2023年2月 |
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2月5日 | 2月12日 | 2月19日 | 2月26日 | |||
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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ナルドの香油 | 2023年2月第4主日礼拝 2月26日 |
宍戸俊介牧師(文責/聴者) |
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聖書/マルコによる福音書 第14章1〜11節 |
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<1節>さて、過越祭と除酵祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた。<2節>彼らは、「民衆が騒ぎだすといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた。<3節>イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。<4節>そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。<5節>この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。<6節>イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。<7節>貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。<8節>この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。<9節>はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」<10節>十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。<11節>彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすれば折よくイエスを引き渡せるかとねらっていた。 |
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ただ今、マルコによる福音書14章1節から11節までをご一緒にお聞きしました。 ところで、「命の恵みに感謝する」そのような時に、主イエスを捕らえ、殺害しようとする悪だくみが話し合われていたと語られています。話し合っていたのは祭司長たちや律法学者たちですが、その際、彼らは「計略を用いて」、主イエスを捕らえようとしました。この「計略」とは、謀、意味しています。 けれども、そんな彼らにとって気がかりだったのは、「過ぎ越しの祭り」のためにエルサレムに集まって来ている大勢の群衆の動向でした。主イエスは群衆に人気がありましたので、迂闊なことをして、「祭司長たちがイエスを捕らえたらしい」という噂が人々の間に広まったりすると、祭司長たちにとっては厄介なことになります。それで、2節には「彼らは、『民衆が騒ぎだすといけないから、祭りの間はやめておこう』と言っていた」とあります。 ところでこのような彼らの計画は、結果から言うと、前倒しされ早目に実現され、主イエスは十字架で死なれることになりました。それはなぜかと言うと、主イエスの弟子たちの中から、彼らに内通して主イエスの身柄を引き渡す手引きをする者が現れたためです。よく知られているように、イスカリオテのユダが、主イエスの逮捕にあたって捕り方の人々を手引きし、主イエスを捕らえることに協力する裏切り者となりました。主イエスを捕らえる手引きをしたために、ユダは弟子たちの中の裏切り者として不名誉な仕方で名前を後の時代の人々にもずっと覚えられることになりました。10節11節にユダの裏切りの様子が語られています。このユダの裏切りについては後に改めて考えることにしますが、今日の箇所では、「ユダの裏切りの出来事があって、主イエスの逮捕が早まった」という一点を心に留めたいと思います。何故なら、このユダの裏切りがもし起こらなかったなら、主イエスの逮捕は過越祭の後になったに違いないからです。その場合、主イエスの十字架は過越祭と関わりのないものになってしまいます。 もちろん、神の側がそのような御計画をお持ちであることを、人間の側は知りません。祭司長たちや律法学者たちは、ユダの手引きによって主イエスの身柄を早めに押さえられることを知ると、渡りに舟が来たように思って喜び、ユダに褒美の金を与える約束をします。イスカリオテのユダ自身も自分では主イエスを出し抜いているつもりになって、どうすれば折よく主イエスを敵に引き渡すことができるか、その時を伺っています。 ところで、このような人間の暗く惨めな現実の姿に挟まれるようにして、もう一つの記事が記されています。9節には、ある女性の行動が「世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」と語られています。 ところがこの時、主イエスは女性のこの行動を弁護し、非難する人々に反論なさいました。この女性を特別にえこひいきしたからではありません。そうではなくて、主イエスは、「この行動には確かに深い意義がある」ことを教えられるのです。6節から9節に「イエスは言われた。『するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう』」とあります。 主はもうあと僅かでお亡くなりになります。人の死ということは、私たちも身近なところで起こる時にはよく承知していることですが、ごく近しい間柄の人や家族が亡くなってゆく時、その最後の時間には値段がつけられません。300デナリオン、一年分の収入を出してでも、あるいはそれ以上支払ってでも、もしその額を支払うことができるならばですが、それによって愛する者の命を少しでも先に延ばすことができるのなら、その時には、その金額が高いなどと決して言わず、できる限りのことをしたいと願うに違いありません。この女性が高価な香油を惜しげもなく主イエスの頭に注いだことについて、主イエスはそういう意味づけをしてくださるのです。 主イエスを亡き者にしようとする陰謀が企てられている、その二つの記事の間に挟まれるようにして、この女性の記事は記されています。非常に対照的な姿が描かれているのですが、最後に考えておきたいことは、「この女性は特別に清らかな心の持ち主だったので、このように行動できたのか」ということです。そうではありません。他の人間たちと同じように、この女性にも罪があり、弱点もあったに違いありません。けれども、主イエスがこの女性を弟子の一人として、「わたしがあなたと一緒に生きてあげよう。あなたはわたしのものとなって生きて行きなさい」と招いてくださった時、この女性は、主に招かれ従うことの喜びに包まれる中で、今日の出来事のような思いがけない印象的な仕方で、主の十字架の御業に仕える者とされたのでした。 今日の箇所は、前後の人間の罪をはっきり照らし出す出来事に挟まれて、女性の信仰と主イエスへの真心とが描かれ、人間の対照的な姿が描かれています。しかしそれは、主の招きに対する態度の違いでしかありません。主の招きに真心から感謝し、自分自身も主にお仕えして生きようとする一つの姿を、この女性は示しています。 人間の罪や欲望の誘惑にさらされる中に、私たちは置かれます。そしてそういうことに心を奪われてしまうこともあるのです。けれどもそういう中にあって、主イエスが「共に歩もう」と招いてくださるので、私たちは信仰を与えられ、主の僕の一人として生きることがゆるされています。自分の一部だけでお付き合いするのではなく、わたしたちために十字架に架かってくださった主に感謝して、心から主に仕え従う、幸いな生活を生きる者とされたいと願います。お祈りを捧げましょう。 |
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