ただ今、出エジプト記20章12節を、ご一緒にお聞きしました。
12節に「あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる」とあります。「父と母を敬うように」という、大変基本的で当たり前と感じられることが述べられています。このような戒めは聖書独自のものではなく、世の東西を問わず、広く語られる戒めであるようにも思います。
ところがある人々は、この言葉は本当に神から頂いた十戒の中にあったのだろうかと疑います。信じ難いことですが、そういう人々がいて、「もともとモーセが神から二枚の掟の板を頂いた時、この言葉は記されていなかっただろう。しかし後になって、周囲の人々が父と母を敬うことを大事だと言っているのを聞いて、イスラエルの人たちも自分たちの掟の中に、この言葉を書き込んだのだろう」と言います。何故そのように考える人たちがいるのかと言うと、この掟は比較的若い人たちだけに当てはまることで、老若男女すべての人に当てはまるものではないからだと説明されます。「十戒というのは、年輩の人だろうが若い人だろうが、すべての人に当てはまる根源的なことが教えられているものだ。そう考えると、十戒のこの第5番目の戒めは一部の人にしか当てはまらない掟なので、もともとの十戒にはなかった筈だ」と主張するのです。
確かに今日の私たちの生活環境を元にして考えると、そう言えそうにも思います。けれども、旧約時代のイスラエルの人たちがこの言葉を聞いていたことを考えなければなりません。今日では核家族が当たり前で祖父母と孫が同居していれば大家族であるように言われることもあるのですが、旧約時代のイスラエルの人たちの家族単位は、それよりもはるかに大きく、族長の下に一族が共に生活する、氏族が一つの単位でした。今日の言い方で言えば、一家族と言うより親族全体と呼べるような大勢の人々が、それぞれ一つの地域にまとまっていて、「あそこはマナセ一族の土地、そこはエフライム一族の土地」とか互いに呼び合いながら生活していた、そういう中で、この第5番目の言葉が書かれています。殆どすべての人は父であり母であると共に、子であり兄弟姉妹でもある、そういう大きな家族の拡がりの中で、この言葉は語られているのです。
この第5番目の言葉では、「父母を敬え」と言われた後に、特に土地のことに触れられていることが印象的に聞こえます。「あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる」と言われています。ここで語られる土地とは、神が各部族に住む場所として与えてくださっている土地のことです。個人や各家族が自分のための土地を長く所有するということではなくて、イスラエルの12部族にそれぞれ住むべき土地が与えられ、その先祖伝来の土地に氏族全体で住むという中で語られていることです。
「父母を敬う」ということは、直接に血のつながっている両親を敬うことは勿論ですが、その父母の大元になっている族長を敬うことや、更には一つの氏族を代表する立場に立つ人々、自分たちの先祖とその先祖を与えてくださった神を敬うということにまで広がっていきます。すべての人が神を仰ぎながら、自分たちが一つながりの中で生かされていることを憶えるようにされている、それがこの第5番目の戒めです。
ですから、聖書の中で父であり母であるということは、ただ小さな家庭の中でそうであるということ以上に、天上にあって永遠から父でいらっしゃる方の、その御名を照り返すような存在としての役割が与えられています。このことは、旧約聖書に留まらず新約聖書に至るまで語られています。エフェソの信徒への手紙3章15節には「御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています」とあります。神が父としてすべての者の上にいてくださり、そこから一つ一つの家族が場所を与えられ、それぞれに名を呼ばれるようになっていると言われています。まさに父であり母であるということは、天上のまことの御父を指し示すようなこととして、聖書の中で大変重んじられ、特別な輝きが与えられているのです。
しかし、聖書の中の事情がそのようだとすれば、父と母が敬われなくてはならないと言われていることことは、その父であり母である個人に意味があるというのではなくて、神に一族としてつながってゆく、その大きなつながりの中で意味があるということになるでしょう。別に言うならば、一つの氏族という大きな群に属する人々が、その群れ全体として、皆が神の御国の世継ぎとされている、神から与えられている大きな働きの中で一人一人に役割や立場が与えられているということになります。そして、そうであればこそ聖書の中では、系図というものが殊の外大事に扱われることになります。
聖書を読んでいて系図が出てきますと、知らないカタカナ言葉が多いために、ややもするとその箇所を読み飛ばしがちになります。しかし、実はその系図において語られていることは、おびただしい数の人々が、あるいは父として、あるいは母として、あるいは子として、それぞれの役割を与えられ、その役割を順々に担い合いながら神の御国をこの地上に持ち運び、先へ先へと進んで行ったという事実です。聖書の系図は、沢山の男女が登場する血のつながり、血脈、人間のつながりを表すだけではありません。そこには、神が御自身の名を置いてくださり御国を受け継がせる、そういう人々が、その具体的な人生を通して神の祝福を受け継いで行ったことが語られていることを忘れてはならないのです。
もちろんそうは言っても、系図に名前を記されているのは歴史を生きた生身の人間の男女であり、天使たちではありません。数多くの男性と女性が皆その人なりの苦労を重ね、問題を抱えながら生きた足跡が系図の名となって残されています。人生の中で経験する苦難や悩み、嘆きは、ただそれだけで終わるものではなく、人間たちの具体的な歩みを通して、時に様々に深刻な状況や問題を抱えながらも、神の祝福がその上に受け継がれていきます。
例えば、私たち人間のすべてのつながりにそういう役割、働きがあることが殊にはっきりと示されている系図が、新約聖書の一番最初、マタイによる福音書に記される主イエスの系図です。1章1節に「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」と言われていて、アブラハムから主イエスまでを持ち運ばれた一つの歴史の足跡が記されています。
系図の先頭には信仰の父と呼ばれるアブラハムがいます。このアブラハムは、元々は「アブラム」という名前でしたが、神から「アブラハム」という新たな名前を頂いて、その名で知られるようになりました。「アブラハム」という名前は「多くの国民の父」という意味を持つ名前です。そしてその名前のとおり、アブラハムからは「天の星のように、海辺の砂のように」、無数の子孫が生まれました。その人々がひとまとまりになって「イスラエルの子」と呼ばれるような大きな群れを形づくります。その中には、将来、その家系から救い主メシアが誕生することになると約束されたダビデ王も含まれています。神がアブラハムに与えて下さった祝福は、ダビデ、そして来たるべき救い主である主イエス・キリストに受け継がれてきたことを、マタイによる福音書の系図は表しているのです。
この系図には、よく知られていることですが男性だけではなく、4人の女性の名前が含まれています。タマル、ラハブ、バトシェバ、そして主イエスの母とされ剣で心を刺し貫かれる辛い経験をしたマリアの4名です。この4人の女性の名は、時に生々しい出来事が起こる人間の歴史を通しても、それでもなお神の祝福が持ち運ばれていくことを表す、そういう役目を担うものとして記されています。
マタイによる福音書の系図は、主イエスの誕生によって、いったん閉じられています。神の御国は、アブラハムから始まって主イエスまでは一つながりの血脈を通じて担われて来たのですが、主イエスの登場によって、そこから後は新しい形で受け継がれるようになったためです。主イエス・キリストについては、毎週教会で説教されていることですが、30歳頃に十字架にお掛かりになり、地上の御生涯を閉じられました。主イエスは、血のつながりの上では子孫を残されませんでした。従って、マタイ福音書の系図で、主イエスのお名前が最後に記されているのは偶然なのではなく、実際にそこで血のつながりが途絶えているのです。人間の血族という意味では、それ以上先へは続いて行きません。
しかしそれならば、アブラハム以来、脈々と受け継がれてきた神の御国、神の祝福は、主イエスの死によって途絶え、断絶してしまったのでしょうか。そうではありません。アブラハムから主イエスのところまで、地上の血のつながりによって受け継がれてきた神の御国は、主イエスのところからは新たな仕方で受け継がれるようになります。これまでは、神の御国は「アブラハムの子ら」とか「イスラエルの人々」と呼ばれる一定の血のつながりの壁を乗り越えることができませんでした。アブラハムが「多くの国民の父」という名前を与えられながらも、主イエスまでのつながりでは、神の御国とその御支配は、多くの国民ではなく「イスラエル」という一つの血脈の中に留まっていたのでした。
ところが、新約聖書の系図の最後に名前が記される主イエス、嬰児の誕生によって、もはや神の御国は血のつながりによって持ち運ばれるのではなくなります。狭いイスラエルの血族の垣根が乗り越えられ、そこから後は、主イエスの十字架の御業と復活を信じる人々によって持ち運ばれるように変えられてゆきます。
主イエス・キリストは御自身の肉において、すなわち地上の御生涯と、そこで行ってくださった御業によって、イスラエルと異邦人の間にそびえ立っていた隔ての壁を取り壊し、取り除いて下さいました。主イエス・キリストより後は、イスラエルという血筋によるだけではなく、どのような出自の人でも、神の御国を受け止めて生きることができるようにされました。主イエスより後には、血筋によらず、主を信じる信仰によって神の御国が受け継がれ、更に先へと進んでゆくようにされたのです。血のつながりによる祝福のリレーは、マタイによる福音書にあるように、主イエスのところまでで終わりとなり、そこから先は、信仰によるつながりによって持ち運ばれるようにされていきます。
ここに集められている私たちも、お互いに血のつながりはなくても、この教会の群れ全体中で、「主イエスを信じて生きる」ということを通して、皆で神の御国を受け継ぎ、祝福を与えられ、神の慈しみと憐れみとを受けながら新しく生きてゆくことができるのです。そういう意味で、私たちには血のつながりはなくても、しかし神から御覧になれば、アブラハムから始まっている非常に大きな神の民の流れの中で、私たちもまた神の御国を受け継ぐ者とされていることを知らなければなりません。そしてその中で、私たちは互いに父であり、母であり、子であり、また兄弟姉妹であることを知らねばなりません。
このことは、主イエス御自身が、マルコによる福音書10章29節30節で「イエスは言われた。『はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける』」と確かに約束して下さっていることです。これは、血のつながりだけを唯一のものと考えそれを絶対視するユダヤの人々に対して、主イエスが教えられた警告の言葉です。主イエス・キリストによって、私たちは、地上の血肉のつながりをこえた、更に広い人と人との交わりを与えられ、その中に抱かれていることを教えられています。
そこではもはや、私たちに血のつながった者がいないという悲しみや嘆きは絶対のものではなくなります。なぜなら、私たちには信仰によって、主イエスを仲立ちとする大きな神の家の交わりが現実に与えられているからです。私たちはこの教会での具体的な教会生活の交わりを通して、お互いに神を讃え、また神の慈しみと憐れみを受けて生きる「御国の民」としての生活を与えられていきます。
そしてそれは、この世の血族のつながりのように破れたものではなく、主イエスがお互いの仲立ちとなってくださり皆で生きることができる、そのような具体的な生活が与えられていくものなのです。
日本キリスト教団の教会が他の福音派の教会に比べて若い人々を育てることが下手であり、そのために将来に不安を憶えることが多いと言われることがあります。そういうことがあるとすれば、もしかするとそれは、教会の交わりが人間同士の交わりのように思われてしまっていて、私たちの生活の上に神の御国が持ち運ばれているという意識が希薄になっているためかもしれません。教会の交わりが神の御国の祝福を受け継ぐものだということが忘れられ、人間的な近しさや親しみばかりが大事に考えられるところでは、お互い同士が良い人として交わり、結びつこうとします。すると、不思議なことが起こります。人間がお互いに自分の力で結び合おうと考え、努力すると、その結果、交わりが上手くいかなくなるのです。とても残念なことですが、それは、私たちが元々自分の中に、隣人に対する険しさや自分中心の罪の思いを抜き難く持っている結果です。それで、人のそのような罪、弱さを忘れたり認めないまま、自分たち同士で交わろうとする時、そこにはどうしようもなく破れが生じてしまうことになるのです。
このような辛い破れが人間の間にあることを、聖書は包み隠さず語ります。たとえば系図の先頭にいたアブラハムは、創世記の記事によりますと、一緒に祝福を受け継ぐ最初の人となるはずの自分の妻であるサラを、2度までも土地の有力者の王宮に差し出すという過ちを犯しました。その度に、神が不思議な仕方でサラをアブラハムのもとに返してくださったので、祝福を受け継ぐことができましたが、アブラハムにはそのような弱さがありました。そのアブラハムとサラの間に生まれた子イサクは二人の息子を持つのですが、イサクは長男のエサウを偏って愛しました。その結果、次男のヤコブに裏切られ、出し抜かれて、エサウに譲ろうと考えていた長子の祝福をすべて、ヤコブに与えてしまうことになるのです。系図の二番目にもそのような破れがありました。そして系図の三番目となるヤコブは、二人いた妻のうち、最愛の妻ラケルの産んだ息子ヨセフを溺愛したため、息子たちの間に諍いが生じ、ヨセフは人買いの手に落ちて奴隷としてエジプトに売られてしまいました。ヤコブはそのことを知らされぬまま、長く辛い人生を送りました。キリストの系図の先頭に名を連ねている3人の生涯を思い起こすだけでも、そのような人間関係の破れがあることを思い起こさせられるのです。
人間のつながりと結びつきは、人間が良い者であるから守られていくのではありません。そうではなくて、私たちの交わりは神の憐れみと慈しみの下に守られ、時には大変際どく破れる寸前まで行くことがあっても、しかし、御業の前に身を低くすることによってのみ、神の祝福が持ち運ばれるのであり、御国の民はそのようにして先へ先へと進んで行くことを、聖書は語ってくれるのです。
聖書の中に語られている、このように残念な出来事は、時には私たちの間にも起こることがあります。そしてそのようなことが起こるところでは、本来は天上の神の輝きを照り返す麗しいものとして与えられているはずの地上の交わりが無惨にも踏みにじられ、涙が流れ、時には血が流れるようなこともあるのです。
しかし、たとえ私たち人間の状況がどんなに混乱し、散々なものであるとしても、それでもなお、神が私たちの上に御自身の御国を持ち運ぼうとして下さっていることを忘れずにいたいのです。「御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられている」と先ほど聞きましたが、私たち一人一人も神の家族の交わりの中で名が与えられ、立場が与えられ、共に生きるようにされていることを忘れずにいたいと思います。
たとえ地上の父や母が自分を見捨てるようなことがあったとしても、神は私たちを受け入れてくださいます。私たちが生きるように、神は御自身の民の中に私たちを抱いて、覚えて下さっています。聖書全体を通して、父なる神の慈しみに満ちた保護は真実であり、決して途絶えないと語られています。
すでに聞いた十戒の第2の言葉の中で、出エジプト記20章5節6節に「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」と言われていました。神は父なる神として、お怒りになることがあります。しかしそれは一時のことであり、憐れみと慈しみこそ永遠であることが語られています。神は憐れみと慈しみによって私たちを生かそうとしてくださり、神の御国を私たちの上に持ち運んでくださるのです。
そして、そういう神のなさりようを私たちに示すために、神の御業の中心にあるのが、主イエス・キリストの十字架と復活の御業だということを、私たちは毎週、礼拝の中で聞かされています。神はこの世を救うために、他の誰でもない、御自身の御子を送るという仕方で救い主をお与え下さいました。そして私たちがよく知っているように、その御子を十字架につけるという仕方で救いをもたらして下さったのでした。
神が「わたしの憐れみ、慈しみこそは永遠に続く」とおっしゃる時に、それは口先だけのことではありません。神の御業の中心には、この世のどんな父も経験しなかったような、親としては真に辛く苦しい御業があったのだということを知らなければなりません。
しかしまさに、神がそのような仕方で御業をなさって下さったことは、地上の私たちにとっては本当にありがたいことです。私たちの家庭、家族の交わりは、時に破れを生じます。実際にその破れの中に身を置く時には、本当に切なく辛い思いをせざるを得ません。しかし、父なる神が御自身の独り子をこの世に送り、すべての人間の罪の身代わりとして十字架にかけておられるのです。他ならない御自身が人間の罪を滅ぼすために、御子を十字架上に送っておられる。私たちは、どんなに実際の家族の交わりが破れに満ち、辛いとしても、なおこの神のもとに身を寄せることができるようにされています。
私たちが悲しみを経験する時、神はそのような悲しみと無縁な方ではありません。「わたしはあなたのために、独り子を十字架の上に送っている。あなたはわたしの国を受け継ぐ者だ。わたしの祝福のもとを生きていきなさい」と、神が招いてくださることを知る者とされたいと思います。
私たちの家庭が上手く運んでいることが、私たちに喜ばしいことなのではありません。それだけではないのです。たとえ私たちの現実の生活が様々に破れを生じ、辛さに満ちているとしても、神がそういう私たちの生活の上にも神の御国を置いて下さっています。
私たち一人一人に神が、「なおそこで、生きて良い」と、主イエスの十字架と復活を通して呼びかけて下さり、神の祝福を受け継ぐ者として下さっていることを覚えたいと願います。お祈りを捧げましょう。 |