聖書のみことば
2024年3月
  3月3日 3月10日 3月17日 3月24日 3月31日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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3月3日主日礼拝音声

 権威ある言葉
2024年3月第1主日礼拝 3月3日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ルカによる福音書 第4章31〜37節

<31節>イエスはガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には人々を教えておられた。<32節>人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。<33節>ところが会堂に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいて、大声で叫んだ。<34節>「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」<35節>イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った。<36節>人々は皆驚いて、互いに言った。「この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは。」<37節>こうして、イエスのうわさは、辺り一帯に広まった。

 ただ今、ルカによる福音書4章31節から37節までを、ご一緒にお聞きしました。 31節32節に「イエスはガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には人々を教えておられた。人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである」とあります。
 カファルナウムという町の名が出てきますが、その名前の由来を尋ねると、「ナホムの墓」という意味であると、聖書辞典に出てきます。旧約の預言者にナホムという人物がいるのですが、そのナホムが亡くなって葬られたのがこの町でした。それで「ナホムの墓」、カファルナウムという名前で呼ばれるようになりました。この町は、ガリラヤ湖の北岸にあって交通の要衝でしたので、ここに関所が設けられ、町を通って北のシリア方面に行く人や南のユダヤ方面に向かう人たちから通行税を取るということが行われていたようです。シリアからユダヤを通ってエジプトに向かう街道上の町であり、また、港からは舟でガリラヤ湖の東岸にあるデカポリス地方に向かう人もいましたので、この町は多くの通行税を得て繁栄していました。
 豊かな町ですから、当然、町の中にはユダヤ教の会堂、シナゴーグがあって、安息日には礼拝がささげられていました。主イエスはその礼拝に参加し、旧約聖書の説き明かしを通して人々に「神さまの慈しみが今まさに訪れてきている」ことを告げ知らせておられたことが、ここに語られています。

 ここには簡単に、「安息日には人々を教えておられた」と述べられていますが、当時の安息日の礼拝がどのような仕方で行われ、主イエスがどのように教えられたのかという様子は、この直前のナザレの会堂での礼拝の記事の中に詳しく語られていましたので、今日の箇所では繰り返しを避けて省略した形で記されています。ごく手短な形で語られているのですが、しかし、この記事が伝えようとしていることは、主イエスの説き明かしには、他の律法学者たちの説き明かしとは明らかに違ったところがあったということです。その違いのために、主イエスの説き明かしを聞いた人々は非常に驚いたことが32節に述べられています。「人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである」とあります。主イエスの説き明かしには、他の人たちと違うどんな特徴があったのでしょうか。主イエスのお言葉には権威があり、権威をお持ちの方として主イエスが旧約聖書を説き明かされたので、聞いた人々がその教えに驚いたと言われています。
 当時の聖書の学者たちは、主イエスのようには語りませんでした。学者たちは、自分の先生に当たる有名な学者たちの聖書解釈を紹介するような形で、旧約聖書の言葉を説き明かしていたのです。即ち、その日に与えられた聖書の言葉について、「有名な学者であるラビ、アキバ先生は、このように言っています。しかし他にも、やはり有名な学者であるラビ、ヒレル先生は、こんな風にも言っておられます。また、ラビ、ベン・ザッカイ先生はこうも言っています」という具合に、彼らは、何世代にもわたって自分たちの先祖に語りかけられ伝承されてきたことを伝えるということで満足していたのでした。
 ところが主イエスは違っていました。主イエスは、その日に読み上げられた聖書の言葉を、今、神から語りかけられている生きた御言として説き明かし、主イエス御自身の宗教体験を通してお語りになりました。つまり、主イエス御自身が御言を解釈し、それを人々に取り次ぐ権威あるお方として、人々に御言を告げられたのです。もちろんそのように、「この言葉は、今日、私たちに神から直接語りかけられている言葉だ」と説き明かされれば、迫力は、他の学者たちとは全然違ったでしょう。また、主イエスの説き明かしが聞く人々にもよく分かったので、カファルナウムの会堂で礼拝をささげた人たちは、まるで神が直に聖書の言葉を通して自分たちに語りかけてくださったように感じて驚いたのでした。

 ところで、そのように神が直接自分に御言を語りかけてくるように感じられるところでは、それに対する人間の側の反発や抵抗も生まれてくるようになります。カファルナウムの会堂で礼拝をささげていた人たちの中に、汚れた悪霊に取りつかれた人がいたと33節に言われています。「ところが会堂に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいて、大声で叫んだ」。こういう言葉を聖書から聞かされますと、私たちはつい、この人が何か心の病を抱えていて、当時の医学の水準ではそれが理性的に説明できなかったので、「汚れた霊」とか「悪霊に取りつかれている」という言い方になっているのだろうと、簡単に考えてしまいがちです。
 しかしそのように考えてしまいますと、これは心の病を抱えた人の常軌を逸した行動ということになり、自分は病気ではないと考える人にとっては縁遠い人の話ということになってしまいます。しかし果たして、本当にそうなのでしょうか。
 この福音書の先のところですが、5章31節32節で主イエスは、「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と言われました。主イエスは、心の病をいやす精神科の医者としておいでになったのではなくて、罪人を招いて悔い改めに至らせ、救いをもたらしてくださる方としておいでになったのだと、言っておられます。そうであるならば、主イエスが私たち人間を観察して一人ひとりの様子を御覧になっているのは、いわゆる心の病の有無ではなくて、私たち自身を捕らえ、虜にしている罪の働きということになるのではないでしょうか。今日の箇所でも主イエスは、精神科の医者としてこの人に向き合っているのではなくて、聖書の御言を説き明かし、「神さまの御支配が、今あなたの元に及んできている。あなたは今、神さまの前に立つ者とされている」ことを告げ知らせる救い主メシアとして、この人と向き合っておられます。
 礼拝の場で主イエスとお目にかかり、御言の説き明かしを聞く中でこそ、私たちは自分自身の罪ある姿が明るく照らし出されるようになります。そして、時にはそのことに反発したり、抵抗するような場合もあるのではないでしょうか。カファルナウムの会堂で主イエスに出会い、抵抗して口応えしたこの人は、ことによると、私たち自身の姿でもあるかも知れないと思うのです。

 この汚れた悪霊に取りつかれた人がどのように抵抗したのかを聞き取ってみようと思います。33節34節に「ところが会堂に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいて、大声で叫んだ。『ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ』」とあります。この人はまず大声を上げました。おそらく、その場に居合わせた人たちはびっくりしたのではないでしょうか。けれどもここで、この人が大声を出しているのは、不安と恐れを感じて苛立っていることのしるしです。主イエスの説き明かしを聞いて、神の聖なる御支配が自分の身に及んできていることを感じて動揺しているのです。自分の前に主イエスが来られ、御言を親しく語りかけてくださり、「あなたはわたしの愛する者だ。わたしに従いなさい」と神に呼びかけられていることに対して、まっすぐ素直に向き合おうとせず、そこから何とかして逃げ出そうとして苛立っているのです。
 このことは、この人が発した言葉から分かります。この人は「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」と言います。ここに述べられている2つの言葉に注目したいのです。
 まず、「かまわないでくれ」という言葉です。この言葉は、原文からすると意訳になっていて、文通りに直訳すると、「ああ、我々とあなたの間に何があるか」という言葉です。「何があるか」というのは疑問ではなくて、「何も共通するものがない」ということを言おうとしている言葉です。この人は、神の言葉をまっすぐに聞かされ、主イエスの清らかさに直面して、「あなたの前には、まことに清らかな神さまがおられる」と言われて考えるのです。「それに引き換え、自分は一体何か。罪に捕えられている惨めな者でしかない。主イエスと自分の間にも、神と自分の間にも、何の接点もない」という思いが、「我々とあなたの間に何があるか」という言い方になっています。「かまわないでくれ」と訳されている言葉は、「主イエスは自分と関係がない」と言って、主イエスを拒絶したいという思いを表す言葉です。
 もう一つ注目したいのは、「我々を滅ぼしに来たのか」という言葉です。この人は「我々」と言っていますが、実際は一人です。一人なのに「我々」と、大勢いるような言い方をしています。この人は、神の御言にまっすぐ向き合えていないだけではありません。それに加えて、自分自身という存在にも真剣に向き合おうとしていないのです。本当は、この人は一人である筈なのに、辛いことに出会ったり自分の嫌な面に気付いたりすると、そういう自分を捨ててしまって、何か別のもう少しマシな者であるかのように自分自身を思い込もうとするのです。あるいは、口先では相手に合わせるような上手いことを言っていながら、心の中、腹の底では別のことを考えています。上辺の装いと本心の自分自身は違うのです。だから、どうしても「わたし自身」になれない、いつも上辺の自分で他の人とつき合っているけれども、本当の自分はそこにいないのです。
 そして、そういう人にとって、「神の御支配がやってくる」ということは、不安にさせられる、恐ろしいことです。「周りの人とは上辺で付き合っていれば良い。でも本当の自分は心の奥深いところにいる。誰にも見せない」という時には、心の奥底にいる本当の自分は、何でも自分の思い通りにならないと気が済まない暴君だからです。「本当のわたしは、自分の思い通りでなければ気が済まない」のに、そういう自分の前に神が御言をもって現れ、「あなたはわたしのものだ。わたしの前に生きるのだ」と言われると、大変困ってしまうのです。また、自分の思い通りが良いと思いながらも、気まぐれなところもあって、昨日と今日では気分が全然違っていたりします。私たちは自分の中に、一人ではなく、たくさんの自分がいるのです。そんな人間一人ひとりに、神はまっすぐに出会おうとしてやって来られるのです。

 今日はカファルナウムの会堂の話を聞いていますが、この箇所の前に、ナザレの会堂でイザヤ書の巻物を朗読しながら主イエスがおっしゃったのは、まさに「神が今日あなたの前に来ておられる」ということでした。4章18節から19節にかけてイザヤ書の言葉が語られます。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」。この巻物を朗読した後に、主はおっしゃいました。「この言葉は、今日まさに、ここで実現している。つまり、あなたたちはもはや捕らわれ人ではなく、解放された人である。目が見えず訳の分からない人ではなくて、神によって支えられ愛され生かされる現実を見る人になる。圧迫されていると言ってひがんでいるけれども、今の状態で、ここから生きていく、自由な人になる。わたしがあなたに出会い、神の言葉を直接伝えるところでは、あなたはまさに、今日いるあなた自身のあなたのままで、あなた自身の人生を生きるようになる」と呼びかけられるのです。主イエスは、ナザレの会堂でなさったように、カファルナウムでも同じことをなさったに違いありません。

 ところがそれに対して、この悪霊に取りつかれた人は、「我々はあなたとどんな接点も関わりもない。かまわないでくれ」と大声を出して脅して見せるのです。しかし主イエスはひるみません。「黙れ、この人から出ていけ」とおっしゃいます。
 どうして「黙れ」とおっしゃったのでしょうか。この先の6章45節で主イエスは、「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである」とおっしゃいます。主イエスにとって、口から出る言葉は、上辺や見せかけのものではなく、心の底からあふれ出る、その人自身の思いを語るものだと考えておられます。
 この人は今、語りかけられている神の言葉をまっすぐに聞こうとせず、目の前の主イエスにも自分自身にもまっすぐに向き合おうとせず、屁理屈をこねてごまかし、「あなたとわたしは関わりがない」という偽りを語ろうとしました。しかし主イエスは、そういう偽りをお許しにならないのです。この人は主イエスのことを「正体は分かっている。神の聖者だ」と言っていますが、もしそう分かっているのなら、「かまわないでくれ」と言うのではなくて、「よくおいでくださいました。どうぞわたしの中においでください」と言うのが本当である筈です。「かまわないでくれ」ということは、口先では主イエスのことを「神の聖者だ」と言っていても、本心は自分自身こそが自分の主人であると思っているということであり、そういう罪に捕らわれたまま、この人の人格が気ままに幾つにも分裂して、時には自分は惨めだと思ってみたり、隣人を疎ましいと思ってみたりしながら、少しも現実の自分自身を認められないし、またそういう自分が生かされていることを喜ぶことも感謝することもできずにいるということなのです。
 主イエスはそういう状態を御覧になり、「この人から出て行け」とおっしゃいます。この人を幾つにも分裂させて気ままで無責任な状態に陥らせている悪霊に、「立ち去るように」と命じられます。そう言われて悪霊たちは、自分たちこそがこの人の主人なのだと強がって見せ、人々の間にこの人を投げ倒し、七転八倒させます。しかし結局、悪霊はこの人に最終的には何の傷も負わせませんでした。主イエスがそれを許さないからです。主イエスの言葉によって悪霊は去り、この人は生身の等身大の自分自身になって新しい朝を迎え、ここからもう一度生きる人へと変えられました。

 主イエスがそのように、カファルナウムの会堂で、神の御言によって悪霊と戦ってくださり、勝利した様子を見て、その場に居合わせた人々は大変驚いたのでした。
 しかしこれは、カファルナウムで一度限り起こったことなのでしょうか。実は、主イエスが教会の礼拝のただ中に立ってくださり、主の霊によって御言が説き明かされるところでは、しばしば似たようなことが起こるのではないでしょうか。私たちもまた、聖書の御言によって自分自身の姿を明るく照らし出され、御言によって正気に戻され、新しくされて、ここからもう一度歩み出すことを許されています。
 御言によって清められ、新しくされ、主の僕としての生活へと送り出されたいと願います。お祈りを捧げましょう。

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