聖書のみことば
2023年11月
  11月5日 11月12日 11月19日 11月26日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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10月1日主日礼拝音声

 何という幸い
2023年11月第2主日礼拝 11月12日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ルカによる福音書 第1章39〜45節

<39節>そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。<40節>そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。<41節>マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、<42節>声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。<43節>わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。<44節>あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。<45節>主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

 ただ今、ルカによる福音書1章39節から45節までを、ご一緒にお聞きしました。39節40節に「そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した」とあります。
 マリアがエリサベトにした挨拶の言葉は特に記録されません。そんなに長い挨拶ではなかったためかも知れません。マリアの挨拶の言葉は記録されないのですが、この挨拶を受けたエリサベトの言葉、これはマリアとその胎内に宿っておられる主イエスに対する祝福の言葉ですが、こちらの方は少し丁寧に、何を言ったかということが記録されています。今日の箇所は、そのエリサベトの言葉が中心になっています。それに対して次に続く46節から50節には、エリザベトの挨拶に触発されるようにしてマリアが語る、主を賛美する言葉が述べられてゆきます。

 今日の箇所は、主イエスの母になるマリアと、主イエス・キリストを指し示す道備えの役目を果たすことになるヨハネの母エリサベトとが出会っている出会いの場面です。これから母親になる2人の女性同士が出会うと同時に、その胎内にそれぞれ宿っている胎児たちも、お互いに出会っていることになります。
 特にヨハネの方は、主イエスの母マリアが挨拶をした時、その声を聞いて母エリサベトの胎内で踊り、それによって母エリサベトが聖霊に満たされて預言者のように語り出すということが起こっています。ですからここは、2人の女性が出会っているだけではなくて、その胎内の子どもたちも互いに出会っているということをはっきりと示そうとしている記事だということになるでしょう。
 今日の箇所の2人の母親と2人の胎児の出会いに限ったことではないのですが、ルカによる福音書1章に記されている記事は、その全体がこの福音書だけに記されている出来事です。福音書を書いたルカは、その始まりのところで、「わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、それを順序正しく書こうと思いました」と言っていました。まさにルカが詳しく調べて記してくれたので、私たちは、今日聞かされている出来事に触れることができます。そのことについてはルカの働きに感謝すべきだろうと思いますが、しかしルカはどうして、今日のような出会いの記事をこの福音書の最初の章にわざわざ書き記したのでしょうか。
 先ほど、マリアの挨拶の言葉は省略されているらしいと申しました。エリサベトの祝福の言葉や、それに触発されたマリアの主への賛美の言葉がきちんと記されていることから考えると、ルカ自身は、この出来事を詳しく調べた中で、当然マリアの挨拶の言葉も知っていたはずですが、しかしそれは「挨拶をした」という一言で片付けてしまっています。それよりも、エリサベトの祝福の言葉は是非ここに紹介しなくてはならないと考えて記録されているのです。すると、このエリサベトの挨拶の言葉には大変意味があるということになると思います。エリサベトが語っている祝福の挨拶の言葉に耳をそばだてて聞いてみたいのです。

 41節42節に「マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。『あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています』」とあります。
 近い将来母となる2人の女性が出会い、挨拶を交わしたときに、エリサベトの胎内で異常に強い動きがありました。胎児を宿していたエリサベトは、すぐ、そのことに気づきます。けれども、そのことだけで事情が分かったのではありません。この時、エリサベトは「聖霊に満たされた」と述べられています。
 聖霊に満たされると言われても、実際に何があったのかは、分かりにくいかも知れません。エリサベトは、自分の胎内に宿った赤ん坊について、夫のザカリアから聞かされていたことがありました。ザカリアは天使からの知らせを信じなかったために、口が利けなくなっていましたけれども、赤ん坊が生まれてきた時には、筆談によって「ヨハネ」という名前をつけています。口が利けず言葉が出ないだけで、すべてのコミュニケーションができない訳ではありません。妻のエリサベトには、筆談で言葉を伝えていたに違いありません。特にエリサベトの胎に宿った子どもについてのことであれば、詳しく丁寧に話をしていたでしょう。
 エリサベトはお腹に宿った子どもについて、何を聞かされていたでしょうか。それはザカリアが天使から聞かされたことですが、1章15節から17節にかけて「彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する」と言われていました。エリサベトの胎内に宿っている子どもは、胎内にいる時から聖霊に満たされていて、預言者エリヤの力を与えられ救い主メシアの露払いをするような人物に成長すると、ザカリアは天使から告げられていました。この聞かされたことを、そのまますべてザカリアが信じたかどうかは不明ですが、ルカによる福音書にこの天使の言葉が記されているということは、少なくともザカリアはこの言葉を聞き流したのではなく、ルカに話していたということです。そして、その言葉をエリサベトに伝えていたということも、大いに考えられることなのです。
 すると、エリサベトの許をマリアが訪れて挨拶をした時、その声を聞いて胎内の子が激しく動いたことで、エリサベトは、今、自分の前に現れたマリアのお腹の中にいる嬰児が、自分が出産することになる胎児と深い関わりのある特別な子であると気づくことになったのだろうと思われます。エリサベトは、自分の胎内の子が厳しく動いたことをきっかけに、彼女を見舞ってくれたマリアの胎の子がまさに自分の子がやがて指し示すことになる救い主であることを知って深い感動に包まれ、祝福の言葉を語っているのです。42節から44節に「声高らかに言った。『あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました』」とあります。このエリサベトの言葉の最後にも言い表されていますが、エリサベトが突然、聖霊に満たされて声高らかに、まるで預言者のような言葉を口にしたのは、お腹の中でヨハネが動いたことがきっかけになっています。エリサベトは既に、自分の胎内に宿っている子どもが、やがておいでになる主メシアの先触れの役割を果たす者に成長するという知識を与えられていて、その子が胎内でマリアの声に反応するかのように激しく動いたので、マリアの胎に宿っている子どもこそが救い主であり、マリアは救い主の母となる人に違いないと考えたのでした。

 ところで、エリサベトとマリアには、共に同じ特徴があります。それは、二人とも子を授かったことについて、単純に周囲から祝福してもらうよりも、むしろ子を宿したことで難しい状況に置かれてしまっているということです。祝福よりも、好奇心のまなざしにさらされるという点が共通しています。
 エリサベトの方は、長い間不妊の女と呼ばれ、年を重ねて、普通ならば子どもの誕生を期待できる年代をとっくに過ぎていました。そういう彼女が身ごもったのですから、周囲から冷やかしの思いも含まれた好奇の目で見られたに違いないのです。エリサベトが5か月の間、人目につかないように身を隠していたのは、まさにそういった好奇心のまなざしを逃れるためでした。
 そして、もう一方のマリアの方は、年齢的にはお腹に赤ん坊がいても不思議ではありませんが、しかし、まだ許嫁のヨセフと一緒になる前に妊娠しているのですから、マリアもまた、エリサベトとは違った意味で好奇の目にさらされました。これは、時代を越えて今日に至るまで、マリアがどうして妊娠したのか、時には俗っぽく道徳的にふしだらであるというような言われのない非難さえ浴びせかけられるようなことです。
 ですから、ここで出会っている二人の母たち、エリサベトもマリアも、子を宿したことで、のっぴきならない状況に立たされています。神の不思議な力の働きによってそれぞれに胎の子を身ごもったのですが、神の御業に用いられていく過程で難しさを抱えてしまったという二人の女性が、ここで互いに出会わされているのです。

 改めて、こういうことを思いながらこの記事を聞きますと、私たちはここから示されることに気づくのではないでしょうか。世の中に、人間の力を超えた神の力を求めたいと思う人は決して少なくないのですが、本当に神が力を働かせ御業をなさる時には、必ずしも人の思い通りに神が働かれるのではないということが、ここから聞こえてくるのではないでしょうか。
 多くの場合私たちは、自分にとって都合良く神が働いて下さることを求めるのです。自分の思った通りに、また願い通りに、神が働いて自分を強めてくれたり、あるいは事情が都合よく持ち運ばれていったら良いのにと、考えてしまいがちです。しかし実際には、神は、御自身の御計画に従って御業を進めてゆかれます。そして、たとえそれが私たちには意外に思われるとしても、あるいは自分としては困ると思うことがあるとしても、神が持ち運ぶそのなさりようが、本当に正しい神のなさりようなのです。
 エリサベトとマリアが、もし、自分たちに都合の良い仕方で神の力が働くことを願ったなら、おそらく二人とも、このタイミングで身ごもるということは願わなかったでしょう。エリサベトもマリアも、各々、神が事前に二人に相談してくださって、どのように事を持ち運んだら良いかと協議するような場があったとしたら、このような仕方での御業の実現には難色を示し、抵抗したに違いありません。しかし実際には、二人は、神がこの二人を用いて御業をなさろうとした結果、とても困った事情の下に置かれてしまっています。

 けれども考えてみますと、こういうことは、エリサベトとマリアの身の上にだけ起きていることなのでしょうか。実は、神が御自身の御計画のうちにある人を覚え、用いてゆかれるということは、全てのキリスト者の上にも起こることではないでしょうか。今日の記事は、エリサベトとマリアの身の上に起きた特別な、例外的な出来事というのではなくて、実は、私たちの身の上にも起きていることかもしれないのです。
 もちろん、私たちは不思議な仕方で妊娠するというようなことはないかもしれません。けれども、どうして自分が今日、キリスト者とされているのかということ考えてみると、不思議ではないでしょうか。「あなたは何故キリスト者なのですか」、「どうしてクリスチャンになりましたか」と問われて、私たちは上手くそれに答えられるでしょうか。もちろん、事実経過であればそれなりに話すことができるでしょう。キリスト者との出会いがあったとか、ミッションスクールでキリスト教に出会ったとか、もともとクリスチャンホームで育ったとか、そういう事実の経過を語ることはできます。しかし、キリスト者と出会えば必ずキリスト者になる訳ではありません。ミッションスクールに通ってもキリスト者にならない人は、数でいえば、そちらの方がずっと多くいます。クリスチャンホームの両親も、自分たちの子どもが信仰を持つことができるように何をするかといえば、結局は祈ることだけです。私たちが、「なぜクリスチャンなのか。どうして、今、このように生きているのか」ということは、大変不思議な神のなさりようがあったとしか言えないのです。

 エリサベトとマリアは、本当に思いがけない仕方で、しかし確かに自分たちが神に召され、用いられることを知る二人として、ここで出会っています。この二人を結びつけているのは、神の御業です。主にある姉妹として、二人は出会っているのです。
 そして、そこで語られる言葉が45節の言葉です。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」。まさに神の御計画の内に憶えられ用いられることになった二人の女性が出会った時に、お互いに確認していることがあります。それは、「神の御計画は必ず実現していく」ということです。けれども見たところ、この二人は決して幸いだとか、恵まれているとか言えないように思えます。人間的に言えば、窮地に立たされています。しかし、人間的には困難な状況の下を歩むように見えても、この二人は、「神が御業をなさっている者同士」として出会い、互いに神に持ち運ばれて生きていること確認させられて、ここに確かな交わりを与えられているのです。
 私たちが教会で経験する交わりの不思議さも、この二人の経験とよく似ているのではないでしょうか。教会の交わりが、単に人が大勢集まっている場だと思っている人たちは、ただ皆仲が良いだけだと思っているかも知れません。けれども、実際にはそうでないことを、私たちは知っています。教会の交わりの中で、私たちはお互いに信仰を励まし合いながら生きていきます。今日の箇所も、ここではたった二人だけですが、確かな交わりが生まれています。自分一人ではなく、「この姉妹も神に憶えられ、御業に用いられている」ことを知って、その神に従って行こうとする、そういう交わりが生まれています。教会に生きている私たちも、同じではないかと思います。
 私たちは皆、エリサベトやマリアのように、一人ひとりが神に呼ばれ神のものとされ、神の民の交わりの中を生きるようにと招かれています。神に知られていれば私たちの人生は安楽かと言えば、必ずしもそうではありません。しかし、たとえ困難な道を辿らされているように思えても、「神さまが今日のわたしを確かに知っていて下さり、歩みを先へ先へと持ち運んでくださっている」、それは確かです。そしてそれは、自分一人が思っていることではなくて、「確かにそういう神のなさりようがある」ことを、私たちは交わりの中で知らされてゆくのです。

 神が憶えてくださり、主イエス・キリストが導いてくださる人生は、幸いな人生です。
 マリアに、「あなたは幸いな人です」とエリサベトが呼びかけていますが、この呼びかけは、教会の中で、私たち一人ひとりにも語りかけられている語りかけであることを覚えたいのです。
 私たちが、神の不思議な招きと御業のもとに生きる者とされていることを覚えて、ここからの一巡りの歩みに進んでゆきたいと願います。お祈りを捧げましょう。

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