聖書のみことば
2024年10月
  10月6日 10月13日 10月20日 10月27日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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10月27日主日礼拝音声

 御業を告げ広めよ
2024年10月第4主日礼拝 10月27日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ルカによる福音書 第8章26〜39節

<26節>一行は、ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。<27節>イエスが陸に上がられると、この町の者で、悪霊に取りつかれている男がやって来た。この男は長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていた。<28節>イエスを見ると、わめきながらひれ伏し、大声で言った。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい。」<29節>イエスが、汚れた霊に男から出るように命じられたからである。この人は何回も汚れた霊に取りつかれたので、鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されていたが、それを引きちぎっては、悪霊によって荒れ野へと駆り立てられていた。<30節>イエスが、「名は何というか」とお尋ねになると、「レギオン」と言った。たくさんの悪霊がこの男に入っていたからである。<31節>そして悪霊どもは、底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないようにと、イエスに願った。<32節>ところで、その辺りの山で、たくさんの豚の群れがえさをあさっていた。悪霊どもが豚の中に入る許しを願うと、イエスはお許しになった。<33節>悪霊どもはその人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、おぼれ死んだ。<34節>この出来事を見た豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。<35節>そこで、人々はその出来事を見ようとしてやって来た。彼らはイエスのところに来ると、悪霊どもを追い出してもらった人が、服を着、正気になってイエスの足もとに座っているのを見て、恐ろしくなった。<36節>成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれていた人の救われた次第を人々に知らせた。<37節>そこで、ゲラサ地方の人々は皆、自分たちのところから出て行ってもらいたいと、イエスに願った。彼らはすっかり恐れに取りつかれていたのである。そこで、イエスは舟に乗って帰ろうとされた。<38節>悪霊どもを追い出してもらった人が、お供したいとしきりに願ったが、イエスはこう言ってお帰しになった。<39節>「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。」その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた。

 ただ今、ルカによる福音書8章26節から39節までを、ご一緒にお聞きしました。26節に「一行は、ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた」とあります。
 主イエスの一行が、ガリラヤ湖を渡って行った先のゲラサ人の地方に着いたと言われています。マタイによる福音書8章28節にもこの時の出来事と同じ出来事が記されるのですが、そこでは「ガダラ人の地方に着いた」と言われています。主イエスが着いた先がゲラサ人の地方とガダラ人の地方という2種類の記事があるのですが、この2つの地方はいずれも、主イエスが元々おられたカファルナウムから見てガリラヤ湖の向こう岸にあります。ただし、ゲラサ人が住んでいる土地はガリラヤ湖から見るとかなり奥地にあって、その土地で豚が放し飼いにされていたとしても、そこからガリラヤ湖になだれを打つように飛び込むことは考えにくいことだと言われています。ですので、ここには「ゲラサ人の地方」と言われていますが、実際にはガダラ人たちの土地だったのだろうと言われています。
 イスラエルではよく知られていることなのですが、ガリラヤ湖のこの辺り一帯、つまり湖の東側の岸辺は急峻な傾斜地となっています。このような地形で、崖を登ったところに豚が放し飼いにされていたというのですが、ユダヤ人たちが多く住んでいる地方では、そのようなことはまず起こり得ません。旧約聖書では、豚のように蹄が分かれている動物は汚れた生き物と見なされ、ユダヤ人たちはそれに触れることを嫌がったのです。けれども放し飼いをしていれば、当然、豚の方から人間に近づいて擦り寄ってくるということが起こり得ます。ですから、この土地に多数の豚が放し飼いされていたということは、この地方がもはやユダヤ人たちの住む地方ではなくて、異邦人たちの生活領域であったことを表しています。主イエスは異邦人たちの土地に踏み入って行かれたのでした。

 そして、そこで最初にかけられた言葉が、「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ」という悲鳴にも似た叫び声だったのです。このように呼びかけた男は、悪霊に取りつかれていた人であったことが27節に述べられています。27節から29節のはじめにかけて「イエスが陸に上がられると、この町の者で、悪霊に取りつかれている男がやって来た。この男は長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていた。イエスを見ると、わめきながらひれ伏し、大声で言った。『いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい。』イエスが、汚れた霊に男から出るように命じられたからである」とあります。
 この記事の直前のところでは、主イエスの一行がガリラヤ湖を渡って来ようとした時、激しい嵐が吹き下ろして来て舟が波に呑まれそうな危険な状態に陥ったことが述べられていました。あの嵐の出来事と、今日の記事に登場する悪霊たちが自分たちにかまわないでほしいと願っている出来事との間に何らかの関係があるのかないのか、はっきりしたことは言えません。即ち、後のところでレギオンと名乗っている悪霊たちが、主イエスが自分たちの許にやって来るのを防げようとして嵐を引き起こしたということは、定かにそうだと言うことはできません。ですが、この福音書を書いたルカの書き方の癖として、一つの事柄を言い表そうとする際に、それを一つの出来事や譬え話で伝えるのではなくて、2つあるいは3つぐらいの話を重ねて伝えようとするところがあります。そう考えると、直前に出てくる嵐の記事と今日の記事は、悪霊たちが主イエスのことを知っていて、自分たちの許に主イエスがやって来ることを歓迎しない、むしろ大きな恐れを憶え、何とかして主イエスを引き返させようとしているという点で共通している記事であるとも言えそうなのです。
 湖のこちら側のガラダ人の地方を支配している悪霊たちは、湖の向こう側のカファルナウムで主イエスが多くの癒しや悪霊を追い出されたことをすでに知っていて、その主イエスがやって来れないように湖の上に激しい嵐を送り、しかしそれに臆することなく主イエスが湖を渡って来ると、今度は岸辺で、今自分たちが支配していて言いなりに動かすことのできる男を使って、自分たちにかまわないようにと、主イエスに向かって言わせているのです。新約聖書のヤコブの手紙2章19節に、「あなたは『神は唯一だ』と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています」とあります。悪霊たちは神に逆らうことができないと分かっているので、極力関わり合いになることを避けようとします。湖の上で嵐を起こし、舟もろとも主イエスを溺れさせてしまおうと図ったり、あるいは自分たちが自由にできる男を使って自分たちにかまうなと言ったりします。
 しかし、このように悪霊たちが恐れを抱きつつ激しい行動に出ているということは、これを逆の側から見れば、主イエスがこの男の人を何としても悪霊の支配から取り返し、健康な生活に戻そうと決意しておられた、ということの表れではないでしょうか。こういう主イエスの断固たる態度は、この男の人を自分たちの支配下においてがんじがらめに縛りつけておきたいと思う悪霊の悪の力にとって、大変不安になる恐ろしいことであったのです。

 ところで、今日聞いている記事の中で、一体全体この男の人の身に起こったことはどんなことだったのでしょうか。この出来事はどういう意味を持ち、また何を表しているのでしょうか。
 主イエスは普段ユダヤ人たちが生活している領域からはみ出して湖のこちら側に渡って来られ、そして、レギオンと名乗り、男の人をすっかり捕らえていた悪霊たちを蹴散らして、この人を悪の力から解放しておられます。この時まですっかり悪霊に組み敷かれ、悪の力の言いなりになって生きてきたこの人は、正気に戻って主イエスの足許に座り、もはや悪の力の支配から解放されて自由な者とされています。それがここで起こっていることなのですが、もしもこの出来事を、レギオンが追い出されこの男の人が罪と死の支配から自由にされたという話の筋なのだと思って聞いてしまうならば、それはここでルカが伝えようとしていることの半分しか聞いていないことになるでしょう。
 確かにレギオンは追い出され、この男の人は正気に返って自由にされています。しかしそれだけではありません。35節に「悪霊どもを追い出してもらった人が、服を着、正気になってイエスの足もとに座っているのを見た」と言われているように、この人は単に自由な身になったのではなくて、逆に主イエスによって捕らえられ主イエスに従う者とされているのです。この男の人が、悪霊に支配されていた者から主イエスに従う人に変えられたということ、それがここで起こっていることです。この人にとってみれば、今までは悪霊に従わされ振り回されてきたけれども、今からは主イエスが自分の主人でいてくださるのだということです。
 主イエスが悪霊や悪の力と対決して勝利を収められるという時、そこで人は、いわば空き家になる訳ではありません。単に悪霊がいなくなって空き家になるのではなくて、そこには主イエスがやって来てくださり主人として住んでくださるようになります。そうであってこそ、その人は本当に悪の力から自由になれるのです。
 私たちは、決して無色透明な色のない存在などではありません。多くの悪の力であるレギオンか、あるいは、真の主である唯一のお方か、必ずそのどちらか一方に捕らえられます。主イエスを自分の中に主人としてお迎えするというのでなければ、私たちは遅かれ早かれレギオンに捕らえられ、その支配を受けざるを得なくなります。
 「悪霊に捕らえられた人」というのは、古い時代には、心の病を持つ人たちのことだと思われてきました。主イエスが肉体の病を癒してくださるように心の病を持つ人を癒やしてくださる、それが悪霊を追い出すことだと、かなり長い間、説明されてきたのです。ですが、その説明は正しくありません。今日、レギオンは心を病んでいる人たちの中にいるのではありません。ごく普通に生きる人の生活の中にも、あるいは人々が営んでいる社会の文化の中にも、レギオンは巣食っています。貪欲に自分の利益ばかりを追い求め、あるいは快楽や楽しみばかりを願うあり方の中に、また自分たちの身を守るためであれば隣人たちの命や生活はちっとも顧みなくてよいとするあり方の中に、レギオンは住んでいます。

 主イエスは、そのようなレギオンと戦われるのですが、今日の箇所ではまず、その戦いの経過について詳しく語られています。今日の記事の中で、主イエスは簡単に悪霊を追い出してはおられません。主イエスが命じても悪霊はすぐにはこの人から出て行きません。主イエスは悪霊に名前を尋ね、レギオンという名前を聞いて正体を確かめた上で、更にレギオンの要求を部分的に受け容れ、豚の中に移ることをお許しになります。すると豚たちが崖を下って湖になだれ込み、溺死するという経過を辿っています。そのような仕方で主イエスは、この人を悪霊から解放されました。このような経過は一体何を表しているのでしょうか。
 明らかにこれは、悪霊たちの手強さを表しているのではないでしょうか。勿論、悪霊たちは主イエスの御命令を正面からはねつけたり拒んだりできるような力は持っていません。けれども、主イエスと神の忍耐の下で、何とか憐れみをかけてもらえないかと、しつこく粘って交渉するようなことを、今日のところでは行っています。その結果、レギオンたちは支配してきた人間から乗り換えるようにして、豚の中に入っていくことを許されました。このような経過を辿ったことについて、これは主イエスがレギオンに対して譲歩したのだとか悪霊たちが部分的に勝利したのだと考える人たちもいますが、そうではありません。仮にそのように考えるならば、その悪霊の支配という事柄について、ごく簡単に考えすぎているのです。即ち、主イエスがひとたび悪霊を追い出してくださったならば、その後はもう、その人は自分で充分に上手くやっていけると思っているのです。しかし実際はそうではありません。悪霊は、一度追い出されたぐらいで潔く人間の許から立ち去ってゆくのかと言えば、そんなことはありません。たとえ主イエスによって追い出された後でも、もし隙があれば悪霊は繰り返し人間を誘惑して、その人の中に住み着こうとするのではないでしょうか。
 主イエスは今日のところで、この人を本気で悪霊の支配から解放しようとお考えです。それで、大変慎重に事を進めておられるのです。
 レギオンが豚の中に移ることをお許しになったのは、悪霊に譲歩したためでも、悪霊のことを思い遣ったからでもありません。そうではなくて、ここに生じているような経過を通して、レギオンに支配されてきた人に、もしそのまま悪霊に囚われた状態にあり続けたなら最後はどうなってしまうかを、豚の姿を通してはっきりと教えてくださっているのです。
 この人は、直前まで自分の中にいたレギオンが豚の中に入った途端、豚が次々と崖を下って湖で溺れる様子を見て、本当に驚き、またレギオンが自分から出て行ってくれたことに心底ほっとしたに違いありません。もし元のままであったら、自分もあの豚のように最後は死んでいたかも知れないと思えば、もうレギオンとは関わらない新しい生活を歩む者になりたいと、心の底から願ったのではないでしょうか。

 この人は正気を取り戻して、服を着て主イエスの足許に座ったと言われていますけれども、主イエスの許に留まり続けることで、レギオンから解放された新しい生活を始められるようになるのです。この人にとっては、今まで自分を支配してきたものがレギオンであったのが、今からは主イエスに従って生きる新しい生活を始めるようになっただけのことです。しかし実際にはそのような仕方でしか、人間がレギオンと戦うことはできないのです。人間には悪霊に抵抗できる力などないからです。主イエスはまさに、レギオンからこの人を解放し、御自身がこの人の主となるために、湖を渡ってやって来てくださったのでした。そして、この人からレギオンを追い出し、また湖を渡って向こう岸に戻って行かれるのです。
 主イエスが舟に乗って帰ろうとなさった時、この人はしきりに「お供したい」と願いました。それは、心細かったからでしょう。今は主イエスが近くにいてくださるので、レギオンは近づくことができません。けれども「主イエスが再び湖の向こう岸に帰ってしまわれたら、レギオンはすぐにでも戻って来るに違いない。そうなれば自分はとてもそれに抵抗できるような力を持ち合わせていない」と思えばこそ、この人は主イエスに同行することを願いました。

 しかし、この人に主イエスはおっしゃいます。39節に「『自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。』その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた」とあります。
 心細い思いでいたこの人に、主イエスは教えてくださいます。「神さまがあなたに何をしてくださったか、どのように救ってくださったかを繰り返し周囲の人たちに語り伝えるように」とおっしゃいます。何故なら、そのように繰り返し語り続けることが、この人が主イエスから離れずにこれからを生きてゆく秘訣だからです。
 この人はこの日、主イエスが御言を携え、湖を渡って来てくださったこと、そしてその御言の力で自分の中からレギオンらを追い出してくださったこと、またその結果、レギオンが移り入った豚たちが自分の身代わりとなって崖から下り溺れ死んでいったこと、自分もあの豚たちの中の一匹になっていてもおかしくはなかったのに、今はレギオンではなく、主イエスに仕える弟子の一人となってここで生活するようにされていること、そういうことを周りの人たちに繰り返し語り伝えたに違いありません。そのように証しし続けることによって、この人は、主イエスの弟子としての人生を生きるようにされたのでした。

 思えば、この男の人だけでなく、私たち自身の許にも悪霊がやって来るようなことはあるのではないでしょうか。私たちを誘惑し唆し、私たちをあるべき姿から引き離してしまう、そう誘惑する力が働くようなことがあるのではないでしょうか。口車につい乗せられてしまい、自分中心の自己本位な生活や、神から離れて何でも自分の思いどおりにならないと気が済まないような奔放な生活に向かいそうになる場合が、私たちにもあるのではないでしょうか。
 主イエスは、はるか遠くの湖の向こう岸から、そういう私たちの様子をつぶさに御覧になっていて、レギオンや悪と死の支配から私たちを解放するために、私たちの許にも御言を携えてやって来てくださいます。
 そして主イエスは、御自身がお掛かかりになった十字架を指さしながら、「あなたの身代わりとして、確かにこのわたしが十字架の上で死んだのだから、あなたは罪を清算され、悪からは自由な身になっている。今からはわたしがあなたの主である。あなたは悪を離れて、新しい命を与えられた者となって歩みなさい」と招いてくださるのです。
 この主の招きに従って、実際に悪や罪から救われ新しくされた者としての生活をここから生きる者とされたいと願います。たとえ多くの誘惑にさらされるような中にあっても、様々な戦いが人生の中にあり恐れや不安を憶えることがあったとしても、「あなたは罪を清算された新しい清らかな者とされている。あなたはそういう者として、ここで生きて良い」と、主イエスが言ってくださる御言に勇気づけられ励まされながら、ここから歩み出したいと願います。お祈りを捧げましょう。

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