聖書のみことば
2024年10月
  10月6日 10月13日 10月20日 10月27日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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10月13日主日礼拝音声

 主にある家族
2024年10月第1主日礼拝 10月6日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ルカによる福音書 第8章19〜21節

<19節>さて、イエスのところに母と兄弟たちが来たが、群衆のために近づくことができなかった。<20節>そこでイエスに、「母上と御兄弟たちが、お会いしたいと外に立っておられます」との知らせがあった。<21節>するとイエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」とお答えになった。

 ただ今、ルカによる福音書8章19節から21節までを、ご一緒にお聞きしました。21節に「するとイエスは、『わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである』とお答えになった」とあります。
 よく知られていることですが、聖書全体の中では、全人類の歩みがアダムとエバという一つの家庭の物語から語り出されています。また、旧約聖書の中で人間に信仰が与えられ、神の救いの下に生活するようになる最初のところには、やはり一組の夫婦が登場します。アブラハムとサラです。そればかりではありません。旧約聖書、そして新約聖書においても、神の救いの御業は、それぞれの家庭やそこに端を発する一つの民の具体的な出来事を舞台として、先へ先へと進められてゆきます。旧約聖書の中には何か所も、系図や、あるいはどの氏族に連なる者が何人いたかというようなリストが現れますが、それらは皆、神が救いの御業の許に持ち運ばれた人々の人名表という意味を持っています。神が人類を滅ぼすのではなく救おうとお考えになって、その御業の中に招かれ用いられた一人ひとりが救いの御旨を受け継ぐ者たちとして選ばれているという意味合いが、系図や人名表には込められています。そしてそういう考え方は新約聖書にも受け継がれて、マタイによる福音書1章やルカによる福音書3章に、「救い主イエス・キリストの系図」が記されるようになっているのです。

 ところで、そういう大きな神の救いの御業の流れの中に、クリスマスの出来事があります。 クリスマスの出来事を伝えるルカによる福音書2章4節には、「ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った」とあり、そして主イエスがお生まれになります。主イエスは、ダビデの町ベツレヘムでお生まれになり、父ヨセフを通してダビデ王の血筋の中におられたことを、この記事は物語っています。主イエスは決して忽然と歴史の中に現れたのではありません。そうではなくて、主イエスもまた一つの家庭にお生まれになり、その生涯を歩まれました。ヨセフを父、マリアを母と呼んで、他の弟や妹たちと共にお育ちになりました。ヘブライ人への手紙2章11節には「イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない」と言われます。
 こういう家族のつながりは、主イエスが伝道の生活(公生涯)にお入りになっても、決して絶たれることはありませんでした。主イエスと家族との深い絆は、主イエスが十字架にお掛かりになる時まで続きます。主イエスは、十字架のもとに佇んで為す術もないあり様となっている母マリアを、愛する弟子に委ねて息を引き取られました。ヨハネによる福音書19章25節から27節に「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、『婦人よ、御覧なさい。あなたの子です』と言われた。それから弟子に言われた。『見なさい。あなたの母です。』そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」とあります。主イエスは最後まで家族の一員であることに忠実で、家族を大事になさいました。

 このように、聖書の中では家族のつながりが大切に考えられています。しかしその一方で、家族のつながり、いわゆる血筋や血脈といった事柄が何にも勝って優先されるものであると考えられているかというと、そうではありません。家庭はそれ自体が無条件に価値あるものとされているのではなくて、それを通して神を知らされ、御国に連なるものとして大事にされているのです。即ち、アブラハムを通して与えられ約束された神の祝福を、まるで金のバケツを次から次へと手渡してゆく、そういうつながりとして、家族のつながりが重んじられているのです。
 ですから、あくまでも神が中心でいらっしゃいます。神を抜きにしたところで、何が何でも家や血のつながりが一番だという考え方は聖書の考え方ではありません。家族のつながりは、御国を受け継ぐものとして意味が与えられています。従って、家族と御国と、そのどちらか一方だけを選ばなくてはならないような厳しい事情が持ち上がる時には、神の事柄、御国の事柄がまず考えられ、そして、その光の中で家族や家庭の事柄を考えることが願わしいのです。例えば、アブラハムに出立するようにという神の御命令があった時に、彼は親族と別れ父の家を離れて御言に聞き従い旅立ちました。このように御言に聞き従って家族と離れて暮らすようになった人は、新約聖書では、洗礼者ヨハネも、また主イエスの12人の弟子たちもそうでした。
 そのように、御国に生きることと家族の被護の下に生きることの間に、ある緊張があるということについて伝えているのが、主イエスが12歳の時の出来事です。主イエスが両親に連れられてエルサレム神殿に詣で、帰る時に、主イエスを残して両親だけが一日道を進むということが起こりました。当然のこと、息子の姿が見えず両親は心配します。息子を捜して神殿に戻り境内で少年イエスを見つけるのですが、その時に、母マリアと主イエスの間に会話が交わされました。ルカによる福音書2章48、49節に「両親はイエスを見て驚き、母が言った。『なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。』すると、イエスは言われた。『どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか』」とあります。神との関わりに生きる人にとって、時として家族は妨げとなったり誘惑となったりする場合があり得ることを、この事例は表しています。旧約のヨブ記に出てくるヨブの妻もそうでした。辛い状況のヨブを見て「神さまを呪って死んだ方がよいではないか」と言って、ヨブにたしなめられています。また伝道者パウロが独身でいたことの大きな理由は、「家族に煩わされてしまうと、神さまにお仕えできなくなる」という点にあったので、可能であれば独身でいた方が良いとコリントの信徒への手紙に書いています。
 そのように、時に起こってしまう厳しい状況を思い描きながら、主イエスもまた敢えて極端な言い方をなさる場合がありました。ルカによる福音書18章29、30節に「イエスは言われた。『はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける』」とあります。「血のつながりよりも信仰による兄弟姉妹のつながりの方がはるかに大きなものである」と、主イエスは弟子たちに教えられました。

 そして今日の箇所では、他ならない主イエス御自身と家族の間に起こった一つの出来事がその実例のように紹介されているのです。19、20節に「さて、イエスのところに母と兄弟たちが来たが、群衆のために近づくことができなかった。そこでイエスに、『母上と御兄弟たちが、お会いしたいと外に立っておられます』との知らせがあった」とあります。大勢の人々が主イエスと共にいた時、今日風に言えば、主イエスのスマホに電話が掛かってきて、話の腰が折られてしまうようなことが起こりました。その際、主イエスが電話の着信をオフにするようにしておっしゃったのが21節の言葉です。「するとイエスは、『わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである』とお答えになった」。この日この場に居合わせた人々には、この主イエスの厳しい態度がとても印象的に感じられたでしょう。この日の出来事は、マタイ、マルコ、ヨハネの福音書すべてに記されています。
 主イエスはこの日、群衆を教え御国の訪れを伝えておられました。ところがその時に、主イエスの前に家族の者たちが進み出て、その場での主イエスの働きを中断させようとした、そういうさしでがましい行動に対して、主イエスは大変厳しい姿勢でそれを退けられました。見ようによっては、親兄弟に対して冷淡な仕打ちとさえ思えるようななさりようですが、何故主イエスがこんなにも厳しい態度を取られたのかは、他の福音書に記されているこの日の記事を参考にすると、よく分かります。たとえばヨハネによる福音書7章5節には、主イエスの兄弟たちについて、彼らはまだ主イエスを信じていなかったと述べられています。マルコによる福音書3章21節では、「主イエスの気が変になっている」と言う人々がいて、その話を真に受けた家族の者たちが主イエスを取り押さえて家に連れ帰るために、この場にやってきたことが語られています。つまりこの時点では、家族である人々には、主イエスがなさろうとしていること、主イエスの十字架への道ゆきの事柄が理解できずにいたのです。もちろん行き先が十字架であるとは、家族は知りません。けれども、主イエスが語ったり行動なさるうちに、どんどん敵が増えていく様子は見えていたに違いありません。思い切った行動をなさる主イエスのあり方は、身内である家族の者たちには心配の種です。しかし主イエスにとっては、十字架へと向かってゆくことこそが御自身の辿って行かれる道なので、この点を譲る訳にはゆきません。

 そんな背景があって、ここで厳しい言葉が語られています。主イエスはこの時だけでなく、御自身の働き、つまり十字架へ向かっていくことから引き離したり、邪魔立しようとする誘惑や試みに対しては、いつも大変厳しい態度を示されました。
 けれども、主イエスの母マリアは、主の兄弟たちと同じだったのでしょうか。兄弟たちは確かに主を信じていなかったと言われていますが、マリアがどうであったかについては、聖書の中に確かな記述がありません、マリアのことがあまり書かれていないことは注目すべきことです。マリアは主イエスの誕生と死の場面に立ち会います。しかしそれ以外のところでマリアが登場する時には、マリアは決まって、主イエスから厳しく鋭い言葉をかけられています。今日の箇所がそうですし、カナの婚礼の場面でも、「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのですか」と言われています。先程聞いた、主イエスが12歳の時の話でもそうでした。マリアが主イエスの地上の御生涯に伴って登場する場面では、彼女はいつも、主イエスの御業や御国の事柄を十分に悟っていない人物として描かれているようなのです。そういう意味では、マリアは、この直前の7章に登場していた洗礼者ヨハネとよく似た役割を持つ人物として描かれているようです。即ちマリアも洗礼者ヨハネも、主イエスについて、ただならない何か特別な力や役割を持っているらしいということには気がついていたのですが、しかし、その主イエスが具体的にどのようなことをなさるのか、どういう救いの業をなさるのか、分からなかったのです。主イエスが地上での御生涯を歩まれる間、あまりにもへりくだった姿で生きておられたものですから、その主イエスに、マリアもヨハネもつまずいてしまったのでした。

 ところで今日の記事の中心は、母マリアでも兄弟たちでもありません。21節で言われている主イエスの言葉です。「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」と、主イエスはおっしゃいます。この言葉は、主イエスの母マリアや兄弟たちには厳しい言葉に聞こえたでしょうが、主イエス御自身は肉身を突き放したり遠ざけたりするためにこうおっしゃったのではありません。主イエス御自身は最後まで御自身の家族に忠実で、家族を大切に思っておられました。
 今日のこの記事は、「種まきのたとえ」や「ともし火のたとえ」に続いて語られています。ルカによる福音書では、他の福音書とは少し違う順序で出てくるのですが、ルカが最初に「自分は順序正しく福音を語る」と言っていたことを思い出しますと、この場所にこの出来事が語られていることには何か意味がありそうです。
 そこで改めて考えてみますと、「種まきのたとえ」、「ともし火のたとえ」で語られていたことは、「御言を聞く」ということでした。今日の箇所でも、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」と言われています。そうだとすると、今日の箇所は、直前の譬え話を通して語られていたことと同じことが語られているのではないでしょうか。
 即ち、神の御国の祝福を受け継いで生きる人々というのは、具体的には「御言を聞いて、それに養われて生きる生活」の中で、御国の祝福に与るのです。ところが、時にはその肝心の御言を聞くということについて、最も身近な人たちが妨げとなることもあるのだということを、今日の記事は語っているように思います。大変に厳しい事実ですが、そういうことが起こる時には、主イエスは断固として御言を語ることを止めようとなさいません。種まきの譬え話では、元々は、主イエスが御言の種を蒔くときに、その種が上手く受け止めてもらえない場合があるけれども、主イエスとしては実りが豊かに与えられることを期待しながら御言の種を蒔き続けるのだと言っておられました。ところが弟子たちはそれを、御言を聞く側の話にすり替えてしまい、良い地面にならなければならないという説明として語られていました。けれども、主イエスはあくまでも御言の種を蒔き続けるのだとおっしゃいます。そしてそれが「種まきのたとえ」なのです。御言を聞くことが妨げられる、御言の種が上手く蒔かれないことがあり得る、それは外からの迫害によることもあれば、その人の内側が茨に覆われていて聞けないこともありますが、そういう厳しい出来事の一例として、主イエス御自身が御言を語ろうとした時に、家族がそれを邪魔立てしようとして現れたというのが今日の記事なのです。そしてそれに対しては、主イエスは断固として、御言を語り続けることが大事だと言われました。

 先ほど、主イエスは生涯にわたって家族を大事になさったと言いましたが、そうは言っても、主イエスが公生涯に入って伝道の生活を始められてからは、御自身の家族を懐かしんでナザレの家に帰るようなことがあったかというと、そういうことはありませんでした。それは主イエスが家族を顧みなかったからではなくて、御言を届けなくてはならない人たちの中に、家庭において不遇な人たちが大勢いるのを御覧になって、その人たちにも伴なおうとして身を低くされ、へりくだられたからでした。主イエスは敢えて、家族との温かな交わりから離れて何もない生活へと向かわれました。そしてその先には、十字架が立っていました。主イエスは家族から遠ざかっただけではありません。主イエスは御自身が遣わされた神の民であるイスラエルの人々からも退けられ、更に最後には12弟子が主イエスを見捨てるということが起こりました。主イエスは本当に孤独に、誰からも見捨てられた中で十字架に掛かられました。けれどもそれは、たまたまそうなったということではありません。主イエスはまさに、どんなに困難な辛い状況に生きる人がいるとしても、「わたしはそこにいる」ということを表すために、十字架への道を歩んで行かれたのです。
 ところが誰も、救い主がそのように歩むなどとは思っていません。救い主とは王のように大きな力を振るう者だと思われていたからです。ですから理解されないのです。けれども、主イエスは間違いなく、遣わされた救い主としての御業を行うために、このような道を歩まれました。すべては、その主イエスの死を経て、始まるのです。

 主イエスが十字架にお掛かりになり復活なさった時に、弟子たちは初めて、神の救いの御業がどのようなものなのか、神がどのようにして私たちを救おうとしておられるのかを理解し始めたのでした。そしてそれは、主イエスの家族も同じです。主イエスが復活して、弟子たちを一人ひとりを訪ね歩いてくださり、弟子たちが少しずつ主イエスの御業を理解し始めて、教会が誕生しました。聖霊が降ってエルサレムに最初の教会が誕生した時に、そのようにして変えられていった弟子たちの中に、「主の兄弟ヤコブ」という人も名前を記されていきます。ヤコブも最初から主イエスの弟子だったわけではありません。主イエスのことを分からず、取り押さえようとしてやって来た家族の中に、ヤコブもいたのです。けれどもヤコブは、主イエスが十字架に掛かり復活なさった時に、すべてのことを理解し、初代教会の中で良い働き人の一人とされて行きました。

 私たちは時に、親子や夫婦や兄弟、姉妹の間柄において辛い事柄を抱え、苦労する場合があります。けれどもそんな時、私たちは今日の箇所に記されている主イエス御自身と家族との関わりを憶えるようでありたいのです。主イエスもまた、家族から理解されず、地上の生涯においてはお一人で生きられました。けれども主イエスは、そんな関係も耐え忍んでくださり、主イエスの側からは決して縁を切ったり絶交するようなことはなさらなかったのです。その結果、母マリアを愛する弟子に委ねるということが起こりました。
 地上の人間関係が時にギクシャクして辛く悲しい思いをする時に、主イエス・キリストがそこに黙って立っていてくださいます。そして、御自身の十字架によって私たちの罪と過ちに清算がつけられる時、新しい関係が生まれてきます。それまで互いに尖って険悪であった関係が、主の贖いの光のもとに置かれて、赦しがそこにもたらされ、神の御国の中で正しく位置を与えられて生きる、新しい生活がもたらされる希望があることを憶えたいのです。

 ですから、「御言をただ聞き流すのではなくて、御言を聞いて行う者となるように」と招かれています。私たちは、どう感謝したら良いのか、どう生きたら良いのか、分からないかもしれませんが、しかし、主イエスが私たちの罪を清算してくださり、温かな光の中で、温かな神との繋がりの中で生きて良いと言ってくださっていることは確かです。そのことについて、どんなに邪魔立てされようと、主イエスは決して妥協することなく、繰り返し語ってくださいます。そういう主イエスの御光のもとに置かれ、私たちの生活はこの御言から歩み出すのだということを憶えたいと思います。お祈りをささげましょう。

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