ただ今、ルカによる福音書9章7節から9節までを、ご一緒にお聞きしました。
7節の前半に「ところで、領主ヘロデは、これらの出来事をすべて聞いて戸惑った」とあります。今日の箇所は、福音書の記事としては本筋の話ではなく、何となく枝葉末節の話を聞かされているようにお感じになる方がいらっしゃるかも知れません。というのも、今日の箇所には、主イエスその方は登場しないからです。主イエスだけではありません。主イエスの弟子たちすら、ここには現れません。今日の箇所では、当時のガリラヤの領主であったヘロデという人物にスポットライトのような光が当てられています。そして、言ってみればヘロデの一人語りのような場面が切り取られて、福音書のこの箇所にはめこまれたような形になっています。どうして、このヘロデのような人物の姿がここに登場するのでしょうか。そのことを考えながら、今日の箇所を少しずつ聞いてゆきたいのです。
今日聞いている箇所の直前のところですが、9章には、こんなことが語られていました。「十二人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした」。主イエスが12人の使徒たちに、悪霊と戦い続け、癒しをもたらす力を授けて神の国を宣べ伝えるように送り出されたことが、この前の箇所に述べられていました。遣わされた弟子たちは、それぞれ銘々に与えられ託された働きの地に赴いて、主イエスが宣べ伝えておられたように神の国の福音を告げ知らせ、主の御言によって、聞いた人たちに健康を与えて働いたのですが、その結果、主イエスの名が方々に広まっていって、逆に領主ヘロデの耳にも届くようになったことが、今日のところの最初に言われていることです。そして、主イエスの噂を初めて耳にした時、領主へロデは戸惑いを覚えたことが語られています。「ところで、領主ヘロデは、これらの出来事をすべて聞いて戸惑った」と言われているとおりです。
ヘロデが戸惑ったというのは、別に言えば、耳に入ってきた噂の主に対して、どのように対処すべきかを決めかねて、まごついてしまったということです。そこには、いかにも権力者らしい不安があり、恐れもあったものと思われます。ヘロデがまごついた理由は、噂が聞こえてくるイエスという人物について、巷では色々な憶測がささやかれていたからでした。ヘロデはもちろん、まだイエスに会ったことはありません。聞こえてくる噂からイエスの人物像を推測する他ないのですが、中にはヘロデにとって非常に気になる噂も混じっていたのでした。その最初は、「ヨハネが死者の中から生き返って、イエスになったのだ」という噂です。ヨハネとは、この福音書の最初の方で誕生の出来事が語られていた洗礼者ヨハネです。そしてヨハネの死については、ヘロデが9節で述べているように、彼自身が命令を下し、ヨハネの首をはねさせて殺した経緯があります。マタイによる福音書やマルコによる福音書では、ヘロデがヨハネの首をはねた顛末がこと細かに詳しく語られます。ルカも当然そのことを知っていた筈ですが、ここではその詳しい経過について、一切触れられません。そのことだけを考えますと、この福音書を著したルカは、ヨハネのことをあまり重視していないようにも感じられるのですが、実際には、首を斬られるというのとは別のところで、ルカはヨハネのことを非常に多く語っています。
来週からクリスマスを迎えるアドヴェントに入りますけれども、毎年、アドヴェントの季節によく読まれる聖書箇所で、ルカはヨハネのことを語っています。ルカによる福音書1章76節から79節に「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを/知らせるからである。これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、/高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、/我らの歩みを平和の道に導く」とあります。ヨハネは神さまの憐れみによって、あけぼのの光を来らせて暗黒と死の陰の中にうずくまっている者たちを明るく照らし、神の民の歩みを平和の道に導く働きに仕えるようになるのだと、そう言われていました。「高い所からのあけぼのの光が、暗闇の中にうずくまっている者たちを照らす」と聞かされますと、私たちはこれを、大変に麗しいことのように聞くのではないでしょうか。
しかしヘロデにとっては、これはそうではないのです。何故なら、あけぼのの光の訪れは、辺り一帯を覆っていた暗間の支配の終わりを告げる出来事だからです。ここに述べられている「あけぼのの光」という言葉は、元々は旧約聖書ヨエル書の中に預言されている中に出てくる言葉なのですが、ヨエルはこのように預言しました。ヨエル書2章1節2節に「シオンで角笛を吹き/わが聖なる山で鬨の声をあげよ。この国に住む者は皆、おののけ。主の日が来る、主の日が近づく。それは闇と暗黒の日、雲と濃霧の日である。強大で数多い民が/山々に広がる曙の光のように襲ってくる。このようなことは、かつて起こったことがなく/これから後も、代々再び起こることはない」とあります。
旧約の預言者ヨエルは、主の日がやってくることを預言しました。それは麗しい朝ではなくて、辺り一帯を覆っている闇と暗黒、雲と濃霧が曙の光に襲われて一掃されてしまうという預言です。ヨハネは、そのあけぼのの光になるのだと、ルカによる福音書では述べられます。権力者たちが気ままに振る舞う一方で、貧しい者たちや小さい者たちが息をひそめ、暗い闇の中を歩まざるを得ないような惨めな状態に終止符が打たれる。高いところからの曙の光が、暗闇の中にあるもの一切を明るみの下に照らし出し、本当の平和がそこにもたらされることになる。「幼子よ、あなたはそのような働きに仕えることになるのだ」と、ルカによる福音書では、最初のところで述べられていました。そして事実、ヨハネはそういう働きをしたのです。領主ヘロデの不正な結婚を咎め、そのために逆にヘロデに捕らえられ、投獄され、首をはねられてしまいます。けれども、首をはねてしまえばヨハネの口を黙らせることはできますが、それでヘロデの行いが正しいことになる訳ではありません。ヘロデはヨハネが幽霊や妖怪のようによみがえるとは思っていません。むしろ、力をもって相手を打倒し、黙らせることができれば、自分は何でも行うことができると思っています。しかし、そういうヘロデ自身の姿が、ここではまさに明るみの下に引き出されています。ヨハネの首をはねて黙らせるという仕方でしか体面を保てなくなっているヘロデの醜さと惨めさが、ここでは明るみに出されてしまっているのです。ヘロデがどんなに力ずくで自分を批判する者を黙らせるとしても、それによってヘロデ自身が決して清くはならないという惨めさを、ヘロデはどこかで気づいています。それだけに、首をはねたヨハネがまた現れたという噂を聞くと、何とも言いようのない居心地の悪さを感じて、まごついてしまうのです。
ところで、主イエスについて、別の噂をする声も、ヘロデの耳に入ってきます。それは、「エリヤが再び現れたのだ」という噂です。エリヤという人物は旧約聖書の列王記の中に登場する預言者で、あらゆる預言者の中で最初に現れた人物です。そして列王記の語るところによれば、エリヤは死ぬことなく、次の時代を担った預言者エリシャの目の前で、火の戦車に乗せられ、天に上げられて行ったことになっています。従ってエリヤは死んではいません。また、死んでいないので生き返ったとは言われません。エリヤについては天に上げられていて、恐るべき主の日がやってくる時にはその直前に現れて、主の日の先触れになるという預言がされていました。旧約聖書マラキ書3章23節以下に「見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に/子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって/この地を撃つことがないように」とあります。ここには、やがて訪れてくることになる「大いなる恐るべき主の日」のことが語られています。ヨエルが預言していたのと同じく、この世を覆い当然のようにまかり通ってきた悪と不正が、本当に清らかな神の御前にあって永遠には通用しないものとして明るみに出され滅んでしまう日が「主の日」です。多くのものが滅ぼされるので、それは「大いなる恐るべき主の日」と呼ばれます。
けれども、それはまた、新しい命の始まる日でもあります。エリヤは古い世界の支配者がもはや神の御前に通用しなくなったことを告げ知らせるために現れるのです。
ところで、このエリヤは最初の預言者です。そして、ヘロデ自身が首をはねたヨハネは最後の預言者です。エリヤからヨハネに至るまでの間には、エリシャ、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルといった大預言者の他に無数の預言者が現れて、神の御言葉を取り次ぎました。イエスという人物は、そうした昔の無名を預言者の再来だという噂もあったようです。
世の中で「預言者」と聞きますと、未来の出来事を言い当てる人のことだと思われがちですが、聖書の預言は未来を予測するのではなくて、神から御言をお預りして、それを人々に語り伝えます。言葉を預って語るので、預言者という文字が使われますけれども、神が預言者を通じて人々にお語りになるのは、未来の事柄に留まりません。もちろん将来のことをお語りになる場合もありますが、神の民の今現在の姿や過去の歩みについても、神は御言を聞かせてくださいます。
そして、預言者はただ御言を預るだけではありません。その御言は、その時代の神の民のありように対しての警告として告げられることが多いのです。ですから預言者の中で比較的多くの人は、政治力とは離れた在野の人々の中から立てられることが多いのです。例外的に、たとえばダビデ王に仕えた預言者ナタンのように、王の宮殿に出入りして王と親しく言葉を交わすような人もいない訳ではありませんが、あのナタンにしても、ダビデ王が部下ウリヤの妻バトシェバに横恋慕してウリヤを戦死に追い遣りバトシェバを妻に迎えた時には、大変厳しい預言の言葉をダビデ王に掛けていました。そんな風に、預言者の言葉はその多くが王や領主たちに警告して、不正や悪から離れるように促す言葉だったのです。
今、領主ヘロデの耳に入ってくる主イエスについての噂が、ヨハネやエリヤの再来であったり、無名の預言者が生き返ったという内容であったということは、当時の人々がヘロデの政治に対していかに不満を多く抱いていたかという表れです。そしてヘロデ自身も、耳に入ってくる噂を、そのような領主批判の言葉であると受け取って、噂の主になっている人物に関心を抱きました。
ヘロデは語ります。9節に「しかし、ヘロデは言った。『ヨハネなら、わたしが首をはねた。いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主は。』そして、イエスに会ってみたいと思った」とあります。ヘロデは、主イエスとその弟子たちが行っている目覚ましい御業について伝え聞いても、それを領主であるヘロデ自身への不満であり、批判や非難であるとしか受け取りません。そして、洗礼者ヨハネに対して行ったように、もしもイエスという人物も不穏なところが見受けられたなら、斬り捨てにしようと考え、イエスに会ってみたいと考えました。この姿は、丁度30年ほど前にヘロデの父親であったヘロデ大王が新しく生まれてきた幼子に怯えて、その居所を掴もうとしていた姿に重なります。クリスマスの時、当時のヘロデ大王は東の方からやってきた占星術の学者たちに、幼子のことを詳しく調べ上げ、是非自分に伝えてくれるようにと依頼しました。その時「わたしも行って拝もう」と言っていました。あの時の父親の姿に、今のヘロデはそっくりなのです。
ところで、今日、最初に申し上げましたが、この福音書を著したルカは、どうして、ここにヘロデの姿を描いたのでしょうか。その理由は、この先を少し読み進めると明らかになります。即ち、今日の記事の続きを読んで行きますと、僅かな食料で大勢の人々を養ったと言われる奇跡の出来事を挟んでその先に、ペトロが主イエスに対して「あなたは神からのメシアです」と信仰を言い表す出来事が語られます。今日の記事のヘロデの姿と、この先のペトロの姿は、この2つの記事を比べて読むとよく分かりますが、丁度合わせ鏡のように、お互いがお互いの姿を映し出すようになっています。ヘロデもペトロを始めとした弟子たちも、主イエスについての全く同じ噂を耳にします。そして、ヘロデはこの噂の源となっている人物の正体を突き止め、もし自分が気に入らなければ抹殺してやろうと考えます。一方ペトロは「あなたこそ神からのメシアです」と信仰を言い表すのです。
ルカは今日のところで、領主ヘロデの姿に光を当ててはっきりと示しながら、せっかく主イエスについての噂や評判を耳にしても、それを自分への批判や非難と感じて抹殺を図ろうとするあり方があり得ることを私たちに聞かせています。ヘロデは、当時の権力者として、彼が力を振るえば皆思い通りになると考え行動しました。そういうあり方の果てに、実は歴史的なことを言えば、このヘロデはローマ皇帝によって罷免されてしまい、島流しの刑罰を受けて生涯を終えてゆくことになります。
この福音書を著したルカは、福音書の書き出しのところで、まだ生まれたばかりの洗礼者ヨハネを、救い主に先立つ先触れの者であり、曙の光が山あいの谷の隅々までを照らし出して朝を来させるように働いて夜の闇を過ぎ去らせ、新たな一日を来たらせる者となる預言を紹介していました。そしてヨハネは、古い暗闇の勢力に属し正義よりも力の方を愛していたヘロデによって首をはねられてしまいましたが、まさにそういう仕方でヘロデの姿を明るみに出し、そしてヘロデは遂に駆逐され追い払われてゆくのです。
今日の箇所は、人間の力に依存し、主イエスによって神の御国とその恵みの支配がやって来ているという福音を聞いても受け容れようとしないヘロデが、今は力を振るって栄えているようでも、やがて過ぎ去って行く者でしかないことを明らかに示しているのではないでしょうか。
今日は、教会の暦では一年の最後、いわば大晦日に当たる終末主日と呼ばれる日曜日です。次の日曜日はアドヴェントの第一主日ですが、教会の暦ではアドヴェントから新年が始まるのです。
今日、私たちは聖書から、今繁栄していても過ぎ去るものと、過ぎ去ることのないものがあることを聞かされています。生と死のいずれの状態にあっても私たちに伴い、支えてくださる主イエスに信頼し、感謝して、この終わりの時を過ごし、新しい命に生きる幸いな者とされてゆきたいのです。お祈りを捧げましょう。 |