聖書のみことば
2023年2月
  2月5日 2月12日 2月19日 2月26日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

2月5日主日礼拝音声

 惑わされない
2023年2月第1主日礼拝 2月5日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マルコによる福音書 第13章14〜23節

<14節>「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら―読者は悟れ―、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。<15節>屋上にいる者は下に降りてはならない。家にある物を何か取り出そうとして中に入ってはならない。<16節>畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。<17節>それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。<18節>このことが冬に起こらないように、祈りなさい。<19節>それらの日には、神が天地を造られた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難が来るからである。<20節>主がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、主は御自分のものとして選んだ人たちのために、その期間を縮めてくださったのである。<21節>そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない。<22節>偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである。<23節>だから、あなたがたは気をつけていなさい。一切の事を前もって言っておく。」

 ただいま、マルコによる福音書13章14節から23節までをご一緒にお聞きしました。先週の礼拝では14節から20節までを中心にお聞きしましたので、今日は21節から23節を聞きたいと思います。
 21節に「そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない」とあります。日頃は、「わたしを信じなさい」とおっしゃる主イエスですが、ここでは珍しく「信じてはならない」とおっしゃっています。何を信じてはいけないのでしょうか。それは「偽物のキリスト」です。22節に「偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである」と教えられています。偽物のメシア、偽物のキリストが弟子たちの前に立つことがある、だから「警戒して惑わされないように注意しなさい」と教えておられます。
 ここだけではありません。13章前半の5節6節でも「イエスは話し始められた。『人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、「わたしがそれだ」と言って、多くの人を惑わすだろう』」とおっしゃっておられました。主イエスに敵対する勢力は、ただ闇雲に主イエスや神に反対し、逆らうだけではありません。時に敵対する者自身が主イエスのような素振りを見せて弟子たちを騙し、自分に従わせようとする場合があるのだと教えられています。
 「だから、あなたがたは人から惑わされないように気をつけなさい。『見よ、ここにメシアがいる』と言う者がいたり、『わたしがそれだ』と言って多くの人を惑わすだろう。しかし素振りはわたしのようであっても、実際にはあなたがたと同じ人間であって、わたしとは違うのだ。うかうかと信じてはならない。騙されてはならない」と主イエス言われます。ここには、信じやすく騙されやすい弟子たちのことを気遣っておられる主イエスがいらっしゃいます。「あなたがたは、何でもかんでも信じるというようであってはならない。ただわたしだけを信じるように」とおっしゃって、御自身の方に導こうとなさるのです。

 主イエスがこのように弟子たちに言葉をかけてくださるということ自体は、大変感謝すべきことだろうと思います。主イエス以外の、本当は人間に過ぎない多くの者たちがまるで救い主であるかのような顔をして弟子たちを惑わそうとする時、もしそこで真の救い主である主イエスが沈黙してしまわれるのであれば、惑わされた人々は自分が偽物に惑わされていることにも気づかないで、偽物について行ってしまうということになるに違いありません。ですから、主イエスがこのように警戒を呼びかけて下さっていることは、大変有り難いことなのです。
 けれども聖書からこのような言葉を聞かされますと、率直に言えば、私たち自身はむしろこの言葉によって戸惑いを覚え不安を感じてしまうのではないでしょうか。なぜ戸惑うのかと言いますと、私たちは最初の頃の主イエスの直弟子たちとは違って、この言葉を生身の主イエス御自身から聞いているわけではないからです。もし仮に私たちが2000年前に生きていて、地上の御生涯を歩んでおられる主イエスに招かれ従っている弟子であったならば、「本当に信じて従うべきなのはこのわたしなので、他の者について行ってはいけない」と直に主イエスが語りかけてくださる言葉を、それはその通りだと納得できるのです。
 ですが、今私たちは主イエスが地上を歩んでおられた頃から2000年近く後の時代を生きています。直弟子たちのように面と向かって主イエスの言葉を耳にしているわけではありません。それならばどうして、私たちが聞いている言葉が何も歪められていない本来の真正な主イエスの言葉であると分かるのでしょうか。私たちとすれば、聞かされている言葉を「これは主イエスがおっしゃった言葉だ」と信じて受け入れる他ないように思えます。
 ところが主イエスは、「人の言葉を何でもかんでも信じてはならない。人に惑わされないように気をつけなさい」と言われますから、私たちは「今聞いている言葉を、果たして信じて良いのかどうか」と迷い、困ってしまいます。一体どうしたらよいのでしょうか。

 主イエスはここで、「偽メシアや偽預言者といった偽物は皆、惑わせるために、しるしや不思議な業を行ってあなたたちの気を惹こうとする」と言われます。「しるしや不思議な業」とは、例えば癒しであったり、あるいは嵐を鎮めて見せたり、水の上を歩くというような奇跡と呼ばれるもののことを指しています。そういうことについて、私たち人間は好奇心をくすぐられて大いに興味を示すようなところがあります。一体どのようにしてこの奇跡の業が行われているのだろうかと、つい見入ってしまうような物見高いところがあるのです。
 そして、そこに実は私たち人間の弱点があります。惑わせようとする者たちは、その弱点を突いてきます。私たちの興味を引くようなことをやってみせて、そして関心を惹きつけ虜にしようとします。私たちはどうしても、自分の目で見て良さそうだと思えたものや好ましいと感じられたものに心を寄せてしまうようなところがありますので、この弱点については、残念ですが如何ともし難いところがあるのです。「みだりに何にでも関心を持ち興味を寄せないように」と気をつけたとしたとしても、おそらく私たちには限界があるに違いありません。だいたい興味を引いたり、関心を持っていることが常に惑わしや偽りであるかというと、そうとは限らなくて、そこには良いものも含まれているのです。

 「人に惑わされないように気をつけなさい」と言われても、その「気をつける」というところに私たちの弱点があるのであれば、私たちはどうしたらよいのでしょうか。多くの惑わす者、誘惑に気を付けるというのと反対に、私たちの本当に求めて従うべき方、つまり「主イエス・キリストその方に思いを向ける」ということが大切になるのではないかと思います。たとえ主イエスの名を名乗って惑わそうとする者が私たちの目の前に現れるようなことがあるとしても、もしそこで私たちが本物の主イエスにしっかりと結びついていたならば、私たちは偽物がまさに偽物だと見抜くことができるようになるのです。
 「偽物と本物を見分けられるほど、わたしは主イエスのことを知らないので、見分ける自信はない」と思う方もいらっしゃるかもしれません。しかし、本物の主イエスと偽メシアを見分けるということは、実は確かにできることなのです。神から選ばれて主イエスを信じるように招かれている人たちには、本物の主イエスとそうでない偽物の区別がつきます。どこでその区別がつくのでしょうか。本物と偽物は一体どこが違うのでしょうか。
 本物の主イエス・キリストは、私たち人間のために自ら十字架におかかりになりました。そして、まさにその点が偽メシアや偽預言者とはまるで違う点なのです。偽物は、多くの人の関心を惹こうとします。そのために、大抵の人が喜んだり驚いたりしそうなことを行います。それでいて偽物のメシアは、決して十字架につくことはしないのです。なぜかと言うと、メシアを名乗ってその振りをしていても、実際にはその人は人間に過ぎないからです。そして人間であれば、十字架にかかれば死んでしまうからです。偽物は十字架にかかる代わりに、多くのしるしや不思議な業で人の目を欺こうとするのです。

 真の主イエス・キリストは、奇跡によって人々を驚かせ、人々の心を自分に向けさせようとはなさいませんでした。むしろ私たち人間にとっては、ぞっとして目を背けたいと思うような十字架へと進んで行かれました。本当のメシア、本当の救い主は、十字架におかかりになります。私たちのためにです。その十字架の苦しみと死をもって私たちの身代わりとなり、私たち人間の罪の代価を支払ってくださり、罪をすべて清算してくださいます。
 そして、主イエスが私たちの身代わりとなって罪を清算してくださっているので、私たちは今日、神の憤りと怒りを恐れなくてよいようにされているのです。「神さまの憐れみと慈しみが私たちの上にあり、慰められ勇気づけられ、力をいただく」、それは主イエス・キリストが十字架にかかってくださればこそのことです。

 ですから使徒パウロは、コリントの教会に宛てた手紙の中で、コリントの町を訪れた時の思い出話をします。コリントの町を訪れた時、パウロはひどく衰弱していて恐れに取り憑かれ不安な状態でした。そのような状況の中で、しかし、「主イエスを伝えようとするのに優れた知恵や言葉を使おうとはしなかった。優れた言葉や知恵であなたがたの興味や関心を惹いて、上手に主イエスを伝えようとは思わなかった。ただ真の主イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外は何も知るまいと心に決めていた」とパウロは語ります。また同じ手紙の中でパウロは、「十字架につけられたキリストというのは、ユダヤ人にとってはつまずかせる者、異邦人にとっては愚かな者だ。でもユダヤ人であろうがギリシャ人であろうが、召された者には神さまの力、神さまの知恵を知らせてくださる方である。自分はただ主イエスが十字架についてくださった、そのことを宣べ伝える。そういう愚かなことをあなたがたの間でしただけだった」と語っています。
 しかしまさにパウロがそのように語ったのはなぜかと言うと、「十字架の上に真の救い主、主イエス・キリストがいらっしゃる」からです。教会は2000年の間、毎週毎週日曜日に、その同じことを語り続けてきています。私たちのために十字架におかかりになった方がいらっしゃる。この方は十字架の上で亡くなられたけれど、復活しておられ、そして今もわたしたちを招いてくださっている。「わたしはあなたのために十字架にかかった。あなたの罪は清算されている。神さまの憐れみと慈しみがあなたの上にある。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」とおっしゃってくださる方こそが、真の救い主メシアなのです。
 私たちは礼拝の度に、「十字架の御業をなさった主がおられる。そして私たちもまた、この方によって神さまとの間柄を執りなされ、神さまの憐れみと慈しみを受ける者とされている」と聞かされ、「それを信じて良い」と招かれるのです。そして、真の救い主はそういう方だと聞かされ信じる時に、私たちは、真の救い主であるイエス・キリストと偽りのメシアを見分けることができるようにされるのです。

 22節の言葉を注意して聞きますと、さらに二つの事柄が聞こえてきます。22節に「偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである」と教えられています。目立たない言葉ですが、ここには「できれば」という一言が挟まれています。「できれば」には、「もしそんなことができるのであれば」というニュアンスが有ります。「ごく普通に教会生活をしているキリスト者であれば、 滅多に騙されるはずはないのだ」という思いが、この一言には込められています。
 けれども、どうして教会生活を送っていると私たちは騙されないで済むようになるのでしょうか。それは、神に選ばれ覚えられている者として教会生活の中に置かれている人は、この生活の中で絶えず主イエス・キリストの御言葉が聞こえる場所を生きるように招かれ、そしてそのことによって一人ひとりが保護されているからです。
 偽物たちがそれらしく振る舞う普段の活動領域はどこかといえば、それは神の保護の外にある、教会生活の外にある一般の社会です。そこには、主イエス・キリストの十字架と復活によって神に結ばれる救いがあるということ知らない人が大勢暮らしています。世の中に、イエスという名前を知っている人は大勢いるかもしれません。あるいは教会の地図上の印が十字架だと知っている人もいるかもしれません。しかしそのことを知っていても、「救い主として主イエス・キリストが私たちのために十字架にかかってくださった。そして私たちの罪が清算されている。だから、私たちは神さまの愛の中に置かれている」ということを知らないで暮らしている人は大勢いるのです。
 そして、そのように主イエスの救いを知らないで暮らしている人は、どのように生きてしまうかというと、ごく普通に自分の考えや思いで自分にとって都合のよいことや良さそうに思えることにすぐ飛びついてしまうようなところがあるのです。教会に来ることを知らず、自分の思いで人生を生きることしか知らない人は、人生とは自分の思いが実現するステージだと思って生きています。自分の思いや願いがその通りになれば、それより良いことはないと思っているのです。
 そして偽メシアや偽預言者は、そこに付け込むのです。「もしわたしを崇めるなら、わたしを拝むなら、わたしを信じるなら、あなたは自己実現ができます。あなたの思った通りに生きていくことができます」、そのように誘いをかけられると、教会の外で暮らしている普通の人たちは、ついそこに心を寄せてしまうようになるのです。ですから、偽メシアや偽預言者たちが活動している本来の領域は、教会の外の領域です。偽物たちは聖書の言葉を都合よく使いながら、いかにも自分が力や知恵のある者のように見せながら生活をしていきます。
 けれども、キリスト者として選ばれている一人一人は「十字架の主イエスこそが真の救い主である」ということを知らされ、それを信じるようにされているので、滅多に騙されることがないのです。そのように私たちは、教会生活の中で絶えず真の主の御言葉を聞かされ、それに守られて生きるようなところがあります。
 ですから、「できれば、選ばれた者たちをつまずかせようとする」とはどういうことかというと、礼拝に集うことをしばらくの間止められてしまったり、あるいは教会の群れから離れてしまったキリスト者に起こり得ることを言っています。そういう時には、主イエスのことを聞く機会がなくなっていくために、ふと自分の思いに生きてみたいという心が強まり、教会の外で偽メシアに出会って引っ張られてしまうということも有り得るのです。そのように偽メシアと偽預言者は、「できれば選ばれた者も誘惑したいと思っている」と述べられています。

 もう一つ、「惑わし」について聞こえてくることは、ここで主イエスが「惑わし」とおっしゃっているその言葉自体にあります。主イエスが「できれば選ばれた人たちを惑わそうとする」とおっしゃっている言葉は、聖書の中では大変珍しい言葉で、聖書全体の中でもこの箇所ともう一箇所にしか出て来ません。そのもう一箇所はテモテへの手紙一6章10節です。そこに「金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます」とあります。「金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出た」と言われているのが、今日の箇所の「惑わそうとする」と言っているのと同じ言葉です。テモテへの手紙には、惑わしの正体が金銭欲だと言われています。お金があると大抵のことができるので、何でもできるようになりたいという誘惑が生まれることになります。別に言えば、「神さまがわたしを愛し支えてくださっている」ということを忘れ、自分自身がお金の力で神のようになりたいと思う欲求や衝動、それが「惑わし」の正体なのです。

 主イエスは今から十字架に向かって進んで行こうとしておられます。今日の箇所は、主イエスが十字架に向かって進んで行かれる直前のところです。主イエスが十字架に向かって行かれる、その最後の時に弟子たちに教えられた言葉が、「あなたがたは、惑わしに乗せられてはいけない」ということでした。「今からわたしは十字架に向かって行く。あなたがたのために十字架にかかり、罪を清算して、神さまとあなたがたとの間にある断絶、わだかまりをすべて、わたしが引き受ける。あなたがたは十字架の赦しを与えられて、赦された者として、神さまの愛のもとを生きる者になる。それがあなたがたの救いなのだ」と主イエスは教えられました。

 「だからあなたは、神さまの愛と、罪の赦しを知る者として十字架のもとに留まりなさい。多くの誘惑があなたを誘い、『神さま抜きでもあなたは生きていける。あなた自身が神のように生きていくことができる』と教えるかもしれないけれど、あなたは真の神さまの愛に抱かれ、愛のうちに覚えられ、今日を生きる者とされていく。あなたはわたしに従って、そういう生活を生きるように」と、主イエスは招いてくださっています。

 私たちは主イエス・キリストから「わたしに従いなさい。間違っても他の者に惑わされてはならない」と呼びかけられています。主イエスの招きに素直に従って生活する、そのような幸いな者とされたいと願うのです。お祈りを捧げましょう。

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