2023年11月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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マリアの賛美 | 2023年11月第4主日礼拝 11月26日 |
宍戸俊介牧師(文責/聴者) |
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聖書/ルカによる福音書 第1章46〜56節 |
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<46節>そこで、マリアは言った。「わたしの魂は主をあがめ、<47節>わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。<48節>身分の低い、この主のはしためにも 目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も わたしを幸いな者と言うでしょう、<49節>力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、<50節>その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。<51節>主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、<52節>権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、<53節>飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。<54節>その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、<55節>わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」<56節>マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。 |
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ただ今、ルカによる福音書1章46節から56節までを、ご一緒にお聞きしました。46節47節に「そこで、マリアは言った。『わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます』」とあります。 沢山の美しいメロディによって親しまれる賛美の言葉ではあるのですが、しかし、この言葉を発した時、マリアの置かれていた状況は決して麗しいとは言えないものでした。この時のマリアの心の内を考えるならば、子を宿していることを手放しで喜べるような状況ではありません。何といっても普通に考えて、マリアの胎内に子が宿ることはあり得ないことだったからです。マリア自身が述べているように、マリアは男の人を知らない処女でした。ですから、そういう自分に子が宿ることなど、マリアには到底受け容れ難いことでした。 ところで、マリアがそのように神の創造の出来事を自分の身に受け止め仕えようとしたことは、同時に、言われのない中傷を受ける覚悟をすることでもありました。懐妊と幼な子の誕生について、マリアは常に人々から好奇の眼差しを向けられ、口さがない人たちの中傷を受けざるを得ません。このことは、今日に至るまで変わることはありません。 47節48節に「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも 目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も わたしを幸いな者と言うでしょう」とあります。マリアの思いは、自分が周囲からどのように思われるか、どのように見られ、どう扱われるかということには、何も向かいません。マリアの思いはひたすら、彼女を用いて神が一つの御業を行おうとしておられるという、そのことにだけ向かっています。天使を通して知らされた、神の新しい創造の御業の実現だけに、マリアの思いは向かっています。神の御計画が実現されて御業が果たされるということ、それだけにマリアは寄り頼もうとします。 マリアは、「自分が幸いな者と言われるだろう」と、まるで預言者のようなことを口にします。この幸いは、彼女の名が人々に知られるようになり有名になるから幸いだというのではありません。そうではなくて、マリアは世の中に無数に生きている人間たちの中の一人であって、身分の低いはしために過ぎない者だけれども、そういう者にも神が目を留めて下さり、御業の中に持ち運んで役割を与え用いて下さるから幸いだと言っています。マリアは、自分の名前が大きく有名になることを喜んだのではないのです。無数の人々、命を与えられ、無数に生きている僕たち、はしためたちの一人ひとりに、神が眼差しを注いで目を留めて下さり、それぞれに生きる務めと役割を与えて用いようとしてくださる。その実例として、自分が用いられたことに深く感謝し、感動しているのです。 マリアは深い感謝と感動の中から、言葉を継いで語ります。49節50節に「力ある方が、 わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、 主を畏れる者に及びます」とあります。マリアの心の思いは彼女一人だけではなく、主を畏れて敬い、主が御業を行っておられると信じる人々全てに向けられています。「力ある方がわたしに偉大なことをなさった」というのは、もう少しはっきり言うならば、無から有を呼び起こし、何もないところに御言をもって存在を来たらすことのできる力ある創造の主がマリアの中に救い主となる幼な子を宿らせたことを言っています。それまで自分の中には何もなかったけれど、神が新しいものを造って与えてくださった、神が創造してくださるという御業を、マリアはたたえます。 そして、マリアの神への信頼の眼差しは、更に遠く、遥か彼方に向かいます。将来に起こる「神による終わりの裁きと完成の時」へとマリアの眼差しは向かうのです。ナザレの一乙女にすぎなかったマリアに、このような、千里眼のような信仰の眼が与えられていることは驚きであり、不思議なことです。しかしマリアは確かに、終わりの日に神がこの世の一切の事柄に決着をつけて下さり、高ぶって他の人々を支配し抑圧している者たちを退け、貧しくても神の御前を歩もうとする者たちを救って下さるという幻を示されて語ります。51節から53節に「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」とあります。ここに示されているのは、一つの革命の情景です。変わる筈はないし動くこともないと思われてきた世の中の重い秩序が全く権威を失ったかのようにあっという間に棄て去られ、そこに、それまでとは違った新しい秩序が生まれる様子を、マリアは幻の内に示されました。 ですからマリアは、その神の御業をたたえて語り続けます。54節55節に「その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに」とあります。 こういうマリアの賛美の言葉を聖書から聞きながら、私たちは気付かされるのではないでしょうか。マリアが幻のうちに示された情景というのは、この世界の終わりの姿であると同時に、私たちの教会が、やがて行き着く先の姿でもあるのではないでしょうか。教会は今この時、地上に建てられてはいますけれども、この世に立脚して立っているのではありません。主イエス・キリストがこの世界を訪れてくださって、一人ひとりに「わたしに従って来なさい。あなたと一緒に歩いてあげよう」と呼びかけてくださり、集められている群れが教会です。私たちは今、そういう主イエスの呼びかけがあったからこそ、ここに集っています。そしてまたこの営みは、私たちが世を去る時も変わることがありません。私たちは、地上にいる間だけ主イエスが共にいてくださるというのではなくて、地上の生活を超えてもなお、神が一人ひとりに目を留め、神の御前に生きる者として、場所を移して持ち運んでくださいます。 今日の箇所は、マリアが神をたたえる言葉が書き連ねられていて、まるでマリアの独り言のように感じるかもしれません。しかしマリアはここで、一人ではありません。マリアの傍らに、じっとマリアの賛美に耳を傾けているエリサベトもいます。若いマリアと年輩のエリサベトが、共々に神の約束の実現を楽しみにしながら、神をたたえる言葉に耳を傾け、集っています。これもまた、地上の教会の姿ではないでしょうか。教会には若い人も年輩の人も共に集い、そこで語られる御言の説き明かしに耳を傾けます。神の約束が私たちの身の上に起こることを楽しみにして賛美をささげ、その実現を楽しみに待ち望みながら、御言に示される愛の生活を一人ひとりが生きるのです。 |
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