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2026年1月 |
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| 1月4日 | 1月11日 | 1月18日 | 1月25日 | |||
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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| 神の喜び | 2026年新年主日礼拝 1月4日 |
宍戸俊介牧師(文責/聴者) |
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聖書/ルカによる福音書 第15章1〜7節 |
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<1節>徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。<2節>すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。<3節>そこで、イエスは次のたとえを話された。<4節>「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。<5節>そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、<6節>家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。<7節>言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」 |
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ただ今、ルカによる福音書15章1節から7節までを、ご一緒にお聞きしました。1節に「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た」とあります。 今日のところではまず、主イエスの言葉に素直に耳を傾け、主イエスからの喜びを受け取ろうとする人々の姿が語られています。それが1節に登場する徴税人や罪人たちです。「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た」、ここは原文では「彼に聞こうとして彼に近寄った」という書き方がされています。14章の最後で、主イエスが「聞く耳のある者は聞きなさい」とおっしゃっています。その主イエスの言葉を耳にして、それならば主イエスに聞こうじゃないかと思って、主イエスに近寄ってきたのが徴税人や罪人と呼ばれる人々でした。この人たちは、その就いていた仕事の性質上、当時のユダヤ人社会から弾き出されていたことが知られています。徴税人たちはユダヤの国の上に君臨し支配していたローマ帝国のための税金を集めることが仕事でした。そのために一般のユダヤ人たちからは敵の手先のように思われていて、交わりに入れてもらえませんでした。また罪人と呼ばれる人々は、犯罪を犯したことのある人というだけではなくて、高利貸しや遊女や羊飼いたちなども罪人と数えられていました。こうした人たちは、その生業のせいで安息日の礼拝に定期的に参加することが難しかったり、律法に照らして品行方正ではないと思われて、交わりに入れてもらえませんでした。 ところで、そういう主イエスのなさりようを横目で見ていて、我慢がならないという人たちがいました。それがファリサイ派の人たちや律法学者たちです。彼らは、主イエスを通して与えられる天の喜びを受け取ろうとはしません。彼らは、旧約聖書に記されている神の御言を、人間が守って生きるべき掟や戒律のように考えて、懸命にそれを守って生きようとしていた人たちです。ファリサイ派や律法学者たちは、聖書に語られている掟に対して真剣な態度を見せるため、当時のユダヤ人社会の中で尊敬され重んじられることの多い人たちでした。そんなファリサイ派や律法学者たちが主イエスのあり方を非難します。徴税人や罪人たちを迎えて一緒に生きようとする主イエスのありようを、不潔で不快なものと感じたためです。 2節に「すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした」とあります。新共同訳聖書の翻訳は幾分なだらかな上品な訳ですが、「この人は」と訳されている言葉は直訳すると「こいつは」と書いてあります。また「不平を言う」というのは、ただ文句を並べたというのではなく、強い言い方になっています。ニュアンスを活かすならば、「大っぴらに大声でしつこく不平を並べ続けた」と訳せる強い言葉が使われています。ファリサイ派の人たちにとって食卓の交わりというのは、お互いの親しさを示すまことに大切なものでした。そこに罪人がいることは決して見過ごしにできないことのように思えたのです。彼らの考えによれば、神の民の交わりは、いつでも清く正しい者の集いでなくてはなりませんでした。その交わりの中に、主イエスが行っているような徴税人や罪人を大勢迎えるようなことは、考えられないことだったのです。 けれども、自分たちが清らかであるべきだと考えたファリサイ派の人々の「清さ」とは、実際にはどのようなものだったのでしょうか。それは上辺だけの清さ、見せかけだけの清さに過ぎないものだったのではないでしょうか。確かに上辺を取り繕って、他の人たちに本当の自分の心の内を包み隠し、清らかそうに見せることはできるかも知れません。しかし見掛け倒しの清さは、一体全体、神の前で通用するのでしょうか。神は完全に清い聖なる方でいらっしゃいます。その神の前に立つ時には、私たち人間の上辺だけの清さというのは、あっという間に化けの皮がはがれてしまうのではないでしょうか。ですから主イエスは、そんな見掛け倒しの清さをまったく評価なさいません。むしろ、神の御前に通用する本当の清さ、清らかさを与えるために、私たちを招いてくださり、主イエス御自身の清さをまとう聖なる者にしようとしてくださいます。主イエスは私たちを清い者とするために御言を語りかけてくださり、「聞く耳のある者は聞きなさい」とおっしゃって、私たちを御自身との交わりの中に招いてくださるのです。 上辺だけを敬虔そうに見せかけることで安心し満足しているファリサイ派の人たちに対して、この日、主イエスは失われた一匹の羊のたとえをお語りになります。4節に「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」とあります。この言葉から、羊を捜し回るのは、この羊の持ち主であることが分かります。この人物は羊飼いであるようですが、雇われた働き人ではありません。羊の群れの持ち主として、どの一匹も失われることがないように心を砕きます。このたとえ話では、99匹の羊たちが野原に残されることになってしまい、人によってはむしろ99匹の羊の安全が気になる方がいらっしゃるかも知れません。しかし、一人の羊飼いがたとえ牧羊犬の助けを借りたとしても、自分一人きりで100匹の羊の世活をすることはできません。羊の持ち主は一人きりで群れの世話をしているのではなくて、他にも兄弟か雇人の羊飼いがいるに違いないのです。ですから、99匹は放たらかしにされるのではありません。ちゃんと保護された状況下にあります。ですからこのたとえ話の中では、99匹と1匹とどちらが大切かということは、初めから問題になっていません。むしろ大きな問題と考えられているのは、失われた一匹の羊の状況です。「見失った」と言われていますが、この言葉は聖書の別の箇所では、「滅ぼす、絶やす」と訳される言葉です。聖書の別の箇所で、ファリサイ派の人たちが「どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた」とありますが、その「殺す」と同じ言葉です。そうしますと、「見失われた一匹の羊」は、ただ単に姿が見えなくなったのではなくて、滅んでしまったとか命が絶えてしまったと言うべき状況に陥っています。普通ならば、滅んだり死んだりすれば、そこで諦める他ないのですが、この羊の持ち主は、滅びの中にまで羊を追いかけて行って、それを見つけ出し、連れ帰って来ます。 羊を見つけて「担いで」帰って来たと言われていますが、羊を担ぐというのは、羊飼いの生活を知らない私たちからすると、いかにも慈しみ豊かな慈愛の表現のようにも感じられますが、実際には、迷った羊は不安と恐れでパニック状態に陥り、走り回ってくたびれているため、自分ではそれ以上歩けないそうです。担いで連れて帰ること自体は珍しいことではありません。それよりも注意して聞くべきなのは、この持ち主が一匹の羊を見つけ出すまで捜し回ったと言われていることです。見つけ出すまで捜すのを止めないのです。主イエスは、この持ち主がある程度捜して、見つからなかったらそこで諦めるという話をしているのではなく、「見つけ出すまで捜す」とおっしゃいます。これはどういうことでしょうか。 主イエスのなさった救いの御業ということでは、私たちは普通、十字架の出来事を思い浮かべます。けれども主イエスは、ただ飼い葉桶から十字架までの道のりを歩んで行かれ、そこで救い主としての御業を果たして終わったという方ではないのです。「わたしは十字架に掛かって、あなたがたのために救いの業を果たした。あとはあなた自身の問題だ」と主イエスはおっしゃいません。これは、私たち自身の日頃のありようを思えばすぐに分かりますが、私たちは、主イエスが十字架に掛かって私たちのために罪の報いとしての苦しみと死を経験してくださったことを、実にしばしば忘れて過ごしています。それはたとえて言えば、私たち自身が失われた一匹の羊になっている状態に他ならないのです。 このたとえ話からは、神がどんなに真剣に、私たちが清い者となることをお考えであるかということが聞こえてくるのではないでしょうか。しかもこれは、私たちが自分自身の力で清い者になるという話ではありません。さまよい出して一匹になっている羊に向かって「自分で帰って来い」と言われているのではないのです。神の救いの御業に背を向け、神の民としての本来のあり方からさまよい出してしまう私たちを、羊の持ち主である主イエスが全力を傾けて捜し出し見つけ出し、連れ帰ってくださるのだと語られています。 |
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