聖書のみことば
2026年1月
  1月4日 1月11日 1月18日 1月25日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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1月18日主日礼拝音声

 荒れ野で叫ぶ者
2026年1月第3主日礼拝 1月18日 
 
宍戸 達教師(文責/聴者)

聖書/マルコによる福音書 第1章1〜8節

<1節>神の子イエス・キリストの福音の初め。<2節>預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。<3節>荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、<4節>洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。<5節>ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。<6節>ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。<7節>彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。<8節>わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

 第1節に「神の子イエス・キリストの福音の初め」とあります。マルコはここで、今、何が始まろうとしているかを語ります。イエス・キリストと呼ばれる方によってもたらされた喜ばしい知らせの出来事です。しかしマルコは、すぐにイエス・キリストその方について語り始めるのではありません。この場所では、まだイエス・キリストというお名前は出てきません。それに変えて、別の人物、洗礼者ヨハネのことが語られます。そして今朝、私たちが特に注目したいのは、この人物のことです。
 ヨハネのことは、旧約聖書の中に出てくる預言者イザヤの預言に導かれるようにして語り始められます。2節から4節に「預言者イザヤの書にこう書いてある。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。「主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。」』そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」と記されます。私たちの聖書では、2節に「預言者イザヤの書に」と書かれています。しかし原文では、このところは、ただ「預言者イザヤに」と書かれているだけです。「書に」という言葉はありません。ということは、マルコはここで間違えられないように注意深く、用心して書いているのです。つまり2節と3節に出ている預言の言葉は、イザヤという一人の預言者が自分の書いた書物の中で、そのように言っているのではないと言うのです。マルコにとっては、そしてそれはその当時の読者である誰にとってもそうなのでしたが、当時旧約聖書はもともと神によって語られたものであり、本来の語り手は神その方でした。ですから、マルコが「預言者イザヤによって」という時、そこで語られる出来事は、はるか遠い昔に神が預言者イザヤを通してお知らせになっていたことであり、したがって、それは神がずっと以前から決めておられたことであると言うのです。洗礼者ヨハネの登場という歴史上の事実は偶然ではなく、神がなさる救いの歴史の上での出来事です。ですから、その後に続くイエス・キリストの出来事もまた、神がなさる救いの御計画なのです。

 一人の人が主に先立ってやって来ます。一人の先触れ役である者が、「主のために道を整える」と告げられます。このようにして、ここではその先触れ役に続いておいでになる方のことも、それとなく告げ知らされるのです。その先触れ役について、6節では次のように描かれます。「ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた」。この姿格好は何を物語るのでしょうか。旧約聖書の列王記下1章8節を見ますと、そこには次のような言葉が書かれています。7節から読みますと、時のイスラエルの王アハズヤは、家来たちに向かって、「お前たちに会いに上って来て、そのようなことを告げたのはどんな男か」と尋ねます。すると、それに対して家来たちが、「毛衣を着て、腰には革帯を締めていました」と答えると、アハズヤは、「ああ、それはティシュベ人エリヤだ」と、その人物が預言者エリヤであると言い当てます。従って、ここに登場する洗礼者ヨハネもまた、その服装からすると旧約の預言者のように振る舞っていたことになります。そして、その洗礼者ヨハネは、「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えていた」のです。
 しかしそれにしても、ヨハネが伝える「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」というのは、一体何なのでしょうか。それについて、マルコは詳しいことを何も語りません。しかしその内容を説明するような記事が、マタイとルカによる他の2つの福音書には出ています。マタイによる福音書3章7節以下には、洗礼者ヨハネが行った説教として、次のように書かれています。「ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。『蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。「我々の父はアブラハムだ」などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる』」。私たちはこれまで、ヨハネについて抱いている考え方を傍に置いて、ヨハネの語ることに聞き入る必要があります。洗礼者ヨハネが語っていることは、どういうことなのでしょうか。ヨハネは、「神による裁きの時が今や熟しきっている」と伝えます。世界の終わりの時が近づいています。「斧は既に木の根元に置かれている」、この表現は、木こりが木を倒そうとする場所に斧を当てて、今や一撃を加えようとしている、その瞬間を語っています。それほどに裁きが迫っています。ですからヨハネは、「一刻も早く」と人々に悔い改めを宣べ伝えるのです。
 「悔い改め」と訳されている言葉は、元々、生活のあり方が全体として切り替わるという意味を持っています。単にこれまでの生活を悔いて改めるというような意味とは丸切り違います。自分の罪を告白し、新しい生活を始めたいと心から願う人、そのような人にヨハネは、火の洗礼に見舞われるより先に水の洗礼を施して、救うのです。そのために、神は恵みをもってヨハネを遣わされました。ヨハネはそのように、自分のことを、世の終わりに当たり特に遣わされた人物だと考えています。単に道を整える人というのではありません。ある意味では、来たるべき方、すなわち最後の最後にやって来て裁きをつける裁き主と対等に渡り合えるほどの人物として自分のことを考えています。ヨハネにとって、やがて来たるべき方は、もっぱら裁きをつける恐ろしい方です。その方がやって来られたなら、「もはや時遅し」です。その方がおいでになったなら、あらかじめ改心して救われるなどという余裕は、もはやありません。
 しかし今、このようなヨハネの説教に心を打たれ、彼の洗礼を願ってそれを施される人は保護されます。そのような人は、来たるべき方が天の箕で掬ってくださる実となります。従って、この洗礼がそれに相応しくない者に施されて、その人を神の怒りから救うなどということはあるはずがありません。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか」、これが洗礼者ヨハネの告げ知らせる内容です。強烈な性格の持ち主であったヨハネは、初めから終わりまで、そのようなことを語り続けます。当然、洗礼者ヨハネの周りには、多くの信じる者たちが群れ集います。ヨハネの弟子たちがたくさん生まれます。

 新約聖書には、後に主イエスを救い主と仰ぐキリスト者の群れが形作られた時に、それとは別に、このヨハネに従った者の一派が存在していたことが記録されています。使徒言行録19章の初めには、パウロがエフェソでヨハネの弟子たちに会った記事が書かれています。また、ヨハネ福音書の中にもヨハネの弟子たちのことが繰り返し語られています。
 しかしそうだとすると、洗礼者ヨハネは、主イエスその方については、どのように考えていたのでしょうか。私たちは、ヨハネが主イエスのことをあらかじめよく知らされていたと教えられていたような気がします。しかし実際のところはどうなのでしょうか。再び先程のマルコ福音書の箇所に戻りたいのです。そこには7節から8節にかけて、「彼はこう宣べ伝えた。『わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる』」と記されます。ヨハネは確かに、彼の後に誰かがやって来るということを語ります。しかし、それがどなたであるかをヨハネは知っていたと言えるでしょうか。ヨハネは彼の後に見える来たるべき裁き主を謎めかして語っているに過ぎません。ヨハネは、主なる神御自身が裁きを執行なさる方であるとは語っていません。しかしその役割を担わされるのは人間でもありません。なぜなら、マタイはそうなのですが、ヨハネの後に来られる優れた方という言葉がそのどちらにも当てはまらないからです。この優れた方は、ヨハネが屈んでその方の履物の紐を解く値打ちもないほどに優れた方であると言われます。「履物の紐を解く」というのは、当時は最も卑しい奴隷のする仕事でした。
 しかしそれにしても、主なる神が人間以上に、そしてどんな預言者にも勝って、果てしなく優れておられることは、ユダヤ人にとっては分かりきったことです。ヨハネよりも神が優れておられるということを改めて言い出すのは、それこそ冒涜にも近いことです。ですから、神御自身が来たるべき方であるはずがありません。しかし、それは人間でもありません。マタイやルカが、洗礼者ヨハネがやがて見える方のことを、「その方は手に箕を持って脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて蔵に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」と紹介したことを伝えます。これは単なる譬えではありません。「罪人を焼き尽くす」、この裁きの火は恐るべき現実です。
 ヨハネの後にやって来る方、その方は火で洗礼を施すのです。それほどに恐るべきことを実際に行えるのは、決して人間であろう筈がありません。来るべき裁き主は、地上を超えた存在なのです。

 しかしそれでは、この優れた方、来るべき方というのは誰なのでしょうか。ヨハネには分からない、分かっていないのです。もちろんヨハネ自身は、決してその来たるべき方であろうとはしません。彼はただ、その先触れ役であろうとしただけです。後に洗礼者ヨハネは、当時の領主、ヘロデの行状を厳しく非難したために、死海の東側の岸にあるマルケス城の地下牢に閉じ込められます。そしてその行く末は既に予想され、彼はほどなく処刑されるでしょう。しかし聖書には、彼がその時、地下牢の中から有名な問いを発したことが示されています。マタイ福音書11章2節から3節に「ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。『来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか』」と記されます。ヨハネは牢獄に囚われている間に心が弱くなり確信が揺らいだのではありません。そうではなくて、もともとヨハネには誰が待望の救い主であるか、分からないでいるのです。自分が露払いの務めを担わされていた救い主は誰であるか、それを分からずにいるのです。それが今、ナザレのイエスと呼ばれる人物が現れて、救い主としての業を始めたらしいという様子を、弟子たちから聞かされます。それで彼は、その人物が本当に救い主であられるのかと確認したいと願います。それが確認できたなら、ヨハネは、たとえ牢の中で命を落とすようなことになろうとも、彼自身の生涯を尽くして、来たるべき方を指差し続け、その働きが虚しくなかったということを知るでしょう。

 そしてヨハネは、それに対する答えを主御自身から親しく伺うことができるのです。同じくマタイ福音書11章4節から6節です。「イエスはお答えになった。『行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである』」。ヨハネに与えられた主イエスのお返事の言葉はこれでした。「神の子イエス・キリストの福音の初め」、まだその主役が登場しない先に、そしてまだその先触れ役の人物しか登場しない時に、既にそこでは神の深い憐れみの御業が働いています。洗礼者ヨハネ、「およそ女から生まれたもののうち、洗礼者ヨハネより偉大なものは現れなかった」と、主イエス御自身が仰せになった人物、彼は、神はその人物の生涯の最後に、彼の人生、証し人としての人生が確かに意味のあるものであったことを彼に悟らせてくださいました。ヨハネは確かに預言者としての働きを与えられました。しかし、「預言者の一人であった」とこれまで私たちが考えてきたように、彼は自分の一生をかけた仕事が、一体神の御計画の中でどのように位置づけられるのか分からないままに、その務めを果たしてきたのでした。しかし、その生涯の最後に立って、彼は、彼の人生が、証し人としての人生が豊かな意義に満ちているのであったことを知らされます。救い主に出会うことによってです。

 このような事情は、福音書の中には他にも多く見られます。ルカ福音書2章25節のシメオンがそうですし、2章36節のアンナがそうです。しかしこのことは、ヨハネやその他の人々だけでなく、私たちについても同じように言えるのではないでしょうか。私たちには、今、自分に与えられている人生の仕事が一体どのように意味があるのか、ほとんど分かりません。そのために私たちは深く悲しみ、また苦しみ、疲れ果てます。
 しかし聖書は語ります。それは預言者以上の者と言われた洗礼者ヨハネにおいても同じだったのだということを教えてくれます。そして彼は、その生涯の、証し人としてのその生涯の最後において、救い主にお会いし、そして彼自身の人生の意義を認めることを許されました。まして、私たちは主によって、「しかし天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」と言われている者たちなのではないでしょうか。すでに救いの主にお目にかかることを許された者たちなのではないでしょう。それなら私たちは、私たちの生涯が確かに神の御計画のうちに位置づけられていることを確信して良いのです。主の御手の内にあって、私たちは決して失われることがありません。私たちは、主の祝福のうちに、私たちの生涯を認める者でありたいのです。

祈ります。聖なる御神。新しい年を迎えることのできた私たちです。今朝もまた、一同相揃い、御前に集うことを許されました。年の初めにあたり、福音宣教の先触れ役であった洗礼者ヨハネの生涯について、まず聞かされます。彼の如く試練の多い人生でも、救いの主の身許においては、すべてが意義に満ちたものであることを知らされます。私たちはすでに救い主イエス・キリストによって保護され、見守られております。御神の力強い祝福のもとに置かれております。どうぞ、このことを確信し、この一年を辿らせてください。この願いと感謝、私たちの主イエス・キリストの御名によりお祈りいたします。アーメン

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