2013年10月 |
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10月6日 | 10月13日 | 10月20日 | 10月27日 | |||
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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真っ白に輝く主 | 10月第1主日礼拝 2013年10月6日 |
北 紀吉牧師(文責/聴者) |
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聖書/マルコによる福音書 第8章37〜9章8節 | |
8章<37節>自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。<38節> 神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」9章<1節>また、イエスは言われた。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」<2節>六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、<3節> 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。<4節>エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。<5節>ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」<6節>ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。<7節>すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」<8節>弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。 |
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前回は36節まででしたので、今日は37節からです。 37節に「自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」と、主イエスは言われます。 この世の栄えは過ぎ去るものですから、この世の生に執着するならば、その人はこの世と共に過ぎ去るしかありません。「どこに私どもの思いがあるのか」が問われております。この世にあるのか。この世にある者は過ぎ去る、それは滅びのうちにあるということです。神のうちに自らの命を見出さなければ、命輝くことはできないのです。人は、神共にあることによって、自らの命の輝きを知るのです。 かつて「武士道」は、死ぬことを道といたしました。死の覚悟ができていたということです。けれども現代では「死の覚悟」などとは言えませんから、精神科医のキューブラー・ロスが、その著作「死ぬ瞬間」のなかで提唱した「死の受容」という言葉は、大きなインパクトを持ちました。 「死の受容」それは、人の能力によるのではなく「信仰の出来事である」ことを覚えたいと思います。「死の受容」というとき、この世を超えた価値観を持たなければ、受容することはできません。それは神の出来事ですから、神を思う感性が必要なのです。 38節「神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる」と言われます。「神に背いたこの罪深い時代」とは、主イエスの時代は「神がいることを信じている」ことが前提ですから、その上でこう言われているのは、「神を信じていると言いながら主イエスを信じない者たち、その者を恥じる」と言っているのです。 ですから、罪の自覚のない時代は不幸です。救いをどこに求めたらよいか分からないからです。罪の自覚の感覚がない現代は、救いという感覚も持ちません。そこでは、すべてを「虚しい」として生きなければならないのです。 「命」とは「交わり」を意味しております。交わりの中で位置づけられること、それが命です。神との交わりに生きることによって、人格ある者として生きる、それが命なのです。ですから「買い戻す」ということは「神との交わりを回復する」ということです。神との交わりを回復するために、何をもって贖い、買い戻せるのか。それは地上には無いものです。地上を超えた生のことですから、地上のもので贖う、買い戻すことはできません。この世の、地上のどんな栄えをもってしても、人の命の代価にはならないのです。 主イエスは「わたしとわたしの言葉を恥じる者は…その者を恥じる」と言われました。主イエスを信じなかった者、主に従わなかった者を「滅びに任せる」ことになるということです。「滅び」とはどういうことかと言いますと、「放置する」ということです。 このような人間関係を克服出来る根本にあることは、神との深い関係をいただくことです。人同士は互いに忍耐できないのですから、揺るぎない関係を持つよりありません。揺るぎない関係があれば、他者との距離に振り回されずに済むのです。 死んだらどうなるのか、使徒パウロは「霊の体によみがえる」と言いました。朽ちず滅びない、完全な体に甦る。魂だけではなく、この肉体も完全なものとなる。霊肉共に、完全な神との交わりをいただくということです。まさしく、神との顔と顔を合わせての交わりをいただくということです。 9章1節「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる」と、主は言われました。これは、「神の国の到来の近さ」を言っております。「あなた方の生きているうちに、神の国は来る。主イエスと共に、神の国は既に来ている、始まっている」、だから、その近さによって「見る者がいる」と言われます。神の国の間近さを言っておりますから、誰がそれを見るかということを問題にしているのではありません。 キリスト教の救いの強調点は「先であり、今である」ということです。「今、終わりの日の救いの恵みのうちにある」ということです。この世に属していながら、主を信じる者として、神の国の一員として「既に」ある、それが信じる者に与えられる恵みなのです。 私どもは、この礼拝において、今、神の支配のうちにあることを、神の国の一員であることを思うことができます。終わりの日の救いの出来事が、今ここにあることを知るのです。それが信仰の恵みです。それは言葉を替えて言いますと、今ここで「信じなさい」という、主イエスの招きであります。 ここで「人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、」と言われております。主イエスがご自身を「人の子」と言い表しておられます。それは終わりの日に、主イエスが、神の子として人の子、神なる方として、キリストとして臨まれるということを言い表しているのです。 2節、その上で「六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」と記されております。「真っ白に輝く」とは、神の子の栄光を現す方として来られるということ、終わりの日の姿そのままに、弟子たちに臨んでおられることを示しております。 山の上での数日で思い起こすのは、モーセが神より「契約の板(十戒)」を与えると言われてシナイ山に登り、6日目に神がモーセの前に現われられたことです。今日のこの箇所でも同じですが、つまり「6日の後、神の臨在に与った」ということです。 私どもは、週毎のこの「礼拝」において、御言葉を通して主の臨在に与っております。何と幸いなことでしょう。6日の後に再び主の臨在に与り、御言葉によって「神の救いの恵みに与っていることを改めて深く知らされる」、その幸いをいただいているのです。 けれども、自らのために歩む6日の日々は、この世に心奪われるしかない日々です。そんな私どもが、6日の後、この礼拝へと招かれ集められ、もうひとたび「神にある者、十字架によって罪贖われ救われ、神のものとされている者である」ことを、覚えさせていただけるのだということを、改めて深く感謝したいと思います。 |
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