聖書のみことば
2024年11月
  11月3日 11月10日 11月17日 11月24日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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11月3日主日礼拝音声

 命の主
2024年11月第1主日礼拝 11月3日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ルカによる福音書 第8章40〜56節

<40節>イエスが帰って来られると、群衆は喜んで迎えた。人々は皆、イエスを待っていたからである。<41節>そこへ、ヤイロという人が来た。この人は会堂長であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して、自分の家に来てくださるようにと願った。<42節>十二歳ぐらいの一人娘がいたが、死にかけていたのである。イエスがそこに行かれる途中、群衆が周りに押し寄せて来た。<43節>ときに、十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女がいた。<44節>この女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった。<45節>イエスは、「わたしに触れたのはだれか」と言われた。人々は皆、自分ではないと答えたので、ペトロが、「先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているのです」と言った。<46節>しかし、イエスは、「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」と言われた。<47節>女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話した。<48節>イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」<49節>イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません。」<50節>イエスは、これを聞いて会堂長に言われた。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」<51節>イエスはその家に着くと、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、それに娘の父母のほかには、だれも一緒に入ることをお許しにならなかった。<52節>人々は皆、娘のために泣き悲しんでいた。そこで、イエスは言われた。「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ。」<53節>人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。<54節>イエスは娘の手を取り、「娘よ、起きなさい」と呼びかけられた。<55節>すると娘は、その霊が戻って、すぐに起き上がった。イエスは、娘に食べ物を与えるように指図をされた。<56節>娘の両親は非常に驚いた。イエスは、この出来事をだれにも話さないようにとお命じになった。

 ただ今、ルカによる福音書8章40節から56節までをご一緒にお聞きしました。会堂長ヤイロの娘が主イエスによってよみがえらされるという記事の中に、12年もの間、出血性の病気に苦しめられてきた女性が主イエスによって癒やされるという記事がマトリョーシカの入れ子のように嵌め込まれている、大変印象的な箇所です。このような箇所は福音書全体の中でもここだけで、ユニークな記事であると言えます。
 しかしそれにしても、どうしてこの箇所では2つの出来事が入れ子のように重なり合った仕方で語られるのでしょうか。2つの出来事に直接踏み込む前に、今日はまず、そのことを考えてみたいのです。2つの記事はそれぞれ別々に、「ヤイロの娘が死から取り戻されました」、そして「出血に悩んできた女性も癒やされました」という具合に2つ並べて書き記すこともできただろうと思います。幼い娘と病気を癒していただいた女性との間に、何かの繋がりがあるわけでもありません。ですから、元々これは別々の出来事として起こっているに違いないのです。それなのに、一つに組み合わされた出来事として語られている理由は何でしょうか。

 2つの出来事を一つの記事の中に組み合わせた結果、ここに生まれているものがあります。それは、時間の流れから生じる緊張感です。会堂長ヤイロが主イエスの前にひれ伏したところで最初に述べられていますけれども、彼の一人娘は今や死にかけていて瀕死の状況下にあります。もうあまり時間の余裕はない状態なのです。ところがそこに、12年もの長い間、出血性の病気に悩まされ苦しんできた女性が現れ、主イエスによって癒やされてゆきます。ヤイロにしてみれば、突然、横合いから強引に割り込まれたように思えたかも知れません。せっかく主イエスを伴って瀕死の娘のところへ帰ろうと急いでいるのに、突然見知らぬ女性が現れ、主イエスに関わり事が生まれてしまい、そのためヤイロの家への歩みはいったん中断しています。主イエスがなさっていることに文句は言えないと思いつつも、ヤイロはここで時間が過ぎて行くことを、ジリジリした思いで待っていたに違いありません。そういう焦燥感と言いますか、時間の流れから生じる緊張感と言うべきものが、この2つの出来事が組み合わされて一つの記事となっているところから生まれています。
 もしもこれが、「長い間出血に悩んできた女性がいましたが、主イエスによって癒やされました」、そして「ヤイロの娘も主イエスによって助けられ、父ヤイロの許に戻されました」といった具合に、2つの出来事として並べ書きしたならば、時間がもたらす緊張はあまり感じられないでしょう。2つの出来事が1つの記事に組み合わされていることで生まれているのは、限られた時間しか残されていないという緊張であり、そして、その時の間に果たして何をするのか、どう生きるのかという緊張なのです。
 そしてこの緊張は、ヤイロの娘に死が訪れるという仕方で、いったんは最悪の形で弾けてしまったかのように思われるのです。出血の女性の方は病気を癒やされて良かったと言えるかも知れませんが、ヤイロの方はとうとう願いが叶わずに手遅れになってしまうという結果に見舞われます。一人娘の死という出来事の前では、どんな親でも絶望する外はありません。どんなにか悲しく、どんなにか口惜しく、どんなにかやるせない思いがしたでしょうし、仮に訴える先があるのであれば、周りからどのように思われようと、どのように見られようと、精も根も尽き果てるまで訴えたいと思うような、そういう一時をヤイロは過ごしました。
 今日の記事の一方の中心にあるのはヤイロの絶望であり、そしてその絶望している中でヤイロに語りかけられる主イエスの御言です。「恐れることはない。ただ信じなさい」。死の出来事の絶望と悲しみのただ中にあって、ヤイロは、「ただ信じなさい」という信仰を静かに語りかけられます。この言葉が今日の記事の中心であり、ここに向かって今日の箇所は語られているように感じられるのです。

 いずれにしても、今日の記事で2つの出来事が組み合わされて語られているところに生じているのは、人間にとって「時」には限りがあり、私たち人間は、ある限られた時間の中でしか生きることができないということから来る緊張であり焦燥です。私たちは決して、死を前にして達観などできません。「人間は皆、一度は死ぬものだ。生きていれば死が訪れる。それだけだ」などと言って落ち着き払っていることなどできはしません。死んだらもう何も感じなくなるのだと考えて、「死は無だ。何もなくなるだけだ」と言う訳にも行きません。死の出来事とは、私たちにとって掛け値なく辛く悲しいものなのです。
 けれども、そのただ中に主イエスが立っていてくださっているところに、慰めがあり、希望があります。今日の記事の中で、一人娘の死を知らされて悲しみ、打ちのめされているヤイロに向かって、主イエスはおっしゃっています。50節に「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる」とあります。主イエスがヤイロに求められるのは信仰です。主イエスはヤイロに向かって、「強く、雄々しくあれ」とか「悲しむな」とか「打ちのめされるな」とかおっしゃったのではありません。当然深く打ちのめされ悲しんでいるのです。けれども、死に直面して嘆き悲しむことと信仰は、対立するものではありません。
 これは、時おり私たちも取り違えてしまうことがあるかもしれませんが、身近に生じた死の出来事のために深く傷つき悲しんでいる方を励まそうという思いからか、「キリスト者は、よみがえりの主イエス・キリストを知ってこの方に固く結ばれているのだから、悲しむのはよくない。信仰があれば、死の悲しみも乗り越えられる筈だ」と、そのように言って、辛い気持ちでいる兄弟姉妹の痛み苦しみを余計に大きくしてしまうような失敗をしてしまう場合があります。語っている側は、慰め、励まそうとする思いで言っているのですが、しかし、信仰を持てば人間が不死身にも超人にでもなるかと言えば、そんなことはないのです。信仰を持たなくても持っていても、人間は神にはなりません。私たちの能力には限界がありますし、身も魂も感じ易く、すぐに傷ついてしまうようなところがあって、死の出来事の前では、とても自分自身を自分の拠り所にはできないような弱い者でしかありません。死の悲しみが訪れるところでは、自分自身としては、なす術なく、そこに佇む以外、他に手はありません。
 けれども、私たちがそのようになる時にも、そこで疲れ果て、傷つき、一度は死に捉えられ弱り果てている者を、支えてくださる方がいらっしゃるのです。「ただ信じなさい」というのは、ヤイロが自分で力を出すようにと命じられているのではなくて、弱り果てているヤイロを支えてくださる方がおられることを信じるようにという呼びかけです。「あなたは今、支えられている。そのことを信じなさい」という呼びかけなのです。

 そして主イエスは、「ただ信じなさい」と呼びかけ、続けて「そうすれば、娘は救われる」とおっしゃいます。ここに言われている「娘が救われる」とは、一体どういうことなのでしょうか。ヤイロが心を強く持って、「きっと主イエスが娘を生き返らせてくださる」と思い続けたなら娘が生き返るということなのでしょうか。結果的にはそういうことがここでは起こっています。けれども主イエスがおっしゃっているのは、そういうことではないでしょう。ここに述べられている「救い」とは、深く傷つき悲しんでいるヤイロを神が支えてくださり、そして境界線を超えたところにいるヤイロの娘もまた、今、神が支えてくださっている、「神が共にいましてくださる」ということだろうと思います。主イエスはヤイロに向かって、「ただ信じるように」とお求めになりました。娘が生き返るように強く念じなさいとおっしゃったのではありません。たとい娘が死の内にあったとしても、神がなお、娘と共にいてくださることを信じるようにと、主イエスはおっしゃったのです。「ヤイロよ、娘が亡くなった今の時、あなたは深く嘆き、打ちのめされている。しかし信じなさい。たとい亡くなっても、神さまがなお、あなたの愛する者を支えてくださる。それは信ずるに足ることだし、事実、あなたの娘は神さまと共に生きる者とされるのだ」と、主イエスはおっしゃっているのです。
 ですから、主イエスがここでヤイロに求めておられるのは、ヤイロ自身が神に支えられていることを信じ、そういう自分を見出すことですし、また、娘のことについて言えば、ヤイロが娘のために執りなしを祈るということだろうと思います。これは、私たちが召された方々を憶える時にも同じことが言えるでしょう。亡くなってしまえばそこで終わるのではなくて、私たちは、召された方も神の御許で支えられていることを地上で信じることができますし、また永遠の世界において確かにそうであるならば、それによって私たちが憶える方々は救われていくのです。

 主イエスがヤイロに求めておられるのは、中風のために体が麻痺していて起き上がることのできなかった友人を主イエスの許へと連れてきた4人の友人たちの信仰に、根っこのところでつながっているようなことです。中風患者の4人の友人たちは、ただ主イエスのところに病んでいる人を連れて行きさえすれば、後は主イエスが何とかしてくださると考えて、自分たちの友人である中風の人を主イエスの前に吊降ろしました。ヤイロもまた、主イエスが家にやって来てくだされば何とかなると考えて、主の前にひれ伏したのでした。今日私たちが聞いているルカによる福音書では、「瀕死の娘の話」ですが、元々の記事であるマルコによる福音書では、娘はもう死んでしまっています。ヤイロは、主イエスなら何とかしてくださると思っているのです。
 主イエス・キリスト御自身は、どのようなお方なのでしょうか。よみがえられるお方です。まだこの時点では地上の御生涯を歩んでおられるので、そのことは明らかになっていませんが、しかし主御自身は死に打ち勝つ力を持っておられるのです。何のためにこの地上を歩んでおられるかというと、罪と死の勢力と対決してこれを打ち滅ぼし、罪と死に捉われている人間を神の許に取り戻すためです。ヤイロがひれ伏した相手は、そういうお方なのです。ですから主イエスは、死の出来事に際しても、ヤイロに向かって「恐れるな、ただ信じなさい」とおっしゃいます。
 主イエスはここで、ヤイロを支えるためにヤイロの家に向かって行かれます。ゲラサ地方にいたレギオンにとりつかれていた、ただ一人の男の人を助けるためにガリラヤ湖を渡ってはるばる異教の地の中に赴いてゆかれたように、今日のところでも主イエスは、死の境を踏み越えて、娘の命を取り戻すために死の陣営の中にただお一人で乗り込んで行かれるのです。たとえ娘が死んでしまっていたとしても、その死の中に踏み込んで行って、ヤイロのために娘を取り戻そうと行動しておられるのです。そして実際にそうなって行きます。
 ヤイロの娘がよみがえらされるこの出来事は、もちろん、この少女がそのまま永遠の命の中に生きるようになるということではありません。ヤイロの娘は、この時はよみがえらされても、また何十年か後には死の時を迎えたに違いありません。しかしこの出来事は、主イエスが死の中に踏み込んで行って、死に捉われている人間を命の中に招くことがおできになる方だということを示す出来事です。主イエスは御自身がどんな方であるかを表すために、いわばしるしとして、ヤイロの娘をよみがえらせてくださったのでした。
 ここに示されていることは、主イエスが死を超える方であり、時間の上に立っておられる方だということです。死は決して、時間の終わりに立つ勝利者などではないのです。これは私たち人間の経験とは矛盾することです。私たちの経験では、どんなに勢いのある人も、どんなに高潔な人も、どんなに立派な人も、やがて地上の歩みをすべて歩み終え死の時を迎える、死に向かって一方通行の道を歩んでいると感じられます。そしてそうであればこそ、今日の記事は大変切迫感があるのです。娘にはもうさほど時間が無い、手遅れになってしまう、人間には時間が非常に大事なものと感じられるからです。
 ところが、神は私たち人間とは違う考え方をなさいます。たとえ死の出来事が生じる時にも、神にとっては、そこですべてが終わる訳ではありません。神は死のただ中に主イエスをお送りになり、罪と死の勢力と戦われます。そして死に命をもたらし、死んだ者にも死すべき者にも、永遠の命をお与えになるのです。

 今日の2つの出来事は、時間が私たちに与える緊張感の中で、主イエスが死と戦って勝利を収め、新しい命と新しい時を与えてくださる方であることを表しています。ヤイロの娘は死の中から取り戻されて再び生きる者とされました。一方、そのよみがえりの出来事に包み込まれるようにして記されているのは、12年もの間出血が止まらず、深く傷つき、悩み苦しんでいた女性の癒しの出来事です。
 まず12年間というのは、10年プラス2年という意味での長さを表す数字ではありません。聖書の中では、「天の数が3、地の数が4」と考えられていて、3と4を足したり、3と4を掛けたりという数字には特別な意味が与えられています。12年の間病んだというのは、時間的な長さではなくて、この女性にとって、この病はもはや未来永却にわたって決して治ることがないように感じられていたという、苦しみを表す数なのです。
 出血性の病気というのは、当時の女性にとっては大変深刻なものでした。旧約聖書のレビ記15章25節に「もし、生理期間中でないときに、何日も出血があるか、あるいはその期間を過ぎても出血がやまないならば、その期間中は汚れており、生理期間中と同じように汚れる」という言葉があって、その言葉に従えば、この女性は12年間ずっと汚れた状態にある者と見做されて、普通の交わりに入ることができませんでした。彼女は、もちろん病気は持っているにせよ死んでいる訳ではありませんから、病気を抱えながら生きている訳ですが、その人生が続く限りは汚れた状態だと見做されて、交わりから弾き出されて生きていかなくてはなりません。しかも、そんなにも長い間病気が続くということは、彼女が何か大きな罪を犯して神からの怒りを受け、裁かれた状態なのではないかと見做される人生なのです。この先、生きるとしても、自分には人間らしい交わりも尊厳も与えられないまま生きていかなければならないと思う度に、この女性には、ヤイロとはまた別の、深い絶望と悲しみが伴っていたと言わざるを得ません。

 ところが、そういう辛い気持ちで生活してきた彼女の前に、主イエスが現れたのです。ペトロをはじめ周囲にひしめいていた群衆には、この女性と主イエスのめぐり会いは、たまたまのことに思われたでしょう。けれども、深い嘆きと苦しみの中にあった彼女は思わず、主イエスの服の房に手を伸ばして触れるのです。これによって病気が治るというような、はっきりした思いは、この時この女性の中にはなかったでしょう。この人もヤイロと同じに、主イエスに「何とかしていただきたい。主イエスなら何とかしてくださるのではなか」という思いで、主イエスの服の房に触れました。けれどもそれは、大変に大きなことだったのです。ヤイロが永遠の命を生きておられる主イエスの前にひれ伏したのと同じように、彼女もまた、主イエスの服に触れたことで、それによって、死と対決して人間を命の側に取り戻そうとしてくださる神に触れることになったからです。
 45節で主イエスは、「わたしに触れたのはだれか」とおっしゃいました。まさしくこの時、この女性にとって、「主イエスに触れる」ということは、決定的なことでした。主イエスに触れること、そして主イエスの御言葉を聞いて生きるようになることが、死から人間が解き放たれて新しく生きるようになる入り口だからです。

 今日の記事では、ヤイロの娘も出血性の病を抱えた女性も、主イエスによって新しい命を与えられ、ここから生き始めています。死んでしまった者、生きていても死に捉われたようになって生きるよりない者を主イエスが見出してくださり、近づいてくださり、その人の傍にやって来てくださるのです。まさに主イエスは、時間の制約を超えて私たちの許を訪れてくださり、死に捉えられ辛い気持ちで生きている者たちに、新しい命をもたらしてくださる方として行動しておられるのです。今日の2つの出来事は、異口同音に、主イエスが時を超えて私たちのもとを訪れてくださる方だということを表しています。
 先週聞いた、レギオンにとりつかれていた男の人のことを思い出してみますと、主イエスは湖の向こう岸のはるか遠くから、この人に出会い、助けるためだけにやって来ておられました。それを邪魔しようと悪霊が働き、更に前の箇所で湖に嵐を起こしたりしましたが、しかし主イエスはどのような妨げがあったとしても、それをもろともせず、やって来てくださいました。それと同じように今日の箇所では、主イエスが時間の隔てを超えて私たちを訪れてくださるお方であることが語られています。

 このように、ルカによる福音書8章の終わりには4つの奇跡の出来事が並んで語られていますが、そこに語られている事柄は、神によって憶えられ愛されている者一人ひとりのために、主イエスが空間の隔て、時間の隔てを超えてやって来てくださり、出会ってくださるということです。神に愛されている者を神の許に取り戻すために、主イエスは時空を超えてやって来てくださるのです。主イエスはひるむことなく、私たちの許にもやって来てくださいます。そして御言をもって罪や死と戦ってくださり、私たちをここからもう一度、新しく「神のもの」となって生きてゆく生活へと取り戻してくださるのです。
 主がそのように私たちのために、今日も戦っていてくださり、神の祝福のもとに置いていてくださることを憶え、喜びたいのです。お祈りを捧げましょう。

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