ただ今、ルカによる福音書9章49節と50節をお聞きしました。わずか2節だけの大変短い記事でしたが、今日の記事を次の記事と一緒にして読まなかったことには、ある理由があります。今日の箇所は、主イエスがガリラヤで活動され、弟子たちをお招きになり、神の御国の訪れについて教えられ基本的な訓練をなさっておられた、一番最後の記事になっています。次の51節になると、主イエスは「天に上げられる時期が近づいた」ことを悟られて、エルサレムに向かってゆく長い旅の生活にお入りになります。故郷であるガリラヤを後になさり、もう二度と、このガリラヤの地を踏むことはありませんでした。従って、今日聞いているこの記事は大変に短いながらも、主イエスがガリラヤで活動され、弟子たちを教え育てられた一つの単元の最後の記事なのです。この記事は大変短く、また次の記事も短くはあるのですが、2つの記事を一気に読まなかったのにはそんな理由があります。今日の記事は、ガリラヤでの主イエスの活動を伝える一連の記事の、言ってみれば結びに当たるような記事なのです。
しかし、これは何という結びでしょうか。主イエスがガリラヤで弟子たちを訓練なさり、そして次の記事から新しいステージ、新たな局面に歩み出されるというのであれば、弟子たちは主イエスから訓練されて、多くの弁えを持つ者に育っていて欲しいようにも思います。弟子たちが一定のところまで育ってきたので、主イエスがいよいよ満を持して、御自身の救い主としての働きを実行に移そうと思われエルサレムに向かわれるというのであれば、話はよく分かるのですが、今日のところに記されているのは、それとはまるで反対のように感じられる弟子の姿です。
ヨハネという具体的な名前が出ていますけれども、このヨハネが語っていることが、主イエスの御心とはまるで違っているというのが今日の箇所です。本当に、これで主イエスのガリラヤでの活動の結びになっているのだろうか、こんな結びで果たして良いのだろうかと思うような、何とも噛み合っていないやりとりが述べられています。これはどうしてでしょうか。今日のヨハネと主イエスのやりとりは、一体何を語っているのでしょうか。そのことを思いながら、まず49節をお聞きします。「そこで、ヨハネが言った。『先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちと一緒にあなたに従わないので、やめさせようとしました』」。
弟子のヨハネがある人物と出会ったことを主イエスに報告しています。その人は主イエスの名を語りながら、悪霊を追い出す癒しの業を行っていたと言われています。ところがその人は、ヨハネの見知らぬ人でした。主イエスの名を用いて癒しを行っていたこの人に対し、ここにははっきりとは語られていませんが、おそらくヨハネは、自分が主イエスの直弟子であると名乗ったのでしょう。そして自分たちと一緒に主イエスに従うようにと勧めたのですが、その人がそれを拒んで付いて来ようとしなかったため、ヨハネは、「それならば今後、主イエスの名によって癒しを行うことは止めて欲しい」と申し入れたのだと、ヨハネは語っています。この人がどうしてヨハネたちと一緒に主イエスに従わなかったのか、その理由はここに記されていませんし、また、ヨハネの申し入れに従ってこの人が癒しを行うことを取り止めたのかどうかということも不明です。とにかくヨハネは、この見知らぬ人が実際に行っていたことを止めさせようとしたのでした。
実は、このヨハネの言葉を、本当にこれはヨハネが主イエスに語った言葉なのだろうかと疑う研究者たちがいます。そういう人々に言わせると、これは弟子のヨハネと生前の主イエスのやりとりではなくて、むしろ多少時代が下がって、地上に教会が誕生したその初めの頃の教会の記憶が、ここに、ヨハネと主イエスとの対話という形で書き込まれているのではないかと言うのです。確かに、この福音書の第2巻に当たる使徒言行録を読んでいますと、13章で、バルナバとサウロがキプロス島に旅行して主の福音を宣べ伝えようとした時、そこに主イエスの名前を語って島の総督や人々を惑わせていたバルイエスという怪しげな人物と対決したという出来事が記されています。教会が始まった最初の頃に、そのような魔術師とも偽預言者とも呼ばれるような怪しい人々がいたらしいことは、ほぼ間違いないのですが、仮に今日の箇所が、そのように教会の外にいて偽物の信仰を吹聴していた詐欺師まがいの人たちのことを述べているのだとすると、そういう人々と教会は決して混同されてはならないという結論になるだろうと想像されます。ところが今日の箇所での主イエスのお答えは、そういう方向とは全く逆の「やめさせてはならない」というお答えになっていますから、これは、最初の頃の教会の経験がヨハネと主イエスとの問答の形で書かれているのではなくて、やはり、実際にこういうやりとりがあったのだろうと思わざるを得ません。
それに加えて、今日の記事が実際にあった出来事だったのだろうと考えることのできる理由が他にもあります。それは、ヨハネという固有名詞が書き込まれているということです。この福音書を書いたルカは、勿論、現代の歴史学者とは違いますが、古い時代の歴史家であると言われることがあります。それは、ルカには書き方の癖があるからです。たとえば主イエスのたとえ話を紹介する時には、一つの話だけではなくて二つ三つの同じようなたとえ話を並べることで、主イエスが伝えようとなさった事柄をよりはっきり示そうとする、そういう書き方の癖です。もう一つの癖としては、大事な言葉が語られたり大事な出来事が起こった時には、それを語った人や経験した人の名前をはっきり記すというところがあるのです。たとえば、主イエスが御自分のことを群衆が何者だと言っているかとお尋ねになったところでは、最初は特に弟子の名前が記されることはなくて、「洗礼者ヨハネだ」とか「エリヤだ」とか「預言者の一人だ」と返事をしたことが語られるのですが、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という決定的な問いかけを主イエスがなさった場面では、ペトロが「神からのメシアです」とお答えしたという風に、はっきりとした人名が記されます。このように記すことで、ルカは、この出来事の言葉が確かにペトロの口から発せられた事実であったことを示そうとするのです。それと同じように、今日のところではヨハネの名前をはっきり示すことで、この会話が確かに交わされたことを表そうとしている訳です。
さてそのように、今日の箇所が実際に交わされたヨハネと主イエスとの会話であったことを確認した上で、最初に申しましたように、ここでのヨハネの思いと主イエスのお考えはすれ違っています。ヨハネの言葉と主イエスの言葉は噛み合いません。その点を少し丁寧に聞き取ってみたいのです。
ヨハネは一人の見知らぬ人が主イエスの名を用いて癒しの業を実際に行っている様子を見て、これを止めさせようとしました。それは、この人がヨハネたちのグループに加わろうとしなかったためです。「わたしたちと一緒にあなたに従わないので、やめさせようとしました」とヨハネが述べているとおりです。ところが主イエスはそれに対して、「やめさせてはならない」とおっしゃるのです。一体それはどうしてでしょうか。50節に「イエスは言われた。『やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである』」とあります。主イエスはヨハネに向かって、「あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである」と、おっしゃいます。この主イエスの言葉とヨハネの語っている言葉の間にある違いは、一体何なのでしょうか。
ヨハネは、癒しを行っていた人が自分たちに従おうとしないので、その人を主イエスに従っている自分たちとは違う存在だと感じて、主イエスの名前をその人が使うことを止めさせようとしています。こういうヨハネの考え方の底にあるのは、まるで自分たちだけが主に従う者たちで、主イエスの名前を使わせるかどうかは自分たちがそれを決める権利を持っているかのような考え方です。けれども、こういうヨハネの考え方は、果たして正しいのでしょうか。
ここでヨハネは、自分たちこそが主イエスに従っている唯一のグループなのだと考えていて、ここで出会った見知らぬ人に対して、主イエスのお名前を用いて何かをしようとするのなら、是非とも自分たちのグループに入らなくてはならないように思っています。自分たちのグループに加わらなければ、その人は主イエスと何の関わりもないし、主のお名前を用いることなどはもっての他だと考えています。しかしこういうヨハネの考え方は、結果的に主イエス御自身の働きをとても狭い領域でしか考えていないということになるのではないでしょうか。
形の上ではヨハネたちのグループに属さないけれども、しかし、主イエスによって救われて新しい生活を始めることが許され、その生活の中で主イエスの御業を喜んで宣べ伝えている人たちがいるということを、ヨハネは考えられないのです。主イエスという方は、自分たち、主に信頼して主に従っているこのグループの中でしか働かれないと、ヨハネは思い込んでいます。けれども、実際はそうではありません。この福音書を著したルカも、弟子たちのグループには参加しなかったけれども、主イエスに感謝して主イエスのなさったことを喜んで語っている人がいる事実を語っていました。ルカによる福音書8章に登場していた、ゲラサ人の地に暮らしていて、主イエスにより「レギオン」と名乗る大勢の悪霊を追い出していただいた人がその人です。ルカによる福音書8章38節と39節に「悪霊どもを追い出してもらった人が、お供したいとしきりに願ったが、イエスはこう言ってお帰しになった。『自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。』その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた」とあります。この人は、彼自身としては主イエスにお伴したいとしきりに願ったのですが、主イエスがそれをお許しにならず、「家に帰り」、そしてそこで「神さまがあなたにしてくださったことを、ことごとく話して聞かせるように」とお命じになりました。この人はそれによって、ヨハネたちの仲間に加わることにはなりませんでしたけれども、彼自身とすれば、主イエスがどんなに深い憐れみと慈しみを自分にかけてくださり、支えられて生きるようにされたかということを、与えられた生活の中で感謝しながら宣べ伝える者になったのでした。
ルカによる福音書の中には、この一例だけが記されていますけれども、福音書の中には主イエスが地上の御生涯でなさったすべのことが書かれている訳ではありません。主イエスがなさったことで福音書には記されていないことも、もちろん沢山あるに違いないのです。そうすると、こういう一人の人の姿が語られているということは、主イエスとの出会いによって力や勇気や慰めを与えられて新しく生き始めたという人が、他にもたくさんいたと考えてもおかしくないのです。
今日の箇所に記されているヨハネの姿は、主イエスを信じ従っているつもりの自分たちしか、主イエスとの交わりに生きていないと思い込んでいる姿です。そしてこういう姿からは、更に踏みこんで次の事柄も考えさせられるのです。それは、では本当にヨハネたちは主イエスに従っていたのだろうかということです。
今日の記事の中で、ヨハネが出会った見知らぬ人は、主イエスの名を用いて悪霊を追い出していました。追い出そうとしていたとか追い出せるフリをしていたのではなくて、ヨハネは確かに、主イエスの名によって癒しが行われたその現場に居合わせたと語っています。そして、この「悪霊を追い出す」ということは、少し前のところで、主イエスの弟子たちはそれに失敗していたことでもありました。悪霊に取り憑かれている息子を抱えた父親が主イエスに、「お弟子たちにお願いしましたが、悪霊を追い出していただくことはできませんでした」と訴えかけるという出来事がありました。どうして弟子たちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか。
主イエスは弟子たちの失敗を聞かされた時、「なんと信仰のない時代なのか」と、弟子たちの信仰のなさを、あるいは、そこに神への信頼がないことを嘆いておられました。主イエスが弟子たちに期待した信仰を、この時点で弟子たちは持ち合わせていなかったのでした。むしろ、この時弟子たちの心を捉えていたのは、「自分たちのうち、誰が一番偉いか」という思いでした。力ある立派な者になりたいと、上へ上へと思う気持ちです。それは、主イエスが十字架にお掛かりになって陰府の底にまで降って行こうとしておられるのとは、まるで逆方向を目指す心の思いでした。従って、ヨハネを初めとした弟子たちは、この時点で主イエスがどこに向かおうとしておられるのか、まるで分かっていません。それでいて、自分たちこそが主イエスの最も身近な者たちであるかのように思っていて、実際に癒しの業を行えていた人に向かって、自分たちに従うように求めています。もしかするとその人は、主イエスになら従って良いという思いがあったとしても、ヨハネたちに従おうという気持ちにはとてもなれなかったということであったかも知れません。
今日の箇所は、主イエスの御心がちっとも分からずにいるヨハネの姿が語られており、そしてこれが、主イエスのガリラヤでの弟子たちの訓練の結びになっています。大変意外なことのように思いますが、しかし、このような弟子の姿がここに記されていることは、改めて考えますと、私たちにとっては感謝すべきことであるのかも知れません。というのも、ペトロが主イエスについて「あなたは神からのメシアです」と極めて重大な信仰を言い表した後の弟子たちの姿というのは、いずれも主イエス・キリストが救い主として歩もうとしておられる道をまったく理解せず、理解しないままで、弟子たち自身は主に従えていると思い込んでいる姿だからです。弟子たちは本当に何も分からず、主イエスの周りをうろうろしているだけですが、自分たちとしては従っているつもりです。何も分からず不甲斐ない姿をしている弟子たちの姿が、この箇所を含めて前の箇所にはずっと包み隠さずに記されているのですが、しかし主イエスは、そんな状況の中にあっても、御自身が天に挙げられる時がやってきていることを知り、救い主であるメシアの御業を果たすためにエルサレムに向かって歩んでくださることが、今日の記事と次の記事に記されています。つまり「神の御業は、私たちの状態によって左右されるものではない」ことが、ここに言われています。
私たちにしてみれば、弟子たちがもう少しましな姿をしたので、次の段階に進んで良いと主イエスがお考えになったというのであれば分かりやすいのですが、しかし実際には、ここにいる私たちもですが、しばしば神の御心が分からずにいるということはあり得るのです。私たちに神の御計画が理解でき、御心が分かったから、神がそれに従って御業をなさってくださるというのであれば、神の御業はおそらく、何百年経っても行われないのではないでしょうか。神は弟子たちの様子に拘らず、御自身の御計画を持っておられ、そして主イエスはそれに従って行動してくださるのです。
それは、私たちの間においてもそうです。私たちが分かるようになったから事柄が先に進んでいくということではありません。全然分からずにいる弟子たちの間でも、主イエスは救い主としての御業へと歩んで行ってくださるのです。ということは、私たちには神の御心が分からないということがあるとしても、しかしこの世界の上にも神は憐れみをもって臨んでいてくださり、主イエスがその只中で御業を行ってくださる、そのことを今日の箇所は語ろうとしています。弟子たちが主イエスの御心を知り理解できたので、主の救いの御業が次のステージに進むのではなく、逆に、まるで無理解な弟子たちのためにも、主イエスはエルサレムへ向かい、十字架に掛かってくださり、救いの御業を確かに果たしてくださるのです。
今日の箇所から私たちは、私たちの救いが決して私たち人間の側の理解や信仰の強さによって生じるのではないことを聞かされています。ただ主イエスが私たち人間を憐れみ、慈しんでくださることによって、御業は果たされるということが、ここから聞こえてくるのではないでしょうか。
主イエスは私たちの理解を超えたところでも確かに救いの御業を行ってくださり、私たち人間の思いを超えるような仕方で、私たちに慈しみを確かにもたらしてくださるお方なのです。そういう主イエス・キリストがいつも、教会の主として私たちに伴っていてくださることを感謝して、今日からの一巡りの歩みへと遣わされたいと願うのです。お祈りをささげましょう。 |