聖書のみことば
2023年8月
  8月6日 8月13日 8月20日 8月27日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

8月6日主日礼拝音声

 主の安息
2023年8月第1主日礼拝 8月6日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/出エジプト記 第20章8〜11節

<8節>安息日を心に留め、これを聖別せよ。<9節>六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、<10節>七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。<11節>六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。

 ただ今、出エジプト記20章8節から11節までを、ご一緒にお聞きしました。8節に「安息日を心に留め、これを聖別せよ」とあります。まことに簡潔な言い方で「安息日を覚える」ということが語られています。
 しかし、「安息日を覚える」という十戒のこの第4番目の戒めについては、少し注意深く聞く必要があるかも知れません。というのも、この言葉には、十戒の全体を封印するような意味合いが与えられているからです。十戒を神が人間との間に立てて下さった一つの契約のようなものと考えると、この「安息日を覚えて生活する」ということは、契約書に押されている封印のような役目を果たしているのです。地上の人間同士の契約書でもそうですが、契約書が何枚かにわたるような場合、最終的にその契約書全体がバラバラになってしまわないように、製本テープのようなもので全ての契約書のページをまとめて背表紙を作り、そしてこれが契約の全体であるということを示すために封印を押します。封印は、そこに押されることで、「ここに確かに一つの契約が成立っていて、しかも、ここに綴じられているものがその契約の全体である」ということを証しする役割があります。「安息日を覚え、礼拝し、生活する」ということにも、そういう証印を押すような意味合いがあるのです。
 このことは、この十戒の記事を先の方まで続けて読んでゆくと分かることです。私たちはモーセの十戒を考える時、大変狭く、今日聞いている出エジプト記20章1節から17節までの言葉が十戒の言葉だと考えてしまいがちです。しかし実際には、神がモーセに与えてくださった約束は20章だけではありません。20章はまだ、ほんの始まりに過ぎないのです。神が御自身の民であるイスラエルに十戒を与えて下さったという出来事は、この20章から始まって31章の終わりまで続きます。実に12章もの紙数が費やされ、神の約束の全体が語られます。
 そしてその最後、31章18節のところで、神が2枚の石の板をモーセに手渡してくださって、十戒が授与されるのですが、注目したいのはその直前のところ、31章16節から18節の言葉です。「イスラエルの人々は安息日を守り、それを代々にわたって永遠の契約としなさい。これは、永遠にわたしとイスラエルの人々との間のしるしである。主は六日の間に天地を創造し、七日目に御業をやめて憩われたからである。主はシナイ山でモーセと語り終えられたとき、二枚の掟の板、すなわち、神の指で記された石の板をモーセにお授けになった」とあります。これが、十戒がモーセに手渡された場面ですが、その一番最後に、第4番目の戒めの言葉だけが、もう一度語りかけられているのです。ですからこの第4番目の言葉は、十戒全体の中でも、ある特別な役割と意味を持っています。イスラエルの人々が確かに神の約束の下に保護されて生きることが許されていることを、この第4番目の戒めを守ることを通して証しするような役割を与えられているのです。

 私たちは今日のこの礼拝を憶え、体調を整えて集っています。日頃なかなか礼拝に行けないことに苦痛を覚えておられる方もあるでしょう。私たちは、礼拝に行けないと何か気になるのですが、それは、礼拝は行かなくてはいけない日だからではありません。そうではなくて、この日が私たちにとっての安息の日であって、私たちがこの地上を生きていく生活全体を一つながりのものとして神が御前に置いてくださっているからです。「間違いなく、わたしは神の民の一員とされている。神のものなのだ」ということをはっきりと証拠立ててくれる時、それがこの礼拝の時です。ですから、行かなくてはならないから行くのではなく、行かずにいると、神の民としての自分自身がほころんでしまうかもしれないと思う気持ち悪さがあるので、「どうしても礼拝に行きたい」という思いにさせられるのです。そして礼拝の中で、私たちはくり返し、「あなたはわたしのものだ」という証印を押され、神から語りかけられながら、日常を生活していきます。

 ところで、今日の箇所、そして十戒の最後に「イスラエルの人々は安息日を守り、それを代々にわたって永遠の契約としなさい」と勧められているのですが、この「安息日を守る」ということについて、私たちはこれを、私たち人間の側の努力義務であると勘違いして受け取る場合があります。そういう誤解が生じるところでは、私たちが礼拝に招かれ、「あなたは神のものだ」と証印を押され、神の前に生きていくという喜びが後ろの方に退いてしまって、「礼拝厳守」というような、自分の行いが前面に出てしまう、いかにも人間臭いスローガンが強調されるようなことになります。
 「安息日を守る、礼拝をささげる」ことについて、元々の十戒の言葉に立ち戻って考えてみたいのです。今日の箇所である出エジプト記20章8節には、「安息日を心に留め、これを聖別せよ」と語られています。「安息日を心に留める」ということは、私たちが普段から行っていることです。「主の日なので今日は礼拝に行こう」と考えて主日礼拝に集まったり、「主の日だけれど、今日は体調が悪く礼拝の場所まで行けない」あるいは「今日は仕事を休むことができないので礼拝に行けない」と、心に痛みを憶えたりします。幸いにも礼拝に参加できる場合と、妨げられて辛い思いをする場合と両方あると思いますが、それはいずれも「安息日を心に留めて生活している人」の姿です。私たちはおそらく、安息日を各々の心に留めることについては、そうしているのです。
 ところで、第4番目の言葉にはその先があって、「これを聖別せよ」と言われます。「聖別する」というのは、どうすることでしょうか。「聖別する」という言葉は日本語の辞書には載っていませんが、聖書辞典を開くと「人間や品物を神への奉仕、また礼拝のために特別により分けること」という説明がされています。神のものとしてのしるしをつけて、より分けることが聖別です。
 けれども、安息日というのは日にちであって、人間でも品物でもありませんから、その日にしるしをつけることはできません。すると、「人間にこの日を聖別するなどということができるのか」と疑問が湧いてきます。私たちは明日どうしようかと、自分なりに計画を立てることはできますが、実際にその日がどうなるかはその日になってみないと分からないようなところがあります。そうすると、私たちが自分で聖別すると言っても、それは人間の手を超えているのです。安息日を聖別する、その日の礼拝に集まってくる人々を聖別する主体は、実は私たち人間ではないということになるのではないでしょうか。安息日厳守、礼拝厳守とか、主の日を聖別するとか言ってみても、それは私たちの願いであったとしても、自分でそれを決めることは私たち人間にできることではないことを知らなくてはなりません。
 人間や品物やあるいは日にちを聖別することは、厳密に言うなら、神御自身にしかできないことです。神が私たち人間の名を一人ひとり呼んで下さり、「あなたをわたしのものとする」とおっしゃって、しるしをつけて下さるところで、私たちは神のものとして聖別された者になります。「聖別する」ということは、私たちが自分で自分にしるしをつけて「わたしは清らかだ」と言い張ることではないのです。

 しかしそうすると、第4番目の言葉は一体どういうことを言い表していることになるのでしょうか。「安息日を心に留め、これを聖別せよ」と神はおっしゃいます。けれども、私たちが自分で自分を聖別できないのだとしたら、「聖別して神のものになる」ということは、私たちが決めることではなく、神御自身にしかできないことです。するとここは、「神さまが私たちを聖別してくださっていることを信じ、それを心に留めて生きる」ということになるのではないでしょうか。「あなたは安息日の礼拝を心に留めなさい。あなたが聖別された者として生きていくために」と、ここで神は語っておられるのです。

 しかしそう考えますと、やはりここでも問いが生まれるに違いありません。神が私たちを御自身のものとして聖別してくださるとは、実際のところ、どのようなことなのでしょうか。私たちが神のものとされるのは、安息日だけ、日曜日だけなのでしょうか。そうではありません。毎日毎日、私たちの人生全体にわたって言われていることではないかと思います。それは今日の箇所の9節の言葉にも語られています。「六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし」とあります。
 安息日と言うとき、私たちはこれを礼拝の日、一日限りの事柄として受け止めがちです。しかし神はそうおっしゃっていません。安息日に休むということは、逆から言うと安息日以外の6日間は働くということです。9節に言われているとおり、安息日以外の6日間は、「何であれあなたの仕事をする、労働の日」なのです。神は安息日を定められているように、他の6日間を労働の日として、御自身の民に与えておられます。
 そしてこういう聖書の言い方は、当時の中近東の世界にあっては非常に刺徴的な物言でした。日本ではなかなか分からないことだと思いますが、大変暑い場所に暮らす中近東の人々は、今日でもそうですが、あまり働きません。暑い中で労働することは自由人にふさわしいことではないと思われているからです。汗水流して働くのは、当時の状況であれば女性や奴隷たちの役割でした。働くことへのこうした姿勢の違いは、今日でもアラブの人たちとイスラエルの人たちとの衝突の原因になります。アラブの人たちからすると、働くようにと勧められ、とにかく働くイスラエルの人々は、脅威に思えるのです。

 従って、今日のこの言葉は、安息日、休みの日だけの話をしているのではなく、「それぞれに与えられた持ち場立場で、与えられている役目を果たす。労働する」ということもまた、神から私たちに贈り物として与えられていることを伝えています。
 そもそもこの世界は、神が働いて下さったことで造られました。しかし神はそれだけではなく、私たち人間の働きもまた、神の御働き、創造とこの世界を持ち運んでくださる神の御業の中に組み込み、御自身の御業と一つに結び合わせてくださっているのです。11節にそういう神の働きのことが語られています。「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」とあります。ここに「安息日の聖別」ということが語られます。「神さまが6日の間が働いておられる。そして7日目に休まれ、その日を安息日として聖別してくださった。だからあなたがたも、安息日を聖別するのだ」と語られていることが分かります。否、分かるというのは理屈として分かるだけです。今述べたことには何かピンと来ないところがあるだろうと思います。
 そのピンと来ないところは何かと考えると、次のように言えるかも知れません。ここにはまず、神が礼拝の時だけの神ではないことが教えられています。安息日の礼拝の時だけでなく、週日、ウイークデーと呼ばれる6日間もまた、私たちは神のものとして選び取られ、働いて生活するのだと教えられています。礼拝の時だけでなく、6日の労働の時も、神からの祝福の時であり、働くことを通じて私たちは、神がこの世界をお造りになり、お支え下さっている、その御業にお仕えするのだと教えられています。
 ところがまさにそのところが、私たちの生活感覚としっくり来ないところなのです。
 もし6日間の労働の時が神の創造の御業と繋がりがあって、神がこの世界を造り、支え、豊かにしてくださるというのなら、私たちの日常生活はもう少し喜びにあふれていても良いのではないでしょうか。創世記1章の天地創造の箇所では、神が一日目、二日目と、この世界を造ってゆかれます。そして、その一日分の働きを終える度に、その日に生み出されたものを御覧になって「これは良かった」とおっしゃいます。毎日毎日、神は御自身の働いた結果を御覧になって、それを良しとされたのです。そういうリズムの中で、この世界が創造されたのだと聖書は語っています。
 もし、神のそのような創造の業と私たちの毎日の労働が繋がっているのであれば、私たちも一日の終わりに、その日の働きを振り返って、「今日は良かった」と満足しても良いのではないでしょうか。しかし、実際にはそんなことは滅多にありません。一日の仕事を終えて、私たちに残るのは満足感であるよりも疲労であり、嘆きであり、苦悩であったりします。今の仕事を離れてもよいと言われれば、本心では離れてしまいたいと思いながら暮らしている方もいらっしゃるのではないでしょうか。しかし収入がなくては暮らせないし、自分が抜けて周囲の人々に迷惑もかけられないと思って、嫌々ながらも自分を憂い立たせるようにして日々の生活に向かうということもあるのではないでしょうか。
 「今日の人間の労働は疎外された労働である」と語った哲学者がいましたが、まさに私たちの労働の日々は、神の喜びに満ちているというよりは、人間の罪に暗く彩られ、本来あるべき姿から遠く離れてしまっていると言わざるを得ないのです。私たちの6日間は、とても神に聖別されている者の日々とは言えないような有様です。
 ですから、安息日だけでなく、6日の働きの日々もまた神からの贈り物なのだと言われても、私たちにはピンと来なくなっているのです。

 しかし私たちの生活がそうだと思い当たるのであれば、私たちはもう一度、聖書の光の下に、ウイークデーの自分自身を置いてみることが大事ではないでしょうか。つまり、働き詰めに働いて疲れきり、がんじがらめに縛られたような有様でよいのだろうかと振り返ることが大事ではないでしょうか。私たちはともすると、平素の生活に忙殺されてしまい、神のことを忘れ果てて仕事をしがちです。そしてその結果、一日の終わりには疲労ばかりが重くのしかかるようになります。
 けれども私たちは、神が私たちの6日の労働の日にも共に居て下さり、私たちの働きを応援して下さろうとしておられることを憶えるべきではないでしょうか。どんな仕事であれ、どんなに忙しくしても、「それでも今日、わたしは神さまに忘れられてはいない。忙しいこの時も神さまが側近くに在して下さる」という確信を持って、毎日の生活を過ごしていくことが良いのではないでしょうか。
 そしてこのことが、まさに20章8節から10節に語られている事柄に繋がることであるのです。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である」。神は言葉を語らない家畜にすら、御心を向けてくださっています。そして、命を与えられて生きている者が、日々を豊かに意味あるように生きることができるように応援してくださるのです。

 もちろん、気持ち良く働くためには、休息が必要です。私たちは機械の部品ではありません。起きて活動する時ばかりではなく、眠って休息する時が必要です。しかし安息日の休息というのは、そのような肉体的な休息を得る時なのでしょうか。あるいは心を休ませるときなのでしょうか。ひょっとすると、神には別のお考えがあるのかも知れません。
 ここには、「神さまは6日間で天と地とそこにあるすべてのものをお造りになり、7日目に休まれた。だからあなたがたもこの日を安息の日とするのだ」と言われています。けれども、神が安息するというのは、どういうことなのでしょうか。神も私たち人間と同じように、「疲れたので休む」とおっしゃっているのでしょうか。詩編121編4節には、「見よ、イスラエルを見守る方は まどろむことなく、眠ることもない」と言われています。
 神は休息を必要とする方ではありません。従って神が7日目に休まれたというのは、私たちが普通に考える体や心の休息とは別の、神の事柄です。神の休息は、言うなれば完成に向けての休息です。私たちは「神が6日で世界をお造りになった」と聞かされると、一週間のうち、一日を余らせたように思うかもしれません。あるいは予備の日として一日があったと思うかも知れません。
 しかしそうではありません。天地創造の7日目について、創世紀2章2節には、「第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった」とあります。神がこの世界をお造りになったのは6日間ですが、しかし6日で完成したのではありません。「7日目に完成された」と言われています。7日目に、神は御自身の御働き、創造の業に一息を入れ、そこで造られた者たちを御覧になり、「本当にこれは良かった」という喜びで満たしてくださるのです。神がこの世界全体を喜んでくださること、そこで完成なのです。私たちがここにいるから完成なのではありません。神が喜んでくださっている喜びに私たちが招かれ、皆で一緒に「ここに生かされていることは嬉しい。感謝だ」と喜んで、それで完成なのです。神はそのように、この世界を造ろうとしておられるのです。

 私たちは毎週礼拝に来ますが、私たちは、一人ひとりを造ってくださった神が私たちを心から喜んでくださっている、その神の喜びを共に過ごすようにと、ここに招かれているのです。神が御自身のお造りになったものをすべて御覧になり、そのすべてを本当に良いとおっしゃって喜んで下さる、その喜びの中に私たちも招き入れられ、ここで一緒に神の喜びを喜ぶようにと招かれています。そしてその神が、私たちの残りの6日間の働きにも伴って下さることを、この礼拝の場で新たに知らせてくださるのです。

 ですから今日の礼拝は、ここだけで完結するのではありません。このところから、私たちは神に喜ばれ、また応援され支えられている者として、一週間の歩みへと遣わされてゆきます。何であれ私たちそれぞれに与えられている働きをして、神の御業に仕える者とされます。そしてまた再び、私たちは、神の喜びの中へと招かれていくことを覚えたいのです。お祈りを捧げましょう。

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