ただ今、ルカによる福音書9章28節から36節までを、ご一緒にお聞きしました。28節に「この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた」とあります。ここには祈りを捧げておられる主イエスの姿がクローズアップされ、語られています。今日のところだけではありません。ルカによる福音書では、主イエスが事あるごとに祈りを捧げる姿が語られます。バプテスマのヨハネから洗礼を受けられる場面でも祈っておられました。また12弟子をお選びになる際にも、山に登って祈りを捧げてから12人を使徒として選んでおられました。更には、つい一週間ほど前に弟子たちに向かって、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と重大な問いかけをなさり、「神からのメシアです」という返事をお聞きになりましたが、その際にも神に祈りを捧げてから、弟子たちに問いかけられたのでした。
お祈りを捧げることで、主イエスは常に神の御心を尋ね求められ、そして神の御心を知らされ励まされながら、地上の御生涯をその最期まで歩んで行かれます。このような祈る主イエスの姿は、この先にはゲツセマネの園でも見られ、更に十字架の上でも見られることになります。ルカによる福音書に記されている主イエスの最期の言葉は、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」という祈りの言葉でした。主イエスは神に祈ることで最期まで神に信頼し、神に御自身をお委ねして歩まれました。
こういう主イエスの祈る姿は、弟子たちにも大きな印象を与え、弟子たちもまた、祈る群へと育てられてゆきます。ルカによる福音書の第2巻に当たる使徒言行録1章には、ペンテコステの前夜に主イエスの母マリアや兄弟たちを囲んで熱心に祈りを捧げていた男女の弟子たちの姿が語られ、またペンテコステの出来事が起きた直後の教会の様子を伝える言葉の中にも、最初の教会が祈ることに熱心であったことが述べられています。このような教会の群れの一員であったステファノは、亡くなる際に「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と祈って眠りにつきましたし、ペトロたちが牢屋に捕らわれた時にも、牢の外では兄弟姉妹たちが彼らのことを憶えて熱心に祈ったこと、またパウロとバルナバが宣教旅行に出発した時にも、アンティオキア教会の兄弟姉妹たちが祈って手を置いて2人を送り出したことや、そのパウロが最後にエフェソ教会の人たちと出会いそして別れて行く時にも、まことに印象的な祈りの機会が訪れたことが語られます。
このように、主イエスが熱心に祈られた祈りは教会の群れの中に受け継がれ、そして、今日の私たちの教会生活の中にまで受け継がれるようになっています。
主イエスは御自身の御業のため、また弟子たち一人一人のため、私たちのためにも祈ってくださる方であり、その主イエスの祈りに導かれて、私たちも日々の生活の中で神に祈ることが許されています。私たちがお祈りを捧げる際には、「天におられる父なる神さま」と呼びかけ、祈りの終わりところでは、「このお祈りを、私たちの主イエス・キリストのお名前を通してお捧げします」と言って結ぶことが多いのですが、それはたまたまそうなっているのではないのです。私たちが祈りを捧げるのに先立って、まず主イエスが天の父に祈りを捧げてくださっていて、その主イエスを通して弟子たちも神に祈ることを教えられたので、私たちの祈りは天の父に祈り、主イエスの御名によって祈るようになっているのです。ルカによる福音書と使徒言行録は、そのように私たちの捧げるお祈りの根本のところに、主イエスが祈ってくださっているという土台が据えられていて、その主の祈りに執り成されて私たちも祈ることが許されているし、また、事あるごとに祈るように促されていることを知らせてくれています。
私たちは、困難な状況下にある時、また残念な時や悲しい時、苦しい時に、神に向かって訴えてよろしいのです。感謝な時や嬉しい時に、その喜びを神に伝えて賛美するのも願わしいことなのです。本当に辛く苦しい時には、「天の神さま」と呼びかけたきり後の言葉が思い浮かばず続かないことだってあるかも知れません。でも、それでもよいのです。神はきっと、あなたの胸の内にある言葉にならないような無念な思いを御覧になってくださり、それを受け止めてくださいます。
そういう私たちの祈りの土台となっているのが、主イエスが祈ってくださっているという事実なのですが、主イエス御自身は果たして、どのように祈っておられたのでしょうか。今日の箇所に、主イエスの祈りの生活の一端が紹介されています。主イエスは祈りの生活の中で確かに神から力を頂き、顔が輝いていたことが、ここに述べられています。29節に「祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」とあります。主イエスは祈りの生活の中で、明らかに神から力を与えられ勇気づけられました。その様子は、顔が輝き、それが身につけていた衣類に反射して服が真っ白に輝いて見える程だったのです。
しかし、どうしてこんなにも力づけられたのでしょうか。主イエスは何を祈っておられたのでしょうか。30節31節に「見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」とあります。主イエスは祈りの中で、モーセとエリヤと語り合われたと言われています。モーセとエリヤは、当時の聖書全体を表すような2人です。当時はまだ新約聖書は書かれておらず、旧約だけでしたが、その旧約聖書は当時、「律法と預言者」と呼ばれていました。
律法というのは旧約聖書の一番古くからある部分で、「モーセ5書」と呼ばれることもあるのですが、創世記、出エジプト記、レビ記、民教記、申命記の5つの書物が「モーセ5書」で、律法です。この律法の一番大元にあるのは、モーセが神から十戒の石の板2枚を頂いたことで、律法はいずれもモーセに遡るものであると考えられていたので、律法については、モーセが律法を代表する人物だと考えられていたのでした。
一方、エリヤという人物は列王記の中に登場しますが、神から遣わされた最初の預言者と考えられていました。エリヤの後を継ぐのがエリシャであり、その後もイスラエルとユダの歴史の中には数多くの預言者が現れ、神の御言をそれぞれに宣べ伝えましたけれども、そういう諸々の預言者の一番初めに現れたのがエリヤだったため、エリヤが預言者の言葉全体を代表する人物であると考えられたのです。
主イエスが祈りの中でモーセとエリヤと語り合われたというのは、擬人的な言い方になっていますけれども、この2人と語り合うことで、主イエスが旧約聖書の御言と生き生きと語り合われたことを表しています。その際、主イエスは何を考えながら旧約聖書の御言と向き合われたのでしょうか。ここには、2人の人物がエルサレムでこれから遂げようとしておられる主イエスの最期について話し合っていたと述べられています。主イエスは、これからエルサレムまで旅をして歩んで行って、そこで御自身が果たすことになる救い主メシアとしての御業について、旧約聖書全体を表す2人の人物と語り合われたのでした。
これは既に聞いたことですが、主イエスが弟子たちに向かって「それではあなたがたは、わたしを何者だというのか」とお尋ねになり、ペトロが「神からのメシアです」と答えた時に、主イエスはそのことを黙っているようにと、お命じになりました。そして、主イエスがこれから果たすことになるメシアの働きというのは、当時の人々が考えたような華々しいメシアの様子とは違って、「苦難を受け、殺され、そして3日目に復活することになる」、そういう仕方で果たされていくメシアの務めなのだと弟子たちに教えられました。弟子たちはその主イエスの言葉を聞いて、主イエスが殺されるつもりでいらっしゃるのだと知って恐ろしくなり、もうそれからは2度と主イエスのことをメシアと呼ばなくなったのですが、主イエス御自身は、これから果たさなければならない御自身のメシアとしての務めについてずっと考え続けておられたのです。そして山に上って祈りを捧げ、旧約聖書の御言に向き合いながら沢山のことを思いめぐらしてゆくうちに、御自身がこれから果たすべき務めについて多くのことを示され、そして力づけられたのでした。
ここには、エルサレムで遂げることになる「最期」という言葉が出てきます。この「最期」という言葉に注目したいのです。「最期」という日本語は、人間の死について露骨な言い方を避けて婉曲な言い方をする際に使われる言葉ですが、要するに意味があるとすれば死という意味しかありません。けれども、ここは原文では「エクソダス」という文字が書かれています。この「エクソダス」という言葉は、ふつうは「脱出」と訳されます。旧約聖書の出エジプト記が英語の聖書ではエクソダスと呼ばれますが、それはエジプトの奴隷生活からの脱出を書き著しているからです。出エジプトの「出」はエジプトからの脱出のことであり、それは死に呑み込まれてしまうことではなくて、命に向かうことなのです。
新共同訳聖書に使われている「最期」という日本語からは「死」ということしか連想できませんが、本当はここは「エクソダス」と書いてあって、主イエスは御自身の十字架の出来事が死に呑み込まれてしまうことではなくて、丁度モーセが葦の海を二つに分けて神の備えてくださる将来に向かって死の海の中を通り抜けさせていただいたように、復活の命に向かう歩みであることを知らされて、大いに喜んだのです。出エジプト記を読むと分かりますが、葦の海の出来事は、モーセは一人だけが海の中を通ったのではありません。数えきれない程多くの神の民であるイスラエルが、死の水のただ中を通り抜けて向こう岸へと渡って行きました。主イエスは、御自身がこれからエルサレムで果たされる苦難と死を伴うメシアの働きも、最後はモーセと同じように無数の人々を命へと救い出す御業であることを聖書の言葉から聞かされて大いに力づけられたのです。
主イエスは2人の人物の一方であるモーセとは祈りの中でそんな対話をなさったに違いないのですが、ではもう一方のエリヤとはどのような会話をなさったのでしょうか。エリヤからは、主イエスが十字架の苦しみを受けて亡くなるとしても、それは死に呑み込まれて終わることではなくて、天へと上げられることなのだと聞かされて力づけられたようです。今日の記事の少し先ですが、9章51節に「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」とあります。「天に上げられる」というのは、一般には十字架にお掛かりになることを考えますが、しかし主イエスは、御自身が十字架上で亡くなることを「天に上げられることだ」と理解しておられました。ここでは実は、旧約のエリヤの姿が重ね合わされているのです。旧約の預言者エリヤの最期は、死んだのではなくて、後継ぎである弟子のエリシャの目の前で、炎の戦車に乗って天に上げられて行ったことが広く知られています。エリヤは死ぬことなく天に上げられたので、神が厳しい裁きを地上にもたらして一切を滅ぼそうとなさる時には、その先触れとしてエリヤを地上にもう一度送り、地上の人間たちが悔い改めて滅びを免れることができるように、悔い改めを告げる預言者して現れる筈だと考える人が主イエスの時代には大勢いました。
主イエスは今日のところでエリヤと親しく語り合うことを通して、御自身の十字架が死に向かうのではなくて、天に上げられ、人間が滅びないようにそこからもう一度地上にやって来られる神のなさりようの中の一コマであることを聞かされて、大いに喜んだのです。
主イエスがこの日の祈りの中で、そのようにモーセとエリヤと語り合い、御自身の十字架の御業について、聖書の御言からの確信を与えられ、大いに力づけられたことは間違いありません。主イエスの顔の輝きは、そういう確信を与えられたことによるのです。
このことは、ご復活の後、主イエスがクレオパともう一人の弟子にお語りになった言葉からも伺い知ることができます。ルカによる福音書24章25節から27節を見ると、「そこで、イエスは言われた。『ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。』そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明された」とあります。この時、主イエスはクレオパともう一人の弟子に現れてくださり、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたって、救い主であるメシアの御業がどういうものであるか説明したと語られています。「メシアはこういう苦しみを受けて栄光に入るはずだったのではないか」とおっしゃって、2人の弟子たちを教えてくださり、2人はその教えを聞いて心が暖かに燃やされたのですが、これはまさに今日の箇所で主イエスが祈りをもってモーセとエリヤと語り合われたことと同じことを、主イエスがクレオパたちにも教えてくださっているのです。主イエスの十字架は決して死に向かう出来事ではなくて、永遠の命をもたらすことに向かってゆく、栄光への脱出の出来事であることをクレオパたちは聞かされて、暖かく心を燃やされたのでした。
そして同じように、御言の意味が説き明かされ、それを理解させていただく時、私たちも暖かく心を燃やされるという経験をするのではないでしょうか。力づけられて勇気を与えられ、将来に向かって歩み出すことができるようにされます。聖書の御言を理解する時、私たちは「神さまが共に歩んでくださる。わたしの人生を御存知で、どのようなことになるとしても確かに支えてくださる」ことを信じて、喜ばされるのではないでしょうか。主イエスが、「これから迎えようするエルサレムでの最期は、決して死に向かうことではなくて、永遠の命に向かって歩んでゆく、そういう出口である」ことを喜ばれたように、私たちも、「私たちの命は死に向かっているのではなく、永遠の命を約束され、主に伴われて歩むのだ」ということを知る者とさせていただきたいと願うのです。
私たちの主が祈りを捧げ、御言の意味を説き明かされる中で大いに力を与えられ、なすべき業に勇んで進んで行ったように、私たちも、神によって憶えられ持ち運んでいただいている中で、ここからそれぞれに将来が与えられていることを憶えたいのです。主イエスが十字架に掛かってくださり、私たちの罪を十字架の苦しみと死によってすべて清算してくださったことで、私たちは神から憎まれ滅ぼされることは、もはやなくなっています。後ほど聖餐に与りますが、聖餐は、私たちが確かに主イエスの十字架の死の上に立たされ、生かされていることを知る時です。
今日の箇所で、ペトロとヨハネとヤコブは、主イエスに愛され最も御側近くに寝起きすることを許された弟子たちでありながら、自分たちが目にしていることを十分に理解できず、恐れたりトンチンカンなことを言ったりしているのですが、それにも拘らず、主イエスは彼らと共に歩んでくださり、神もまた、この3人に向かって主イエスの御言に聞くようにとおっしゃってくださいます。35節に「すると、『これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け』と言う声が雲の中から聞こえた」とあります。雲の中から語り掛けられた言葉は、今日ここにいる私たちにも語りかけられているのです。主イエスが御言に励まされ大いに喜んで御自身の救いの御業に押し出されてゆくところで、私たちもその主に、銘々の十字架を背後って従って行く幸いな者たちとされたいのです。
私たちの十字架は、私たち自身がそれに掛かって処刑されてしまうような恐ろしい道具ではありません。十字架に主イエスが掛かってくださり罪が清算されたからには、私たちの十字架は、その十字架の上に主イエスが掛かっていてくださっていて、「あなたの罪はすでにこの十字架によって清算されている。あなたは十字架の主に従う者、主と共に歩む者とされている」ことを知る、私たちが今、赦しの下に置かれた清められた者たちであることを知る唯一の縁(よすが)とされています。
主イエスが喜んで御業を果たされたように、私たちも、この世で困難や悲しみの下に置かれているように思えるとしても、そこで十字架を見上げ、命が与えられることを信じて、今日なすべき一つ一つの業を心を込めて果たしていく、そのような歩みへと押し出されたいと願います。お祈りを捧げましょう。 |