聖書のみことば
2024年3月
  3月3日 3月10日 3月17日 3月24日 3月31日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

「聖書のみことば一覧表」はこちら

■音声でお聞きになる方は

1月7日主日礼拝音声

 一人ひとりに手を置いて
2024年3月第2主日礼拝 3月10日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ルカによる福音書 第2章41〜52節

<38節>イエスは会堂を立ち去り、シモンの家にお入りになった。シモンのしゅうとめが高い熱に苦しんでいたので、人々は彼女のことをイエスに頼んだ。<39節>イエスが枕もとに立って熱を叱りつけられると、熱は去り、彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした。<40節>日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスはその一人一人に手を置いていやされた。<41節>悪霊もわめき立て、「お前は神の子だ」と言いながら、多くの人々から出て行った。イエスは悪霊を戒めて、ものを言うことをお許しにならなかった。悪霊は、イエスをメシアだと知っていたからである。

 ただ今、ルカによる福音書4章38節から41節までを、ご一緒にお聞きしました。僅か4節だけの大変短い箇所ですが、2つの出来事が述べられています。
 一つは、安息日の礼拝が済んで、その日の午後、主イエスが求められるままにシモンの家に立ち寄られ、そこでシモンの姑の熱病を癒やされたことが語られ、そしてもう一つは、この日の日没後に大勢の人々が主イエスの許に病気や悪霊に取りつかれて苦労している人々を連れてきたところ、主イエスがその一人ひとりの上に御手を置いて癒しの業をなさったことが語られています。今日の箇所には、そのように短い中に2つの癒しの出来事が互いに緩やかなつながりをもって記されています。

 まずは38節に、「イエスは会堂を立ち去り、シモンの家にお入りになった。シモンのしゅうとめが高い熱に苦しんでいたので、人々は彼女のことをイエスに頼んだ」とあります。「シモンの家」というのは、主の弟子シモン・ペトロの家です。ただし今日のこの時点では、シモンはまだ主イエスの弟子ではありません。シモン・ペトロが弟子になるのは、この少し後、5章に入ってからのところで、主イエスがシモンを弟子にお招きになり、11節で、シモンとヤコブ、ヨハネの3人の漁師が、主イエスの招きに応じてすべてを捨てて主イエスに従い、新しい生活へと入って行ったことが語られています。
 今日の箇所では省略されていることですが、主イエスは御自分から勝手にずかずかとシモンの家に上がり込んだのではなくて、シモンが主イエスを自分の家に招いたので、シモンの家に来ておられます。シモンが主イエスを家にお招きした理由は、ある事情のためと思われます。即ち、シモンの姑が高熱を出して苦しんでいたのでした。この日の午前中、安息日の礼拝で、シモンは、主イエスが悪霊にとりつかれていた男の人から悪霊を叱りつけて追い出された出来事を目の当たりにしました。何故そのようなことが起こるのか、理由までは分からなかったに違いないのですが、とにかく、「この方の語る言葉には権威があり、また力がある」と感じて、会堂での礼拝後すぐに、主イエスを我が家へと案内したのです。
 主イエスが来てくださったので、家の者たちは高い熱に苦しむ姑を癒してくださるようにと、主に願いました。主イエスはその願いを聞き上げてくださり、病人の枕許に立つと、熱を叱りつけられました。すると熱が下がり、動けるようになった姑は、すぐに起き上がって客人をもてなしたことが39節に述べられています。「イエスが枕もとに立って熱を叱りつけられると、熱は去り、彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした」。
 主イエスは熱を叱りつけられたのですが、この「叱りつけた」というのは、先週聞いたカファルナウムの会堂での出来事、35節にあった主イエスが悪霊を「お叱りになった」と言われていたのと同じ言葉です。また、今日の記事の後半の41節で、主イエスが「悪霊を戒めて、ものを言うことをお許しにならなかった」と言われている「戒めて」も同じ言葉が使われています。「高い熱がある」というのは悪霊と同じではありませんが、しかし主イエスは、病気であろうと悪霊の仕業であろうと、人間の命が損なわれることに対しては、大変敏感でいらっしゃるのです。
 もちろん人間の命は永久に続くのではなくて、この地上では、ある限られた期間だけ存続するものです。私たちは、最後は死の出来事によって地上から取り去られるのですが、だからといって、神がこの地上を生きるようにと私たち一人ひとりに与えてくださっている命が損なわれることは、神の御心ではありません。どうせ時が来れば地上から失われる命なのだから、今の時もぞんざいに扱って良いというのではなくて、むしろ私たちに与えられている命は、感謝と喜びをもって、また命を与えてくださる神に感謝して存分に生きられるべきものなのです。そのように、与えられた命を感謝して誉め讃えることが、元々の安息日のあり方であり、そして主イエスはその安息日の主であられる方なのです。安息日の主として、主イエスはこの日、行動してくださいました。当時のユダヤでは、安息日には何もしてはならないと考えられていましたが、安息日の本当の意味は、私たちが与えられている各々の命を神によって確かにされ、「ここで生きてよい」と改めて知らされ、喜んでそこから生きていくこと、そこにあるのです。主イエスはシモンの姑の熱を叱りつけて去らせてくださり、彼女が再び動けるようにしてくださいました。

 ところでシモンの姑は、「熱は去り、彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした」と言われています。姑というのですから、シモンは結婚していてそのお連れ合いの母親が姑ということになるのですが、娘が結婚していたのですから、彼女は決して若くはなかったでしょう。高熱が出て、その熱が引いた時には、若い人でも数日間は体調がフワフワして元に戻らないということがありますが、この姑は、熱が下がるとすぐに起き出したようです。読んでいて少しハラハラさせられますが、主イエスの御言による癒しは、ただ熱冷ましのように熱を下げたというのではなくて、その言葉を聞いて信じた人に力を満たす、そのようなものなのでしょう。この姑はやせ我慢しながら客人たちをもてなしたのではなくて、思いがけず力を回復していただいた感謝と喜びをもって、自ら主イエスに仕えようとしたのでした。
 ここに言われている「もてなし」というのは、別の言葉で訳すと「仕える、奉仕する」とも訳せる言葉です。この姑の「もてなし」には、主イエスに感謝してお仕えし奉仕するというところがあり、彼女は自分が回復を与えられ、癒やされ、力づけられたことを感じて、心から喜んで、自分から主にお仕えしようという姿勢でもてなしたのでした。
 ここで考えさせられます。シモンの姑は癒やされて、自ら進んで主に仕える者となったのですが、一体ここでは何が起きたのでしょうか。高い熱が引いたことを、まるで魔術のように思ったり、あるいは主イエスが何かの魔法によって熱を去らせたのだと思われるかもしれません。しかし聖書はそうは言っていません。一体何があったのか。主イエスが枕もとに立って熱を叱りつけられたと述べられています。具体的にどのような言葉で叱りつけたかは分かりませんが、主イエスは熱に向かって「シモンの姑から出て行くように」と申し渡したのでした。丁度、カファルナウムの会堂で男の人を虜にしていた悪霊に向かって「黙れ、この人から出て行け」とおっしゃったのと同じように、ペトロの姑を襲っていた高熱に対して、出て行くようにと申し渡したのです。すると、その主の御言によって、熱は去りました。
 こういう主イエスの熱に対する断固たる姿勢を見て、「主イエスという方は悪霊や病気や死の勢力に対して、はっきりと戦いを挑まれ、これに勝利する方である」と語る人がいます。確かに聖書にはそう言われている箇所があります。主イエスは罪と死の勢力に対して敢然と戦いを挑まれる方であり、コリントの信徒への第一の手紙5章26節には、「主イエスが戦われる最後の敵として、死が滅ぼされます」と言われています。
 けれども、そのように大上段に振り被ったような物の言い方をせず、もう少し平らに、今日の箇所で起こったことを言い表すとすれば、どのように言えるでしょうか。主イエスは明らかに、ペトロの姑の状態が本来の彼女のありようとは違っていることに気づいて、本来のありように戻るようにと、おっしゃったということになるのではないでしょうか。主イエスがいつも願い求めておられるのは、神の御心がどこにおいても、誰の人生においても実現されるということです。そしてその神の御心というのは、神に造られた者一人ひとりが喜んで、その与えられた命を生き、その命を感謝することによって、神の御栄光を地上に満たすことに他なりません。私たち人間はなぜ造られたのか、なぜ今生きているのかと考えるならば、そもそも私たちは命を生きることで、神の栄光を地上で照り返す者として造られ、生かされているのです。
 もちろん、神や造り主のことなど少しも思わず、ただ自分の思いや自分の目的のためだけに生きようとする人は大勢います。そういう人々にとっては、人生は自分のステージだと考え、自分の願い通り、思い通りに人生が運ぶ自己実現こそが生きる意味や目的に感じられているかもしれません。けれども、そういう人間のあり方は、聖書全体の語るところによれば、人間本来のあり方から崩れてしまったあり方なのです。最初の人間であったアダムが、神の警告にも拘らず、食べてはいけないと言われていた善悪を知る木の実に手を伸ばして食べてしまったところから始まったあり方です。それによって人間は、本来、神によって造られたままのありようが歪んでしまって、与えられた命を、またこの世界を、神と一緒に喜ぶあり方から外れて、自分で決めた善悪を基準にし、自分の快楽ばかりを追い求める自己中心のあり方に堕落してしまったのだと、聖書は創世記の中で教えています。しかしこれは、最初の人間アダムだけに止まりません。今や人間は誰もが自分中心に生きるあり方をするのが当たり前になってしまっています。自分中心に物事を考え、自己実現を図りたい思いは、キリスト者も含めて誰の心の中にもあるのです。
 人間がそうなってしまったのは、アダムが神の警告を無視して、食べてはならないと命じられていた木の実を食べてしまった結果ですから、このことについて、神の側には責められるべき落ち度はありません。失敗の原因は100%人間の側にあります。人間は善悪を知る木の実を食べて、自分が神のようにすべての物事の善し悪しを自分の尺度で決めるようになった結果、造り主である神との関わりが切れてしまいました。本来は神が私たちの上にいて持ち運んでくださるはずなのに、その神の座を人間が奪って、自分が人生の中心であるという席に座ってしまいました。しかしそうであっても、実際には、人間は神ではありません。ですから、その善悪の判断は決してすべてが正しいものにはなりません。判断を誤ったり、本当なら向かうべきではない目標に向かってそれを追い求めたりします。また、皆が気ままな判断をするのですから、隣の人と判断や意見が互いに食い違うこともあります。そのようにして神を離れ、自分中心になった人間は、その結果として神との間柄だけでなく、人間同士、お互い同士の間柄も損なうようになってしまうのです。
 繰り返しになりますが、人間がそのように神との間柄も、また人間同士の間柄も上手くいかなくなった責任は、神にあるのではなくて、人間自身の側にあります。せっかく神が与えてくださった、自由に生きて良いとおっしゃってくださった特権の用い方を履き違えた人間の側に責任があるのです。

 ですから、神はそんな私たちを見限って、お見捨てになるとしても不思議ではありません。神から捨てられるようなことが起きるとしても、それは神が悪いのではなくて、私たち人間の身から出た錆と言う他ないのです。
 ところが神は、御自身に背を向けて勝手に堕落してしまったような私たち人間を、それでも憐れみ、何とかして神を見上げて生きるように導こうとなさいました。ただ、私たち自身は、もうすっかり自分中心に物を考え、神を見上げる代わりに自分自身の欲求や願いばかりを見つめて生きるようになってしまっていますから、私たち人間が神を見上げることはできなくなっているのです。それで何が起こったでしょうか。神は御自身の独り子をこの世界に送ってくださり、私たちの間で共に生きてくださるようにしてくださったのです。時折見かけることですが、ミカン箱の中に、たった一つでも表面に傷のついたミカンが紛れ込むと、その一つが青黴にやられて、やがては箱の中のミカンが一つ残らず駄目になってしまったりします。アダムが犯した罪にもそんなところがあったのですが、神は、御自身の御子であるイエス・キリストを通して、丁度それと反対のことをなさろうとしました。即ち、すべての人間が罪のために神のことが分からなくなっていた只中に、真に正しく清らかな方である主イエスを送ってくださり、この方と出会うことによって、この方を信じることによって、造り主である神を見上げ、神から力を頂いて喜んで生きるという新しいあり方に、私たち人間を取り返そうとなさったのです。
 ただそのためには、主イエスは無傷では済みませんでした。様々に破れを抱える人間を生かそうとする時に、主イエスは人間すべての罪とその毒を御自身の身に引き受けて十字架に掛かって下さり、私たちの罪を十字架上に滅ぼしてくださり、私たちには、御自身の清らかな新しい歩みを贈り物として与えてくださったのです。主イエスによる病の癒しや悪霊からの清めには、そんなところがあります。主イエスはペトロの姑を魔法によって癒したのではなく、「もう一度、神の御前に清められ、癒された者として生きるようになる」ことを望んでくださり、そして姑を癒してくださいました。

 そして、そのような主のなさりようが、この日の夕方、日が沈んでから行われた沢山の癒しの出来事の中にも見られたのでした。40節に「日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスはその一人一人に手を置いていやされた」とあります。日が暮れると安息日が終わります。新しい一日が始まった途端に、主イエスの許に続々と病人や悪霊にとりつかれて苦しむ人々が連れて来られます。彼らはシモンの家にやって来たのではなく、そこにおられた主イエスに用事があり、訪ねています。その用事というのは、シモンの家に起きていたことと同じでした。病人たちの病気を癒していただきたいと願ったのです。「イエスはその一人一人に手を置いていやされた」と言われています。主イエスが病人に手を置いて癒しをなさるというのは、新約聖書の記事に慣れ親しんでいる私たちには、ごくごく普通のことのように感じられます。ですが実は、こういう形での癒しは旧約聖書には一度も出てきません。病んでいる人の上に手を置いて祈ったり癒しをしたりすることは、主イエスが最初にこれをなさったのであり、いわば、主イエス独自の癒し方でした。
 しかしなぜ主イエスは、癒しに際して病人の上に手を置かれるのでしょうか。旧約聖書の中にも手を置いて祈りをささげるということ自体は行われています。ただしそれは癒しのためではなくて、祝福する時に行われた祈りでした。たとえば旧約聖書の創世記の終わり近くのところで、エジプトの大臣となったヨセフのもとに父ヤコブが訪ねた時、ヨセフは自分の二人の息子を祝福してほしいと父ヤコブに頼みました。それでヤコブがマナセとエフライムというヨセフの2人の子どものために祝福の祈りを神にささげた際、両手を子どもたちそれぞれの頭の上に置いて祈りをささげたことが知られています。そのように誰かの上に手を置いて祈ることは、その人を祝福する動作だったのです。
 主イエスは、祝福の動作を癒しの際になさいました。つまり、病んでいる人や様々に苦しめられ難儀している人たちを憶え、たとえそういう状況にあっても、「あなたの上に神さまの祝福があるように」と祈ってくださったのでした。主イエスに癒して頂きたいと願い出た人は、今置かれている事情のもとでも、「神さまの祝福の下に置かれている。神さまに覚えられている」ことを知らされ、落ち着きを与えられて癒されてゆきました。主イエスによる癒しの業は、神の祝福の実現してゆく、その結果です。そのことを現すために、主イエスは一人ひとりに手を置いて癒されました。

 主イエスの癒しは、神の慈しみを現すことです。ですから、この出来事について悪霊があれこれ論ずることを、主はお許しになりませんでした。悪霊は形の上では正しいことを言うように聞こえる時にも、そこには常に暗い動機が付きまとっています。何とかして自分たちの存在を認めさせようとするのです。そのためには、口先で主の御業を讃えることだってするのです。しかし神の祝福は、あくまでも神御自身のものです。悪霊が人間に祝福を与えるようなことはありません。悪霊がどんなにわめき立て、主イエスの御業を賛美するように取り繕ってみせても、主イエスは断固としてひるみません。神の祝福を受けて人間が生きるようになるために、主イエスは悪霊を取り除かれます。悪霊に語ることをお許しにならず、人間を神の祝福の御支配の下に取り戻してゆかれます。

 思えば、私たちも一人ひとり、そのように主イエスが諸々の悪から保護してくださって、今日もこの礼拝の場に集い、生きるようにされているのではないでしょうか。礼拝の最後には祝福が与えられます。神が私たちの上に手を置いて祝福を祈ってくださり、この礼拝の中で主イエスに手を置かれた者として、私たちは、ここからそれぞれの生活へと遣わされていくのです。主イエスが祝福の御手を私たちにも向けてくださり、私たちの上に御手を置いて祝福し祈ってくださることを覚えたいのです。

 そして私たちは、主イエスの十字架と復活の御業により清められていることを知り、感謝しながら、それぞれ自分に与えられている地上の務めに清い心をもって仕え、働く、幸いな者とされたいと願うのです。お祈りを捧げましょう。
このページのトップへ 愛宕町教会トップページへ