ただ今、ルカによる福音書9章1節から6節までを、ご一緒にお聞きしました。1節2節に「イエスは十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。そして、神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わした」とあります。
主イエスが十二人を呼び集め、伝道の業にお遣わしになったと述べられています。2節の終わりに言われている「遣わす」という言葉から、「十二使徒」、即ち「遣わされた者たち」という言葉が生まれました。今日のところは主イエスが12人を送り出される場面ですが、9章10節を見ますと「使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた」という言葉が出てきます。いきなりここに「使徒たちは」という呼び名が出てくるのですが、それは今日のところで、主イエスが12人の弟子たちをお遣わしになったことに対応して、こう呼ばれているのです。
使徒たちは、自分だけで使徒になっているのではありません。主イエスが彼らをお遣わしになったからこそ、彼らは「使徒、遣わされた者」となるのです。ローマの信徒への手紙10章14節15節には、私たちの信仰ということに関わらせて「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。『良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか』と書いてあるとおりです」とあります。12使徒たちがいよいよ主イエスの伝道の業に仕える働き人として、主イエスの許から送り出され、良い知らせを告げ知らせる者としての働きに遣わされてゆきます。
ただし、このことは決して一朝一夕に起こってはいません。ここには、12人を伝道の働きへと送り出すために、主イエスが「十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった」と言われています。ここだけを読みますと、いかにも主イエスがお手軽な仕方で力や権能を弟子たちに与えておられるようにも聞こえます。そしてこのことは、逆に、ここを聞いている私たちの場合には、こういう特別な力は与えられていないのだから、使徒と呼ばれる人々は自分たちとは違う特殊な能力を持つ人たちなのだという思いにつながるかも知れません。そのようにこの記事を聞いてしまえば、今日の箇所は、私たちには関わりない、特殊な特別な人たちの話のように思えてしまうでしょう。しかし、主イエスはわずか一時の間に、弟子たちに悪霊に打ち勝ち、病気を癒す力と権能を与えられたのでしょうか。そうではなくて、主イエスは長い時間をかけて、12人の中に、このような力と権能とを与えてゆかれたのではないでしょうか。
主イエスが12人それぞれの名を呼んでくださり、12弟子としてくださった出来事は、ルカによる福音書では6章12節から16節に記されています。その中の13節に、「朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた」とあります。主イエスが12人をお選びになったのは、やがて伝道の業に遣わして良い知らせを人々の間に告げ知らせる働きに当たらせるためだったのですが、この12人は選ばれた時、もうその時点で「使徒」と名付けられています。主イエスはこの12人を選ぶために山に登り、一晩中祈り通されました。選ばれた側の1人は、前夜に主イエスがそんなにも深く激しい祈りをささげておられたことも、また、自分たちがどうして「使徒」という名前で呼ばれるのかも、訳が分からなかったことでしょう。主イエスだけが、この12人がこの先どのように育って行くのか、そして、どのような働き人になって行くのかを御存知でした。その成長に必要な経験を、主イエスは12人のそれぞれに与えて行かれるのです。
12人をお選びになった主イエスは、この時から、いつも12人と共にいてくださいました。山から降って平らな場所に立ち、人々に説教を語り聞かせた時にも、12人は他の大勢の群衆と共に主イエスの語られる御言に耳を傾けました。主イエスが民衆への説教をすべて語り終えられ、カファルナウムやナインの町や村で百人隊長の部下を癒し、やもめの一人息子を生き返らせてくださった時にも、12人はその場にいて、主イエスが何をおっしゃり、なさったかをつぶさに眺めていました。洗礼者ヨハネが弟子を主の許に送ってきて、「来るべき方はあなたなのでしょうか」と問い合わせてきた時には、「行って、見開きしたそのままをヨハネに伝えるように」と主イエスが返事をしておられる言葉を聞き、ファリサイ人シモンの家で、主イエスが罪深い女性の罪を「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」という温かな御言を掛けられた様子も、その場に共にいて親しく見聞きしました。
そのように、主イエスのすぐ近くに寝起きして、主イエスの御言やそのなさる行いを身近に経験することすべてが、実は12人にとって伝道の業に遣わされるための学びの時であり、訓練の時だったのです。
このことについて、この福音書を著したルカは、非常に控え目にではありますけれども、また実にはっきりとした証言を述べています。ルカによる福音書8章1節に「すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった」とあります。主イエスは12人を伝道の旅に派遣する前に、このようにまず御自身が神の国の訪れを宣べ伝え、福音を告げ知らせ、その現実が人間の心や体を癒すことを、12人の前で実際に示されたのでした。ここに述べられていた「十二人も一緒だった」という言葉は、そのところだけを抜き出して聞くと、ほとんど意味をなさない、当たり前のことを言っているにすぎない言葉のようにも聞こえます。けれどもルカにしてみれば、最初から順序正しく、後から振り返って考えるならば、まことに意味が通るように、一つの言葉を注意深く記しています。「12人が主イエスと一緒だった」というのは、ごく当たり前のことを述べているのではなくて、伝道の働きをなさっている主イエスに同行する生活を通して、弟子たちにも伝道に派遣されるための準備の時が備えられ、悪霊に打ち勝ち、病気を癒す力と権威が少しずつ育っている次第を語る、ルカにしてみれば大変に重要な言葉のつもりで語っていたのです。
そしていよいよ弟子たちが伝道の業に遣わされてゆく直前の8章に入りますと、種まきのたとえ話を主イエスがなさって、語られた御言のすべてが実を結ぶ訳ではないけれども、神の御言には確かに大きな力があって豊かに実を結び、聞いて受け容れた人を内側から支え、その人生を大きく変える種だから、あきらめないで粘り強く語り続けることの大切さが教えられます。また湖の上や異邦人の土地で、悪霊が主イエスの働きを防げようとするのに対して、主イエスが一人の人の救いのために働かれる時、実際にその目指す人に救いが訪れる様子を12人は目撃させられます。そのように主イエスの御言には実際に力があって、悪霊の防げを打ち破り、病を癒すことを信じるようにされて、12人は伝道の業へと遣わされるのです。
このようにこの福音書が述べていたことを辿ってきますと、主イエスが12人の使徒たちにお与えになった大きな力と権能は、決して魔法や魔術のような得体の知れない不気味な力というのではないことが分かるのではないでしょうか。神の御言が丁寧に語りかけられ、それが受け止められるところでは、困難に直面して苦しみ、あえいでいる人々にも、御言によって健康な人生がもたらされることへの信頼であり、信仰が人を支え、癒し、持ち運ぶものであるということが聞こえてくるように思います。
12使徒に主イエスがお与えになった力と権能がそういうものであるならば、この派遣の話は、私たちとは違った特別な人の話ではなくて、私たち自身にも重なる話に聞こえてくるのではないでしょうか。私たちは使徒ではありませんが、毎週教会に通って、礼拝やその他の集会の中で、聖書の御言の説き明かしを聞いています。そして、御言を聞くだけではなくて、その御言を神からの語りかけと信じて生活しています。そのように御言を聞いて生活する中で、私たちの中にも静かに芽生え、育ってゆくものがあるのです。使徒たちが絶えず主イエスの近くに寝起きし、その御言を聞き、御業を目撃したように、私たちも繰り返して御言に耳を傾け、また、その生活の中で慰めを受け、勇気と力を与えられて生きてゆくのです。そして、私たちを神から引き離し、孤独に陥らせて絶望させようとする力に対してはこれと争い、勝利して、神に更に信頼して終わりまでを生きてゆく力が与えられます。私たちも、使徒という名前では呼ばれませんけれども、主イエスに伴われ、力を頂いて生きる弟子の生活をそれぞれに生き、神が与えてくださる慰めと慈しみの下で、癒しと健康を与えられ生きるようにされています。
これは実は、神が主イエスという方を通して私たちに出会ってくださり、弟子となるように招いてくださった最初の日からずっとそうなのです。12人が選ばれた最初の日、弟子たちはすでに主によって使徒と呼ばれていたように、私たちキリスト者もまた、世から選ばれて主に従って生きるように招かれた最初の日から、キリスト者という名前で呼ばれるようにふさわしく持ち運ばれ育てられているのです。そして、事情がそうであるのならば私たちは、今、自分がそれぞれに憶えている家族や隣人の救いということについても、希望を持てるのではないでしょうか。
私たちは今、自分に与えられている信仰生活の中で、実際に慰めを聞かされ、生きる希望と力を与えられることを知る時に、この力や希望を是非、近しい人たちにも知らせたいと願います。そしてそのことを伝えようとするのですが、なかなか上手く相手の心に届かずに伝わらないという経験をする場合があります。しかし御言が上手く伝わらないというのは、主イエスも種蒔きのたとえ話の中で弟子たちに教えてくださったことでもあります。弟子たちは主イエスの近くに寝起きして、主イエスがそれでも御言の力の大きさ豊かさを思って粘り強く語り続けられた姿を見せられ、そのようにしてレギオンが追い出され、レギオンを宿していた男が健康にされて行った様子も見せられました。悪霊に打ち勝ち病気を癒す力と権威というのは、簡単に相手を屈服させられるような魔法の力ではなく、上手く行かないように思われる時にも、遣わしてくださった主から離れず、あきらめずに祈り続け語り続ける力でもあるのです。
12人が遣わされた先で行ったことは、御国の福音を告げ知らせ病気を癒すことであったと6節に述べられています。これは、主イエスがなさっておられた御業と同じです。主から遣わされた弟子たちは、行く先々で、主イエス御自身の御業に仕え、主の御言に励まされ、導かれながら働いたのでした。そして、この働きは今日でも、主イエス・キリストを頭とする教会に受け継がれています。教会はこの世にあって、様々な困難に直面しながらも、御言に導かれて主の御業に仕えてゆくのです。
ところで使徒たちは、遣わされるに当たって、何も持たないことを心がけるように、主イエスから戒められました。3節4節に「次のように言われた。『旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。どこかの家に入ったら、そこにとどまって、その家から旅立ちなさい』」と述べられています。旅には何も持ってゆくなと、主イエスはおっしゃいます。「必要なものは、すべて神が備えてくださる」とおっしゃるのです。しかし、こういう言葉を聞くと、私たちは、ふと心配になるのではないでしょうか。神のような目に見えない方を当てにして、本当に旅立っても良いものでしょうか。途中で飢えたり渇いたりすることはないのでしょうか。私たちとすれば、ここで遣わされてゆく者たちに、あまり楽観的になりすぎないようにと、忠告してあげる方が良くはないでしょうか。神の保護と導きに信頼して生きようとする人の歩みは、時に、この使徒たちがここから始める旅のように、何とも危なっかしいものに思われてならない場合があります。けれども、この主イエスの言葉に従って出で立つなら、それはまさに、主がおっしゃった御言を信じての旅立ちです。そして、主イエスのおっしゃることは本当なのです。
後に、主イエスがこの時の旅のことを、使徒たちにお尋ねになりました。その時に使徒たちは、今回の旅では何も不足するものがなかったと答えました。ルカによる福音書22章35節に「それから、イエスは使徒たちに言われた。『財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか。』彼らが、『いいえ、何もありませんでした』と言うと、…』」とあります。ここに言われている通り、今日のところで主イエスが使徒たちを伝道に遣わした旅では、その行く先々ですべてが備えられており、使徒たちは神の保護と導きの不思議さを感じながら働いたのでした。
けれども、私たちは注意して主イエスの言葉を聞かなくてはなりません。今日の箇所では、主は何も持ってゆくなとおっしゃって使徒たちを遣わしておられるのですが、いつでもそうだと決まっている訳でもないからです。22章35節に続く36節では、逆に、旅のための用意を充分にした上で歩むようにと、主イエスはおっしゃっています。「イエスは言われた。『しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい』」とあります。ここでは主イエスは、使徒たちに向かって、自分自身の生活を営めるような用意をして、ここからを歩むようにとおっしゃっています。ちょっと聞くと今日の箇所でおっしゃったのと正反対のことをお命じになっているように聞こえて、戸惑いを覚えるかも知れません。この22章から聞こえてくるのは、伝道の業がわくわくするような冒険とは違っているということでしょう。「信じて生きるところでは、主が必要をすべて満たし持ち運んでくださる」と語られるところでは、私たちはつい、きちんとした準備もしないまま、きっと主が何とかしてくださるだろうという安易な思いに捉えられてしまう場合があります。けれども、伝道の業は、決して無責任な行き当たりばったりの企てではないのです。
主イエスの福音を伝えようとする人は、相手がいつでも自分の思い通りに養ってくれると甘く考えてはなりません。自分自身で生活を成り立たせ、身の回りの責任を取りながら伝道の業に仕えることが、伝道者には求められます。ただだからと言って、福音を宣べ伝え人々を健康にする伝道の業は、一から十までそのすべてが人間の計画による人間の業というのとは違うのです。そもそも伝道は人間の業ではなく、神に由来する神の業だからです。今日のところで使徒たちが持ち物を持たないままで遣わされたのは、伝道が神の御心による御業であることを学ばされるためでした。けれども、そのように神がすべて与えてくださるのだから、人間は何もしなくて良いというのではありません。不思議な神の御業によって慰められ力づけられて生きる幸いな生活に、私たちは招かれ、心を尽くしてその御業にお仕えして生きる光栄な生活を、私たちは与えられていることを憶えたいのです。
使徒たちが悪霊の力に立ち向かって勝利を収め、また癒しの業を行えるようにと、配慮に満ちて祈りをささげ生活を共にして育ててくださった主イエスが、私たちにも伴い、私たちのことも育てていてくださることを、是非憶えたいのです。そして、その主の御業に加えられ、用いられる光栄を感じながら、私たちは精一杯、この主に導かれて生きる僕としての生活に仕え、尚、力の及ばないところでは祈る者としての生活を与えられたいのです。お祈りを捧げましょう。 |