ただ今、ルカによる福音書15章8節から10節までをご一緒にお聞きしました。
10節に「言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」とあります。このルカによる福音書15章には3つ(ないし4つ)のたとえ話が記されていて、それらのたとえ話には互いに共通点があります。「失われた者、いなくなったものが発見される。見つけられ、見出される。そして大きな喜びがそこに訪れる」という筋書きが、これらのたとえ話には共通して語られています。そして、「見つけてもらう」ということが、実際には、罪によって神を見失い神から離れてさまよい出していた者、その意味で見失われ、いなくなっていた人が主によって見出され、今まで見失っていた神とのつながりの中に立ち返らせてもらう悔い改めなのだということも、それぞれのたとえ話の中で共通して語られている事柄です。
15章のたとえ話にくり返して語られる「大きな喜び」というのは、私たちが主イエスに導かれて神の許に取り戻される喜びです。その大きな喜びが今日のたとえ話ではどのように語られているのでしょうか。わずか3節の短い箇所ではありますが、ここから「悔い改めて神と共に生きるようにされる喜び」の事柄を聞き取ってみたいのです。
そのために、まずはこのたとえ話に語られている状況について一つ一つ確かめながら聞いてみましょう。8節に「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか」とあります。一人の主婦が登場します。この主婦が自分のものとして持っていた10枚の銀貨のうち、1枚を無くしてしまったというのです。ドラクメ銀貨というのは、聖書の後ろについている度量衡の表を見ると記されていますが、約4.3gの銀貨で、1ドラクメは1デナリオンに相当すると言われています。デナリオンと言われると思い当たる方もいらっしゃるでしょう。1デナリオンは当時の平均的な職人の1日分の給料で、その人が1日暮らせるぐらいのお金でした。1日分の生活費は、今日は人によってまちまちかも知れませんけれども、大体8,000円から10,000円ぐらいでしょうか。また4.3gの銀貨がどれほどの大きさになるかと思って試しに我が家の量りで量ってみましたが、100円玉は2グラム、500円玉は6gぐらいでした。ですからドラクメ銀貨の大きさは500円玉より一回り小さいぐらいの大きさということになりそうです。大きさはそれくらいで、金額で言うと8,000円から10,000円ぐらい。この主婦は、そのドラク銀貨を全部で10枚持っていたというので、大体8万円から10万円くらいのお金を持っていたことになります。
それで何となく分かったような気になってしまうのですが、実はもう一つ考えなくてはならないことがあるのです。それは、なぜこの主婦が銀貨を自分の物として持っていたかということです。あるいは別の言い方をするなら、この10枚の銀貨は、この主婦にとってはどのような意味のあるものだったか、ということです。今日でしたら、何か入り用なことがあって銀行や郵便局から8万円とか10万円を下ろしてきてお財布の中に忍ばせているということは、男女を問わずありそうなことに思えます。けれども、1世紀のユダヤ人社会の中では、そんな風にお金を下ろして財布の中に忍ばせている主婦というのはいませんでした。当時は家の主婦であっても、子どもたちや奴隷と同じように、その家の主人の持ち物のように扱われていたのです。自分自身が女主人ではなくて、夫の持ち物と見なされていましたから、普通であれば、女性は自分自身の財産を持ちません。ただ、結婚して誰かの妻になり主婦となる時には、何枚かの貨幣を持って嫁いで行きました。いわば持参金を携えて行くのですが、それは夫に渡すためではなくて、万が一、離縁されてしまうような時には、その持参金を使って食べ物を分けてもらいながら実家に戻るための費用でした。今日でも中東の女性が金貨や銀貨をアクセサリーとして首飾りにしていたりしますが、それは古い時代の名残りなのです。実家が少し裕福であれば持参するお金は金貨であることが多かったのですが、この女性が所持しているのは銀貨です。その意味ではこの主婦は決して裕福とは言えない生い立ちであったことが想像できます。こういうお金は、普段はお金の形ではなく、首飾りのようなアクセサリーにして、眠る時も肌身離さず携えていたと言われています。この主婦にとって、離縁というような人生の最も危機に陥った時、最後に身を守る支えとなっているのが、このドラクメ銀貨でした。ですからこの銀貨は、この主婦にとっては何としても見つけ出し取り戻さなければならない大切なものであった訳です。
銀貨を捜すため、この主婦はともし火をつけ家中を掃いて捜し回りました。夜だからではありません。パレスチナ地方のつましい家は大抵一間だけです。窓にガラスを入れようにもガラスがまだありませんから、家には窓が無いのです。明かりが差し込むのは入口からだけです。おそらくは戸が外側に開き、入口の内側に垂らしてある布か毛皮を丸めて上にまとめ、外から射し込む光に向かって銀貨を掃き出そうとして、ともし火を助けにして、主婦は家中を掃いたのでした。床は土間のようなところに敷物が敷かれていますので、その敷物の上をまず掃き、見つからなければ敷物を上げ、家の中の暗がりを念入りに掃いて、戸から射し込むその光の中に銀貨が掃き寄せられるまで何度も根気よく掃き掃除を行ったのでしょう。8節はそのような状況を言い表しているのです。「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか」と、主イエスはそうおっしゃいます。この主婦にとってドラクメ銀貨は彼女自身の分身とも言えるぐらいに大切なものだったためです。
そして9節には、「そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう」とあります。この主婦のことを日頃から気遣ってくれる友達はもちろんですが、彼女の身に起きた銀貨を一枚見失ってしまったことの重大さは、同じ境遇に生きている近所の主婦であれば皆理解できるのです。それでこの主婦は、友達だけでなく他の女性たちも呼び集めて、喜びを共にして欲しいと言います。周囲の人たちは皆、この女性の経験した銀貨の紛失と発見について、最初は同情し、後に大喜びしたに違いないのです。
ところで、このようなたとえ話を聞かせた後で、主イエスはこの話の結びとして不思議なことをおっしゃいました。10節に「言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」とあります。今までのたとえ話で大きな喜びのあったことは理解できます。けれども主イエスは、この銀貨発見の出来事が一人の罪人の悔い改めなのだとおっしゃいます。ここが分からないのです。
前のたとえ話で、姿が見えなくなった羊であれば、自分で家まで帰り着くことはできないとしても、羊飼いが傍に寄って来て、それに気がついたらメーメーと鳴いて、自分がここにいると助けを求めるくらいならできるでしょう。あるいは後のたとえ話で、放蕩息子であれば没落の最中にあって父の家の雇人の一人にしてもちおうと出て行った道を戻って来ますから、そういうことが悔い改めだということなら分かります。ですが銀貨の場合はどうでしょうか。銀貸は、ただ明るい光のもとに掃き出してもらうまで、じっとしていることしかできないのではないでしょうか。この銀貨のどこに、悔い改めと言われるようなところが見て取れるのでしょうか。実際、銀貨自体は、見つけてもらうために自分では何もできません。自分に何かができるかという点では銀貨は全く無力です。しかしそれならば、この銀貨のたとえ話と悔い改めは一体どうしてつながるのでしょうか。そこが不思議なところなのです。
この不思議さを理解するために、主イエスが以前に弟子たちにお語りになったもう一つのたとえ話を思い起こしたいのです。そのたとえ話も、やはり神が人々の中に実を捜すけれども見当たらないというたとえ話で、悔い改めにつながる話です。ルカによる福音書13章6節から9節に「そして、イエスは次のたとえを話された。『ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。「もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。」園丁は答えた。「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください」』」とあります。3年間、実を一向につけようとしないいちじくの木を切り倒すように求める主人に対して、あと一年だけ待って欲しいと願う園丁が登場するたとえ話です。このたとえ話の中で、いちじくの木の持ち主は神を、園丁は主イエスを表しています。そして、神がいちじくの木にお求めになるのは、悔い改めにふさわしい実です。このことは、直前の5節で「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と主イエスがおっしゃっていることから分かります。
では、今にも切り倒されてしまいそうな危険な状況の中にあるいちじくの木は、一体誰でしょうか。これはユダヤ人であり、弟子たちでもあり、私たちキリスト者でもあるのです。神はこのたとえ話の中でおっしゃいます。「もう三年もの間、このいちじくの木に実を捜しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ」。「悔い改めにふさわしい実を結ぶように」と、神はもう3年もの間忍耐して、いちじくの木に実を捜し続けてくださいました。しかし一向に実がなりません。それで遂に木を切り倒すと決心をなさいます。実を結ばなかった木を切り倒すようにと園丁に求めるのです。ところが園丁は、もう一年だけ猶予をくださるようにと、神に願います。木が実を結ぶように、最後にもう一回だけ努力を傾けてみると園丁は言うのです。いちじくが実を結ぶことができるために土を掘り、肥やしをやってみると言います。「木の周りを掘って、肥やしをやってみます」と記されていますが、原文を読みますと、主イエスはここで、「えぐり取って、実を結ぶための肥やしを投げ込む」という言い方をしておられます。これは、「御自身の身をえぐり、それを肥やしとして投げ込む」と読むこともできるような言葉です。園丁が自らの身をえぐり、そして実を結ぶための肥やしを与えるというのは、十字架の出来事を連想させるのではないでしょうか。
3年もの間まったく実を結ばないというのは、主イエスの3年間にわたる公生涯の中で、まったく誰も悔い改めにふさわしい実を結ぶことがなかったことを表しています。つまり、主イエスは3年間、神の国の訪れを人々に宣べ伝え、神の民として生きるようにと招かれましたが、その招きに誰も応えることはありませんでした。ユダヤ人も弟子たちも、自分から神の方に向き直り悔い改める、新しい生活を始めて実を結ぶということはありませんでした。それで神は、見切りをつけられ、いちじくの木を切り倒そうと決心なさいます。神が御自身の民に裁きを下そうとなさいます。ところが、その神の前に園丁が立つのです。園丁自身が土をえぐり、身をささげて、いちじくが実を結ぶように肥やしを与えると申し出ます。そうすることによって、来年はこのいちじくの木に悔い改めの実が結ぶかもしれない、そう言って、園丁は主人にもう一年だけ待って欲しいと頼みました。肥やしを与えるために、実を結ぶという点ではまったく無力ないちじくの木に実を結ばせる肥やしとなるために、「主イエス御自身が身をささげられる」、13章はそういうたとえ話です。
そして、今日の銀貨のたとえ話は、13章の実を結ばないいちじくの木の話と同一線上にあるたとえ話です。園丁が自らの身をえぐって肥やしを与えるのと同じように、15章では主婦が家中のあらゆる所を、暗がりの隅に至るまで何度も何度も丁寧にヒソプの枝で作られた箒で掃き清め、遂には銀貨を取り戻すことに成功します。見失った銀貨が本来の持ち主の手に戻り、周囲の人々や神の天使たちの間に歓声が湧き起こり、大きな喜びが生まれる。そのところまで、主婦はきっと銀貨を捜し求めるのだと、主イエスはたとえ話を通して教えるのです。
人間にはとても出来そうもないことも、神は実現なさいます。本当に辛抱強く忍耐して、神は主イエスの御業によって悔い改めに導かれてゆく人たちを喜び迎えてくださるのです。
そのようにして、神の民に加えられた人の中に、使徒パウロがいます。使徒パウロはガラテヤの教会に宛てた手紙の中で「生きているのは、もはやわたしてはなく、キリストがわたしの内に生きている」と書きました。それはパウロが自分の悔い改めを指差しながら語っている言葉です。元々サウロと名乗っていた彼は、ちょうど今日のたとえ話に出てくる銀貨のように、自ら悔い改める可能性などまるで持ち合わせていない、教会の迫害者でした。ところが、そのようにキリスト者を迫害し殺してしまおうと思ってダマスコに向かっていたサウロに、突然天からの光が臨み、キリストが出会ってくださいます。その光は、パウロに信仰が与えられてからは絶えずパウロを温め勇気づけてくれるものでしたが、当時のサウロにとっては地に倒されるほどの圧倒的な光でもありました。その光の中でサウロは、「主よ、あなたはどなたですか」と尋ねます。すると答えがあり、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」、そう主イエスが名乗り、出会ってくださり、パウロに悔い改めが生じたのでした。
パウロは彼なりに様々に考えて、主イエスこそ救い主なのだという福音理解に自分で到達したのではありません。主イエスがパウロのもとを訪れてくださり、まるで押し入るようにして、パウロの主となってくださいました。それでパウロは、「生きているのは、もはやわたしではなく、キリストがわたしの内に生きているのです」と証しするのです。
信仰は、私たちがあれこれ考えて辿り着くような、人間の理解とは違います。神が私たちを捉え、「あなたはわたしのものだ。わたしのものとして生きるのだ」とおっしゃってくださる、その語り掛けを聞いて、私たちはキリスト者とされてゆきます。
銀貨が悔い改めるようなことは、通常の人間の理性では考えられないことです。けれども、園丁である主イエスが自らを肥やしとして、決して実を結ばなかったいちじくの木に実を結ばせてくださるように、悔い改めは、私たちの上に神が訪れさせてくださるものなのです。ですから私たちは、自分自身についても、また執り成しの祈りの内に憶えている誰かについても、がっかりする必要はありません。「どんなに隅に隠れている銀貨も、きっと主婦が光のもとに掃き出してくれる」と、主イエスが今日のたとえ話を通して語っておられるからです。
では、悔い改めに導かれた人は、どのようなあり方をするのでしょうか。自らの罪の重さを思って反省するのでしょうか。そうではありません。今日のたとえ話の中にはっきりと述べられています。発見された銀貨は、大勢の人々の交わりの中で喜びの理由となり、またその喜びの中心に置かれます。悔い改めた人は、自分一人で神の前に反省するのではありません。そうではなくて、「神によってこの人は見出された」と言って喜んでいる大勢の人の中に立たされて、自らもまた大いに喜び、見出してくださった主に感謝して歩む者とされます。
私たちの身の回りにも、そのように見出された者の喜びが豊かに満ちあふれるようにされたいのです。お祈りをささげましょう。 |