですが、収穫を自分のものとして「恵みとしていただける」こと、それは神がくださった恵みに他なりません。そうであれば、収穫は「神がくださったもの」として「共に喜ぶ」ことができるのです。 現代は、労働に対しては正当な報酬をと考えます。そこで「神なし」の出来事は、分かち合うことができないのです。自分の財産を守ろうとし囲い込む、どん欲さを持つのです。神を抜きにして獲得する恵みは、恵みを恵みとできずに自分で守ろうとするがゆえに、自己主張すれば争いが起ります。 ここでペトロが「仮小屋を建てる」と言ったのは、あまりにも嬉しくて、嬉しいことと言えば「仮庵」だと連想し、口走ったのでしょう。しかしこのペトロの「仮小屋を建てる」という言葉から、「仮庵の祭り」が現代の労働について示唆を与えるものだと知ることができます。労働の対価が神の恵みと思えるならば幸いなのです。 「唯一なる神を共に覚える」、そこに「共に生きるという恵み、共同体の恵み」があります。 6節に「ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである」と、弟子たちが「恐れていた」ことが記されております。一方で喜んでいながら、一方で恐れるとは、どういうことでしょうか。「真っ白に輝く主イエス」は、まさしく「神なる方、主イエス」です。ですから、この恐れは「神を目の当たりにした恐れ」なのです。神は人の存在を超えた「圧倒する存在」ですから、人は神の前に恐れざるを得ません。 ペトロは、主の姿の言葉にできないほどの圧倒によって、それゆえに何も言えませんでした。そのような者に対して、7節「すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした」と記されております。神が顕現されるときには、雲が覆うのです。3人の弟子たちに神が臨んでおられます。けれども、神を目の当たりにすれば耐えられずに人は死んでしまうゆえに、神は雲を伴って臨んでくださるのです。自らを隠しつつ、臨んでくださるのです。 そして弟子たちが神の臨在にあい、神体験したときに示されることは何だったのでしょうか。「これはわたしの愛する子。これに聞け」と、神は宣言されました。神ご自身が明らかにしてくださった、証ししてくださったこと、それは「真っ白に輝く主イエスこそ、神の御子である」ということでした。 このことは、この3人の弟子たちに特別に与えられた出来事です。まだ主イエスの十字架の前のことです。苦難と十字架への道を歩んでいるのだということは、既に弟子たちにも示されておりますから、これから先、主の苦難と十字架への歩みを見ていかなければならない弟子たちなのです。この3人の弟子たちは、ここであらかじめ「主イエスは神の御子である」ことを示されました。神は、「これから苦しみを受けられるお方こそ、神なる方である」ことを、ここであらかじめ弟子たちに示してくださっているのです。 主イエスの御言葉に聴くことは、すなわち神の御言葉を聴くことです。そして、主イエスの御言葉に聴くということは、救いの恵みが豊かになることであり、それは神の民として整えられていくということです。 8節「弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた」と続いております。神の声を聞き、そして主イエスを見ると、主の姿は元に戻っておりました。主イエスは、人としての姿に戻られるのです。この後、人としての苦難と死をなめつくされる方として、もう一度「人として」立ってくださるのです。「そういうお方として、主イエスは救い主であられる」のだということを、弟子たちはこの出来事を通して体験しているのであります。 「救われた者」として、私どもは常に御言葉に聴き、養われ、神の民として整えられていくのだということを、改めてこの箇所を通して覚えたいと思います。 そしてまた、真実な労働の恵みということを覚えたいと思います。 |
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