2024年3月 |
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3月3日 | 3月10日 | 3月17日 | 3月24日 | 3月31日 | ||
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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復活 | 2024年イースター主日礼拝 3月31日 |
宍戸俊介牧師(文責/聴者) |
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聖書/コリントの信徒への手紙一 第15章12〜20節 |
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<12節>キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。<13節>死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。<14節>そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。<15節>更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。<16節>死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。<17節>そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。<18節>そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。<19節>この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。<20節>しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。 |
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今日の礼拝説教の題を「復活」とつけました。イースターの礼拝にはこの題をつけることが割合多いのですが、それは、この季節だからという理由ではありません。イースターの季節に因んでこのような題をつけているのだとすれば、「今日は復活について話るけれども、あとの51週、52週は聖書から別のことを語っている」ということになってしまうでしょう。そうではないのです。キリストの復活こそ、キリスト教会が誕生するきっかけになった出来事であり、教会の信仰の土台をなしている事柄です。意味内容を考えれば、教会は何度でも復活のことを考える筈ですし、事実、そのようにして2000年近くもの間、地上に建ち続けています。今朝は、使徒パウロが復活について語っている言葉に耳を傾けたいのです。 まず12節に、「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか」とあります。コリント教会の中に、「死んだ人が復活するなんてことはある筈がない、あり得ないことだ」と主張する人がいて、パウロがそのことを極めて真剣に問題にしている言葉です。「死者の復活などない」と言った「ある者」というのは、キリストの復活まで否定したつもりはなかったかもしれません。キリストがよみがえらなかったのだとしたら、そもそも私たちは誰に招かれて教会に集っているのかが怪しくなってしまいますし、この人は、「キリストは特別な方だから復活したけれども、自分たち庶民はそうではない」と言っただけだったのかも知れません。ある意味では、人間の理性に照らして、ごく普通の、もっともなことを述べていただけかもしれません。パウロはなぜ、このような、ある意味当然とも思えるようなことに噛みついているのでしょうか。このようなパウロの言葉を聞いた時に、ここに「ある者」と名指しされた当人は、ごく当たり前のことを言っているだけなのに、なぜこのように言われなくてはならないかが分からず反発をするということが起こっていたかも知れません。そのようなことは大いにありそうなことだと思います。 「死者の復活などはない。一度死んだ人間は生き返らない」というのは、確かに私たちの人生経験においてその通りだと思います。だからこそ、死の出来事は寂しく辛い別れなのです。それならばパウロは、いったい何をここで言おうとしているのでしょうか。人間が死を経験することに異を唱え、人間は死んでも生き返ることができると言っているのでしょうか。パウロの語るところを、もう少し続けて聞いてみたいのです。13節14節に「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」とあります。「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずである」とパウロは言います。キリストは一体、普通の人なのでしょうか。「主イエス・キリストは、神の独り子であって私たち人間とは違う特別な方だから復活なさったけれども、私たちはそうではない。ごく普通の私たち人間は、悲しいけれども、一度死んだらそれきりだ」と言うことはできないのでしょうか。 今日の箇所でパウロは、死んだ人間でも生き返ることができると主張しているのではありません。「罪にまみれ、失敗を重ね、破れの痛みを知る人生を生きる人であっても、キリストがその罪を御自分の側に引き取って十字架に死んでくださった。キリストの十字架によって、その贖いによって、罪を赦され、今は罪を離れた新しい人生がプレゼントされているのだ」ということを、力を込めて語り伝えようとしています。それは、私たちが罪に染まったままの惨めな者として一生を終えるのではなく、「清い命を贈られて生きる、そういう人間として、日々の生活を喜び、感謝して生きるようになる」ことが、命の造り主である神の御心だからです。主イエスは、父なる神の御心に従って、私たちのために十字架に向かって歩んでくださいました。 「死んだ者は復活しない」と主張する人に対して、パウロがなぜ激しく反論するのか、パウロはこうも語って説明します。16節17節に「死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります」とあります。 今日の箇所を聞いていて気がつかされることがあります。パウロは、「復活とはどういうことか。どういう状態であるか」という説明はしていません。そうではなくて、「もともと自分たち人間は、神に従って正しい生き方をしようとしてもできない、死に定められている哀れな者たちだ」という思いがパウロにはあります。ところが、私たちがそういう哀れな呪われたあり方のまま生きなくて良いように、神が主イエスを送って下さり、十字架と復活の出来事を行ってくださったのだから、「私たちはもう、死に定められた呪われた者たちなどではない」とパウロはここで言おうとしています。 しかし、最後に覚えたいことがあります。私たち自身の信仰生活、それは主イエスが私たちに与えてくださっている清らかな新しい生活であると言っても良いのですが、それは常に、「復活した主イエス・キリストの光に照らされる中で営まれる生活だ」ということです。そして、御復活の主の光に照らされるということは、共に光に照らされて生きる教会の兄弟姉妹たちとの交わりの中で、その生活を経験していくのです。 どのような境遇で生活する時にも、どの土地にいても、その土地で教会生活をし、御言葉に慰められ、勇気をいただくことがとても大切です。そうでないと、私たちは、「どうして死んだ者が生き返ることなどあるだろうか。キリスト者であっても人間の一人にすぎない」という寂しい思いに、すぐに捕らえられてしまいます。 |
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