聖書のみことば
2024年10月
  10月6日 10月13日 10月20日 10月27日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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10月13日主日礼拝音声

 嵐と信仰
2024年10月第2主日礼拝 10月13日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ルカによる福音書 第8章22〜25節

<22節>ある日のこと、イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り、「湖の向こう岸に渡ろう」と言われたので、船出した。<23節>渡って行くうちに、イエスは眠ってしまわれた。突風が湖に吹き降ろして来て、彼らは水をかぶり、危なくなった。<24節>弟子たちは近寄ってイエスを起こし、「先生、先生、おぼれそうです」と言った。イエスが起き上がって、風と荒波とをお叱りになると、静まって凪になった。<25節>イエスは、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われた。弟子たちは恐れ驚いて、「いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」と互いに言った。

 ただ今、ルカによる福音書8章22節から25節までを、ご一緒にお聞きしました。22節に「ある日のこと、イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り、『湖の向こう岸に渡ろう』と言われたので、船出した」とあります。
 このルカによる福音書では8章に入ってから、主イエスが幾つかの譬え話をなさりながら、神の御言の力がどんなに大きいかということ、そして、その御言を信じて生活することの大切さが教えられていました。この直前の箇所では、母や兄弟姉妹といった血のつながりの上では最も近しい人々が、主イエスの御言を語る働きの腰を折って中断させるように行動したことに対して、主イエスが厳しい態度でそれを拒絶しておられました。主イエスは御言の種を蒔き続けようとなさいます。主イエスが私たち人間の上に語りかけて蒔いてくださる御言の力という事柄が、この8章の主題であることが分かります。主イエスの御言には力があるのです。

 8章のここまでには、その御言の力が譬え話を通して教えられていました。今日の箇所から後のところでは、8章の終わりまで、主イエスが4つの奇跡をなさいます。これは、主イエスに不思議な力が備わっていることを示して、それを見た人を驚かせて信じさせようとする行いではありません。不思議な業を見て、それにびっくりして信仰に入る人は、不思議なことが続くことを求めるようになります。自分が願うように、あるいはより正確に言うなら、自分が予想するように不思議な出来事が続いて起こることを見せてもらえなければ、不思議を求める人の信仰はそこで終わってしまいます。主イエスは、そのようにわがままな道に私たちを導こうとなさってはおられません。奇跡の記事には、もっと別の意味が込められています。
 今日の箇所は、主イエスが御言をもって嵐を静められたという奇跡です。これは、自然界の脅威に対して神が力をもっておられることを表す奇跡です。その次に聞くのは、湖を渡って行った先のゲラサの地で主イエスが悪霊にとりつかれた人に出会い、その人から悪霊を追い出すという奇跡です。そして、更にその先には、会堂長ヤイロの亡くなってしまった娘を生き返らせる奇跡と、長い間出血性の病気に苦しんでいた女性の病気が癒やされる奇跡が、ちょうどマトリョーシカの入れ子のような仕方で2つ一緒に語られています。そういう4つの奇跡が8章にひとまとめにして述べられていくのですが、これは、自然の脅威、悪霊の働き、そして病気と死という、いずれも私たち人間にとっては手も足も出ないと思われる事柄に対して、神がその上に立っていてくださり、すべてを支配しておられることを示しています。神の言葉の力、御言に力があるというのは、魔法の呪文のように、それを唱えさえすれば何でも自分の思いのままになるような力ではありません。私たち人間には自由にできないこと、自由にならないことの上にも神が立っておられて、そしてすべてを支配しておられることを告げるのが御言です。神の力が、私たちの目にはなかなか思うようにゆかず多くの困難や苦しみや破れを生じているこの世界の上に働いていることを、御言が教えてくださいます。
 その御言に教えられ、信じて神の力に思いを向けて生きる時、私たちは本当に大きな支えを与えられることになるのです。

 今日の記事では、主イエスの求めに従って弟子たちが船出したと言われています。その際、特別な何かの力に守られているというような書き方はされていません。「湖の向こう岸に渡ろう」と主から言われたので、ただ船出しただけのことです。湖の上に船を漕ぎ出すことは、元々が漁師であった弟子たちにとっては、ほんの日常生活の延長であったに違いありません。「主と共に生きる」とか「主に従う」という言葉を耳にしますと、私たちは、それ何か特別な思いに彩られた英雄的な行動であるかのように考えがちです。しかし、それは思い過ごしです。確かに主に従うというあり方は決心を要するのですが、それは実際には、ほんの一歩を前に進めるということでしかない場合が多いのです。日常生活の中でひとつひとつ決心をして、少しずつ前へと進んで行くのです。ここで言えば「向こう岸へ渡ろう」という主イエスの言葉を聞いて舟に乗り込みます。主の言葉を聞いた結果、弟子たちは舟を出す決心をするのですが、それは決して特別なことでも英雄的な決断でもありません。
 ただ、この「主の言葉を聞いて従った」、即ち、主と共に舟に乗ったということが、結果的には大変大きな出来事につながります。23節に「渡って行くうちに、イエスは眠ってしまわれた。突風が湖に吹き降ろして来て、彼らは水をかぶり、危なくなった」とあります。湖の中程まで進んだところで、弟子たちは予想しなかった激しい嵐に遭遇します。「突風が湖に吹き降ろして来て、彼らは水をかぶり、危なくなった」と言われているとおりです。主に従って生きる人、主と共に生きる人の生活には、どういう訳か嵐に出遭わされるということが起こります。試みの嵐が吹き荒れ、主に従う人たち、主と共に生きようと志す人たちを翻弄するのです。この嵐に対しては、なす術がありません。主と共に舟に乗る人は、激しい嵐に苦しめられることを覚悟しなくてはならないのです。
 この嵐は、舟もろとも主イエスを滅ぼしてしまおうとする勢力の攻撃であり、また、弟子たちを主イエスに従うあり方から引き離そうとする勢力の働きでもあります。主イエスに対しては、こういう抵抗勢力がいます。主に従おうとする時には、こうした激しい経験をきっとすることになるのです。
 弟子たちがもしも、このように激しい目に遭い危険にさらされることを嫌がって舟に乗らなかったなら、どうなっていたでしょうか。主イエスと一緒に舟に乗らなければ、このような湖の上の嵐など知らず、それぞれに陸地の上で思い思いの暮らしを楽しんでいたでしょう。キリスト者であることが何の戦いもせずに済ませられる結構な境地だと思い込むような場合には、結局私たちは、安全な陸地に留まりけることになります。そして、キリスト者としてのどんな経験もすることができません。もちろん、そちらの方が良いと言って、主に従うことを躊躇うことも私たちにはできます。その可能性もあるのです。
 けれども、主に従って生きてゆく時には、不安や困難に直面するということがきっと起こります。なぜなら十字架に向かって歩まれる主には、敵対勢力が激しく襲いかかるからです。この嵐もその一例です。この嵐は主イエスを激しく脅かし、十字架への道ゆきから逸らさせようとする勢力の仕業なのです。

 ところで、このような危険に見舞われる中で、弟子たちはどう行動したでしょうか。24節に「弟子たちは近寄ってイエスを起こし、『先生、先生、おぼれそうです』と言った」とあります。舟が嵐にまき込まれ激しく翻弄されていた、まさにその時、主イエスはぐっすりと深く眠っておられたのでした。この経験は、弟子たちにとっては非常に鮮烈に感じられたようで、ルカによる福音書だけでなく、マタイ福音書にもマルコ福音書にも記録されています。主が深く安らかに眠っておられ、そして嵐がいよいよ激しく吹きつけた時、弟子たちは本当に恐ろしかったに違いありません。
 しかしことによると、私たちにも、この時の弟子たちと似たような経験があるかも知れません。激しい嵐が吹き荒れる戦いの最中に置かれ、それでいて、神はこの出来事をよそに眠っておられるのではないかと思えてならないような時があります。人間の罪や悪の勢力がいよいよ勢いを増し、縦横無尽に活動しているように思えてならない時があります。詩編44編の詩人も、そのような経験の最中、「主よ、奮い立ってください。なぜ、眠っておられるのですか。永久に我らを突き放しておくことなく 目覚めてください」と書いています。主の弟子たちも、この詩人と同じような困惑の中にあって、主イエスを揺すり起こして訴えるのです。それが24節の弟子たちの言葉です。「先生、おぼれそうです」。

 すると、どうなったのでしょうか。24節後半から25節かけて「イエスが起き上がって、風と荒波とをお叱りになると、静まって凪になった。イエスは、『あなたがたの信仰はどこにあるのか』と言われた。弟子たちは恐れ驚いて、『いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか』と互いに言った」とあります。
 今日の記事は、一体何を私たちに語っているのでしょうか。主イエスが神と同じく、どんな嵐をも支配して治められる力をお持ちの方だということを述べているのでしょうか。そういう主イエスがあなた方の人生にも伴ってくださるのだから、「あなた方は、この方に信頼して良いのだ。どうぞ信頼しなさい」ということを述べているのでしょうか。確かに、そのようなメッセージも聞こえてくるでしょう。けれども、今日の記事はそれだけでしょうか。嵐に見舞われ舟が激しく揺さぶられた時に、主イエスは深く眠っておられたのだと、この記事は伝えています。そして、この主イエスの眠りは、とりわけ弟子たちに強い印象を与えたのでした。新約聖書の3つの福音書が異口同音にこの出来事を伝えているということは、弟子たちがこの時の経験を思い起こし振り返る上で、主が深く安らかに眠っておられたことは、どうしてもこれを書き留めておかなくてはならないことだと思ったということを表しています。主イエスの眠りは弟子たちにとってどういう意味があったのでしょうか。

 嵐に見舞われ激しい戦いを余儀なくされた時、主イエスが眠っておられた中で、弟子たちはどうしようもなく、恐れと不安に捕らわれてしまいます。実は、このような弟子たちの姿は、私たちにとっては一つの慰めを与えてくれます。神が御手を伸べて救いの業を行ってくださる時、その大きな御業の前で人間は常に小さく惨めな者でしかないことを、弟子たちの姿は教えてくれるのです。私たちは、信仰の勇者になどならなくて良いのです。私たちが恐れに捕らえられ、怖じけづいて哀れな姿をさらし、慌てふためく時、それでも神の御手は的確に導いて、私たちを救ってくださいます。弟子たちが大慌てする中で嵐から救い出されたように、私たちも救われることを期待して良いのです。信仰による落ち着きが与えられ達観した人だけが救われるのではありません。神は弱く貧しく、小さい者たちをも配慮して、救いの中に持ち運んでいてくださいます。

 そして、そのような救いの中に置かれている私たちに、教会の主は、いつも尋ねてくださるのです。「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と。これは、いわゆる立派な信仰や英雄のような信仰者になりなさいという促しではないように思われます。たとえ僅かでも、かすかでも、信仰は、それが「ある」ということが大事なのです。
 弟子たちは嵐の中、神に信頼して深く眠っておられる主イエスを揺り起こしにかかりました。弟子たちも私たちも、主イエスのように神に全幅の信頼を置いて、嵐の中でも安らかに眠っておれるような強い信仰は持ち合わせていません。どうしても主イエスに頼り、揺り起こしにかからずにはいられません。私たちにとっては、困難や不安な状況の中に置かれる時、その場所から天におられる神の前に心を注ぎ出して祈ることが、神に向かって叫び、また共にいてくださる主イエスを揺り起こそうとすることではないでしょうか。

 しかしこの記事は、そのように神の救いを期待して私たちが懸命に祈って良いということだけでなく、更にその先のことも伝えているのではないでしょうか。舟が翻弄され、そして主が深く眠った状態にあった時、もしもそのまま主イエスが目を覚まされず眠ったままであったなら、事態はどのようになっていたでしょうか。恐らく弟子たちは嵐に対処しきれなくなり、そして舟の中に多くの水が流れ込んできて沈没させられていたのではないでしょうか。
 今日の記事ではそのようにはなっていません。しかし可能性としては、そうなることだってあり得たのです。そしてやがての日、そういう出来事が遂に実現する日がやって来たのでなかったでしょうか。罪と死の勢力が主に向かって牙をむいて襲いかかり、そして主イエスを実際に亡き者としてしまうということが起きたのではなかったでしょうか。そして弟子たちが「先生、先生、わたしたちは死にそうです」と呼びかけても、もうその言葉に耳を傾けてくださる方が十字架の上に取り去られ、いらっしゃらなくなるということがあったのではないでしょうか。主イエス・キリストが暗黒の力によって押しひしがれ、地上から奪われてしまう日、確かにそのような日が、主イエスの上に訪れました。

 しかし、そのような出来事の先に、よみがえりの朝が訪れます。主イエスは、その神のなさりように信頼を寄せて、激しい嵐の中にあっても安らかに平安に休んでおられるのです。激しい戦いの中にあって、尚も、主に信頼して歩み出す時、私たちは本当に大きな経験をさせられることになるのです。それは決して大げさにではなく、死の中を歩いて生かされたという他ないような経験です。嵐の中を過ごし、自分自身の無力さ愚かさをつくづくと思い知らされ、懸命に祈って主にとりすがり、そして、到底乗り切れないと思っていた嵐をくぐり抜けるようにされてゆきます。

 主がそのような本当に頼もしい救い主であることを、私たちは深い恐れと迷いの中にあって知るようにされるのです。お祈りを捧げましょう。
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