2024年10月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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嵐と信仰 | 2024年10月第2主日礼拝 10月13日 |
宍戸俊介牧師(文責/聴者) |
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聖書/ルカによる福音書 第8章22〜25節 |
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<22節>ある日のこと、イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り、「湖の向こう岸に渡ろう」と言われたので、船出した。<23節>渡って行くうちに、イエスは眠ってしまわれた。突風が湖に吹き降ろして来て、彼らは水をかぶり、危なくなった。<24節>弟子たちは近寄ってイエスを起こし、「先生、先生、おぼれそうです」と言った。イエスが起き上がって、風と荒波とをお叱りになると、静まって凪になった。<25節>イエスは、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われた。弟子たちは恐れ驚いて、「いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」と互いに言った。 |
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ただ今、ルカによる福音書8章22節から25節までを、ご一緒にお聞きしました。22節に「ある日のこと、イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り、『湖の向こう岸に渡ろう』と言われたので、船出した」とあります。 8章のここまでには、その御言の力が譬え話を通して教えられていました。今日の箇所から後のところでは、8章の終わりまで、主イエスが4つの奇跡をなさいます。これは、主イエスに不思議な力が備わっていることを示して、それを見た人を驚かせて信じさせようとする行いではありません。不思議な業を見て、それにびっくりして信仰に入る人は、不思議なことが続くことを求めるようになります。自分が願うように、あるいはより正確に言うなら、自分が予想するように不思議な出来事が続いて起こることを見せてもらえなければ、不思議を求める人の信仰はそこで終わってしまいます。主イエスは、そのようにわがままな道に私たちを導こうとなさってはおられません。奇跡の記事には、もっと別の意味が込められています。 今日の記事では、主イエスの求めに従って弟子たちが船出したと言われています。その際、特別な何かの力に守られているというような書き方はされていません。「湖の向こう岸に渡ろう」と主から言われたので、ただ船出しただけのことです。湖の上に船を漕ぎ出すことは、元々が漁師であった弟子たちにとっては、ほんの日常生活の延長であったに違いありません。「主と共に生きる」とか「主に従う」という言葉を耳にしますと、私たちは、それ何か特別な思いに彩られた英雄的な行動であるかのように考えがちです。しかし、それは思い過ごしです。確かに主に従うというあり方は決心を要するのですが、それは実際には、ほんの一歩を前に進めるということでしかない場合が多いのです。日常生活の中でひとつひとつ決心をして、少しずつ前へと進んで行くのです。ここで言えば「向こう岸へ渡ろう」という主イエスの言葉を聞いて舟に乗り込みます。主の言葉を聞いた結果、弟子たちは舟を出す決心をするのですが、それは決して特別なことでも英雄的な決断でもありません。 ところで、このような危険に見舞われる中で、弟子たちはどう行動したでしょうか。24節に「弟子たちは近寄ってイエスを起こし、『先生、先生、おぼれそうです』と言った」とあります。舟が嵐にまき込まれ激しく翻弄されていた、まさにその時、主イエスはぐっすりと深く眠っておられたのでした。この経験は、弟子たちにとっては非常に鮮烈に感じられたようで、ルカによる福音書だけでなく、マタイ福音書にもマルコ福音書にも記録されています。主が深く安らかに眠っておられ、そして嵐がいよいよ激しく吹きつけた時、弟子たちは本当に恐ろしかったに違いありません。 すると、どうなったのでしょうか。24節後半から25節かけて「イエスが起き上がって、風と荒波とをお叱りになると、静まって凪になった。イエスは、『あなたがたの信仰はどこにあるのか』と言われた。弟子たちは恐れ驚いて、『いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか』と互いに言った」とあります。 嵐に見舞われ激しい戦いを余儀なくされた時、主イエスが眠っておられた中で、弟子たちはどうしようもなく、恐れと不安に捕らわれてしまいます。実は、このような弟子たちの姿は、私たちにとっては一つの慰めを与えてくれます。神が御手を伸べて救いの業を行ってくださる時、その大きな御業の前で人間は常に小さく惨めな者でしかないことを、弟子たちの姿は教えてくれるのです。私たちは、信仰の勇者になどならなくて良いのです。私たちが恐れに捕らえられ、怖じけづいて哀れな姿をさらし、慌てふためく時、それでも神の御手は的確に導いて、私たちを救ってくださいます。弟子たちが大慌てする中で嵐から救い出されたように、私たちも救われることを期待して良いのです。信仰による落ち着きが与えられ達観した人だけが救われるのではありません。神は弱く貧しく、小さい者たちをも配慮して、救いの中に持ち運んでいてくださいます。 そして、そのような救いの中に置かれている私たちに、教会の主は、いつも尋ねてくださるのです。「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と。これは、いわゆる立派な信仰や英雄のような信仰者になりなさいという促しではないように思われます。たとえ僅かでも、かすかでも、信仰は、それが「ある」ということが大事なのです。 しかしこの記事は、そのように神の救いを期待して私たちが懸命に祈って良いということだけでなく、更にその先のことも伝えているのではないでしょうか。舟が翻弄され、そして主が深く眠った状態にあった時、もしもそのまま主イエスが目を覚まされず眠ったままであったなら、事態はどのようになっていたでしょうか。恐らく弟子たちは嵐に対処しきれなくなり、そして舟の中に多くの水が流れ込んできて沈没させられていたのではないでしょうか。 しかし、そのような出来事の先に、よみがえりの朝が訪れます。主イエスは、その神のなさりように信頼を寄せて、激しい嵐の中にあっても安らかに平安に休んでおられるのです。激しい戦いの中にあって、尚も、主に信頼して歩み出す時、私たちは本当に大きな経験をさせられることになるのです。それは決して大げさにではなく、死の中を歩いて生かされたという他ないような経験です。嵐の中を過ごし、自分自身の無力さ愚かさをつくづくと思い知らされ、懸命に祈って主にとりすがり、そして、到底乗り切れないと思っていた嵐をくぐり抜けるようにされてゆきます。 主がそのような本当に頼もしい救い主であることを、私たちは深い恐れと迷いの中にあって知るようにされるのです。お祈りを捧げましょう。 |
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