聖書のみことば
2023年8月
  8月6日 8月13日 8月20日 8月27日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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8月27日主日礼拝音声

 家庭
2023年8月第4主日礼拝 8月27日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/出エジプト記 第20章14節

<14節>姦淫してはならない。

 ただ今、出エジプト記20章14節の言葉をご一緒にお聞きしました。ここには、「姦淫してはならない」とあります。
 今日は最初に、この言葉が語られている順序、十戒の中のどこに置かれているかという点について思いを向けたいと思います。この言葉は、十戒の中では第7番目に語られています。7番目は決して早い方ではないように思えます。もともと十戒は2枚の石の板に刻まれていて、1枚目の板には「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」という言葉に始まって「神に対して人間がどうあるべきか」という教えが5つ、そして2枚目の板には「殺してはならない」という言葉から始まって「人間同士の間柄がどうあるべきか」が、やはり5つ刻まれていました。今日の「姦淫してはならない」という言葉は7番目ですが、2枚目の板の、人間同士の間柄について語っている言葉に限って考えると、「殺してはならない」に次いで2番目に挙げられている言葉です。その次は「盗んではならない」という戒めですが、それよりも先に置かれていて、人間関係の間柄の中では「殺す」ということに次ぐ大変重要な事柄であることが、その順番から分かるのです。

 そしてもう一つ、この戒めについて、はっきり確認しておかなくてはならない事柄があります。それは、「姦淫」と訳されている言葉です。聖書の中では、この言葉は「人殺しをしないこと」に次ぐ殊のほか重要な問題とされていますが、しかし私たちの日常生活の中で、「姦淫」という言葉はあまり耳にしないように思います。それは、この事柄が稀だからということではありません。そうではなくて、まるでこの「姦淫」の深刻さを覆い隠すかのように、別の言葉に置き換えられて語られることが多いために、「姦淫」という言葉はあまり聞かれないのだろうと思います。
 「姦淫」とは、普段私たちがよく耳にする言葉に置き換えるならば、「不倫」です。伴侶を与えられている人が、そのパートナーが生きているにも拘らず、更に別の第3の人と性的交渉を持つことが不倫であり、それがまさに姦淫なのです。世の中の週刊誌の多くが販売部数を増やす目的で毎週芸能人や政治家たち、有名人のスキャンダルを暴くことに血眼になっていますが、そうした記事の中でも繰り返し取り上げられるのが性的な事柄です。こうした事件は、それこそうんざりする程多くこの社会の中にあり、しばしば耳にするのですが、そこでは「姦淫を犯した」とはあまり言われません。まるで苦い薬をオブラートに包むように、「不倫」という言葉も包み込むようにして語られることがほとんどです。中には自分の立場を弁護しようとする人気者が「不倫は文化だ」と居直って、その言葉がその年の言葉としてノミネートされるような奇妙な現象も見られる程です。
 ある意味では、それほどに「姦淫」ということは、私たちの日常生活、社会の中で、大変身近な事柄になっていると思います。この事柄についての失敗談は聞き飽きる程、私たちの身近にあるのですが、しかし忘れてならないことは、この事柄は神から御覧になった場合には、殺人の次に数えられる程に重大で深刻な問題とされていることです。不倫は私たち人間がつい陥ってしまいがちな過ちではありますが、しかし決して、人間の社会を構成する文化にはなり得ないものです。

 しかし、どうしてでしょうか。男性であれ女性であれ、性的な衝動は生まれながらに備っている根源的なものです。それを開放して何が悪いのかと主張する人たちも世の中には大勢います。しかしそのように主張する人々は、それこそ目先の欲求に衝き動かされていて、そもそも人間が社会的な関係をお互い同士結びながら、協力し合って生きる社会的存在であることを忘れているか、あるいは意図的に見落としているのです。
 そもそも日本語の「人間」という言葉自体が、「人は、一人で生きるのではない」ことを表しています。人間という字は、「人と人の間」と書きます。私たちは、自分一人だけでどこからともなくやって来て、どこへともなく去ってゆくのではないのです。人間の人生は、生まれた時から地上の命を終える時まで、ずっと、他の人たちとの関わりの中に置かれています。神から命を与えられること、それは決して一人だけで始まるのではありません。まず両親の間に生まれますし、幼い時には一人では生きられないので、家族や近しい人たちに支えられ成長します。やがて一人で生きてゆけるようになると、今度は、支えられる側から支える側に回るようになります。周囲の人たちとの間にあって、自分の属する社会とそこに生きる大人や子どもや年老いた者たちを支えるようになって過ごします。そうやって地上の生活の終わりまで、周囲の人たちと関わりを持ちながら、互いに支え支えられてゆくのが人間の一生です。ですから人は「人間」と呼ばれるのです。
 そして、そういう人間同士の親しい間柄の頂点であり、また私たちが生きていく上でのすべての基礎となるのが、結婚によって形づくられる夫婦の間柄、そしてそこに生まれてくる家庭なのです。私たちは親からしか生まれて来ません。それは夫婦の関係、家庭があったからこそです。

 不倫と呼ばれる「姦淫」は、社会全体を支えまた一人ひとりを支える基本的な人間関係を破壊します。最も基本的な信頼関係を破壊します。それは決して、社会を形成し、皆で共に将来に向かって進んでゆく歩みを形造ることはできません。自分本位なわがままなあり方をしていながら居直って、これこそが文化であり、自分の欲求に基づいて歩まない者は愚かだと言い放つ人は、自分が周囲の忍耐によって支えられていることを知らない人です。いい気になって、自分が一人だけでも生きてゆけると思って生きてしまうと、いずれは誰からも相手にされなくなり、孤独の中を彷徨い歩くようになりかねません。そしてそういう時には、当の本人は、「人生はもともと孤独なものなのだ」と達観したようなつもりになって懸命に周囲の気を惹こうと企てますが、相手にされず、大変淋しく辛い人生を過ごすようになってしまうでしょう。

 神は、そのように私たちが自分だけで生き、孤独の内に滅んでゆくために人間に命を与えておられるのではないことを、私たちは知らなくてはならないと思います。このことは、天地創造の6日目に最初の人間アダムが造られた直後のところで、はっきりと神がおっしゃっておられます。創世記2章18節に「主なる神は言われた。『人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう』」とあります。このようにして「結婚」という制度が人間に与えられていきます。
 ここで神は、「人が独りでいるのは良くない」と、はっきりおっしゃっています。この「良くない」という言葉は、天地創造の記事の中で、特に注目を惹く言葉です。
 天地創造の中で神がまずお造りになったのは、光でした。そして、その光を御覧になった神は、それを「良しとされた」、つまり、「造られたこの光は良い」とおっしゃって、そして世界の創造が始まりました。光が生まれたことで、闇から光へ、また闇から光へと繰り返すようになり、一日また一日と時間が数えられるようになりました。一日目に光を造られた神は、二日目には上の水と下の水を分けられ、空間ができます。神はそれも御覧になって良しとされました。そのように毎日、闇から光へ、また闇から光へと一日が過ぎ、神はその日の御業を終えられる度に、その日に造られたものを御覧になり、「これは良い」とおっしゃって下さいます。そのようにして天地が造られていくのです。
 そして人間が造られた6日目には、創世記1章の最後、31節に「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である」と述べられています。神は6日目に人間をお造りになり、そこで造られたすべてのものを御覧になって「良かった」とおっしゃって、6日目が終えられるのです。そのようにして天地万物は完成され、そして第7の日に神は、御自分の仕事を離れて安息されました。神は喜びを憶えられ、造られた者たち全てと共に働きの手を休め、そしてその喜びを共にするようにと招いてくださる、それが安息の日です。
 そのように天地創造は、そこに人間が生きる世界を神が一つ一つお造りになりながら、「これは良い、これは良い」と言って下さる、そういうリズムの下に持ち運ばれてゆくのですが、その神の御業が2章のところまで来て、一つのつまずきにぶつかります。それが先ほどの18節です。今まで「これは良い」と言われ喜ばれていたリズムの中に、初めて「これは良くない」という神の御声が聞かれます。一体何が良くないのでしょうか。「人が独りでいるのは良くない」と言われるのです。造られた最初の人アダムが造られたままでポツネンと一人で、孤独でいる、これは良くないと神はおっしゃいます。
 孤独なアダムに、神はもっと周りに合わせるようにとか、楽しくもないのに楽しそうにするようにと、お求めにはなりません。そうではなくて、「彼に合う助ける者を造ろう」とおっしゃってくださいます。神は人間を、孤独に生き死んでゆく者としてお造りになったのではなく、交わりを持ち喜びを皆で共に分かち合いながら、その人自身も周りを支えながら生きる、そういう者としてお造りになったことを、聖書は伝えています。私たちは一人の例外もなく、孤独に生きて良い人はいません。私たちは皆、神に覚えられ、交わりの中で支えられ、生きるようにと招かれています。

 ただ、思い違いをしてはならないことがあります。神はこの「助ける者」との人間関係を完全に対等の関係としてお与えになっておられます。アダムの場合には、後から造られた女性が、最初の人アダムを助ける者だからといって、アダムが主であり、女性が僕であるというのではありません。女性がアダムのあばら骨を抜き取って造られたからといって、女性が部分的なものでアダムに従属するというのでもありません。その証拠に創世記2章24節には、「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」と述べられています。妻が夫に吸収されるのではないのです。完全に対等な者として「二人は一体となる」、2人の人間が一つに合わされ、一つになります。結婚の前には、男性も女性も、お互いに「一人者」として生きています。それが結婚によって、「2人で一つになる」のです。結婚後はもはや、相手を抜きにして自分がいるのではありません。お互いが独立したパートナー同士です。一方が他方を支配するのでも、一方が他方に寄生するのでもありません。お互いに相手を支える者として生きることによって、神が与えてくださった隣人を助けて生きる者へと双方がなってゆくのです。

 このことはしかし、対等だからといって、男性と女性の区別をなくすことではありません。男性と女性には、それぞれに相手とは違う身体的な特徴や賜物や可能性が備わっています。互いに対等なのだと言って、体力に勝る側、口では優位に立つ側、その他の点でも相手より優位に立つ者が、自分に負ける側に対して自分と同じようになれと求めるならば、そういう交わりはきっと破壊してしまうでしょう。お互いの違いを認め、そのことを受け止め、互いに責任を負い合いながら、相手を支え、伸ばすように努め、一緒に生きていくようでなければなりません。
 即ち、自分が相手に無いものを持っているならば、相手のために役立てることが必要です。そうすることで家庭が支えられていくのではないでしょうか。夫婦の間柄は、両性の努力によって支えられ、育てられていくのではないかと思います。
 いずれにしても、「二人が一体となる」ことが結婚であり、そこに特別な深い意味のあることが聖書に教えられていることを忘れてはならないでしょう。今日、せっかく結婚しても、上手くゆかないことが増えていると言われます。様々な原因があり一概には申せませんが、しかし結婚した後も、一つに合わされた筈の2人が、なお自分自身だけを追求するような場合には、その家庭は上手く育ってゆけなくなるように思います。一つの家庭を共に歩んでいるはずなのに、各々が自分の満足、自分の幸福、自分の欲求充足、自分が肯定されることばかりを求めてしまう。自分の都合や自分の願いばかりを見て、パートナーがそこに居ることを忘れ、このパートナーとの暮らしによって自分たちが一つのものに変えられてゆくという根本的なことに気づかずに過ごす。するとそこでは、形の上では結婚していても、実際には2人の別々な個人がいるだけということになり、しばらくの時を経て別れ別れになってしまいます。お互いが本当の意味で、「相手の隣人になる」という変化を経験しないままに終わってしまうのです。

 結婚の事柄をめぐって、「二人が一体となる」ことの重要性は、エフェソの信徒への手紙の中で殊更に強調されています。5章31節から33節に「『それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。』この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい」とあります。ここでは、先ほどの創世記の言葉が引用された後に、2人が合わされて一つの家庭となることが、キリストと教会の間柄に重なるものであると教えられています。
 丁度、先週の礼拝後に、教会全体研修会が開かれて、「教会の交わり」という主題について考え、「キリストが教会の頭であり、教会はキリストの体であって、両者は別々ではない。切り離せないものだ」ということを少しだけ申し上げました。キリストが教会を愛し、そのために御自身を献げてくださったという不思議な交わりが、キリストと教会の間にあります。キリストが教会の頭であり、教会はキリストを離れては立ち得ないのです。
 けれども、最初の教会の群れに招かれた弟子たちは、決してそのようではありませんでした。弟子たちは皆、自分のことがよく分かっておらず、自分ではどこまでも主イエスに従うと言い張っていましたが、しかし肝心なところでは、主イエスを見限り、逃げ散ってしまいました。では教会はそこで崩壊してしまったのでしょうか。そうではありませんでした。頭である主イエスが、十字架で死に復活なさった後で、散り散りバラバラになっていた弟子たちを赦し、もう一度交わりの中に招いてくださって、地上の教会は始まっていきました。「二人が一体になる」ことは、そういうキリストと教会の間柄に似ているのだと教えられています。
 弟子たちが主イエスを見捨ててしまったという事実は、私たちが互いに結び合うということにおいて、人間的な温かさ、ヒューマニズムでは実現しづらいことを表しているのかも知れせん。私たちは、状況が良ければいろいろな人とお付き合いをして一緒に生きようとするでしょう。けれども、私たちはなかなか交わりの中に生き続けることができないのです。自分の調子が悪くなれば、交わりから逃げてしまうことはよくあることです。
 教会が2000年間この地上に立ち続けているのは、そこに集まっていた無数の人間が互いに温かく心を通い合わせていたから、ということではないでしょう。そうではなく、まさに教会はキリストの体であって、頭であるキリストが人間を赦し、招いてくださる営みが続いているからに他なりません。このようなことは、他のどの共同体にもありません。人間の努力によって営まれる共同体は、必ず限界を迎えるのです。

 「主イエスがおられる」ことを抜きにするならば、家庭の交わりは、形としては家庭であっても、心のこもらない希薄なものとなり、お互いが空気のようなものと言い合うまでになってしまうかもしれません。
 しかしキリスト者にとっての家庭は、与えられている家庭と共に主イエスが歩んでくださる生活です。主が共に歩んでくださるが故に、主イエス・キリストの十字架の赦しの下に置かれている生活なのです。家庭は、主イエス・キリストの十字架によって罪を赦された人が、赦され新しくされた者として相手を信頼し、愛して支える、主にある自由を生きる生活となります。

 このような生活は、たとえ結婚した相手がキリスト者ではなく神を知らない人であっても、主に支えられて生きてゆける生活です。使徒パウロがコリント教会に宛てて書き送った第一の手紙7章14節に「なぜなら、信者でない夫は、信者である妻のゆえに聖なる者とされ、信者でない妻は、信者である夫のゆえに聖なる者とされているからです。そうでなければ、あなたがたの子供たちは汚れていることになりますが、実際には聖なる者です」と述べられています。そしてこの先には、「しかし、信者でない相手が離れていくなら、去るにまかせなさい。こうした場合に信者は、夫であろうと妻であろうと、結婚に縛られてはいません」と続いています。
 キリスト者が主イエス・キリストの十字架によって罪を赦され、新しい命を生きることができるようにされ、そして自ら隣人となって生きていくという生活は、相手が主イエス・キリストの十字架を知らなくても生きてゆくことができる生活だと言われています。なぜならば、その間柄を支えてくださるのは主イエス・キリストだからです。主イエスが一人ひとりの生活と共に歩んでくださる、あるいは不運にして結婚生活から離されてしまう時にも、主イエスが共に歩んでくださる生活の中を生きるようにと招かれてゆくことが、ここに語られています。

 結婚は、人が孤独にならないために神からの贈り物として、最初の人アダムに与えられた古い制度でした。そしてそれは、私たちにまで引き継がれている制度であって、死んで形骸化した制度なのではなく、今も私たちを支えてくれる贈り物として与えられている制度です。そういう生活の中で、私たちは真心から相手を配慮し、相手に仕えて生きるようにされていきます。この信頼関係を自ら破壊することは誰にも許されていません。ですから、「殺してはならない」という言葉に続いて、この「姦淫してはならない」という言葉が第二の言葉として語られています。
 しかし同時に、2人の人が本当に一つになるためには、お互いに赦し合うことが必要であることが聖書から聞こえてきます。十字架の主イエスが私たちの罪を赦してくださっています。「主イエスによって罪を赦されたあなたは、孤独ではない。新しい人として生きて良い」と呼びかけられていることを覚えたいと思います。
 そして私たちは、それぞれに、今結婚している人も、一人でいる人も、ここでそれぞれに生き、それぞれに与えられている人の隣人となるようにと招かれています。
 結婚に代表される真実な交わりを生きるようにと、私たち一人ひとりが主の憐れみと赦しの下に置かれていることを憶えたいのです。お祈りを捧げましょう。

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