ただいま、マルコによる福音書8章27節から30節までをご一緒にお聞きしました。27節に「イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、『人々は、わたしのことを何者だと言っているか』と言われた」とあります。
「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と、主イエスが弟子たちにお尋ねになった言葉は、福音書によって少しずつ違う言い方がされています。例えばマタイによる福音書16章13節には「人々は人の子のことを何者だと言っているか」と、またルカによる福音書9章18節には「群衆はわたしのことを何者だと言っているか」と記されます。細かな言い方の点では少し違いがあるのですが、しかし、「主イエスについて、当時の人々がどういう人物だと思っていたか」、さらに丁寧に言うなら、「主イエスという方の言葉と業と行いについて、人々からどのように受け止められていたか」ということがここで問われています。
そして、主イエスのこの問いに対する当時の人々の答えは、概ね好意的なものでした。もちろん、主イエスのことを憎み亡きものにしようと思っているファリサイ派の人たちもいなかったわけではありません。けれども、そういう殺伐とした憎悪は、主イエスに向けられている世の中の一般的な評価ではありませんでした。
それで弟子たちは口々に、主イエスについて巷で耳にした噂を報告して語りました。主イエスについて、「洗礼者ヨハネだ」と言っている人がいる。「エリヤではないか」と噂している人もいる。「そういう昔の人とは違うけれど、しかし確かに神から遣わされた預言者に違いない」と考える人もいるようだと、主イエスについて、様々な言い方で、いずれも好意をもって受け止める人たちが大勢いるということを、主イエスにお伝えしていました。
ここに名前が挙がった洗礼者ヨハネという人は、当時、直近では最も人々に影響を与えた預言者でしたが、ガリラヤの領主ヘロデによって首を切られ処刑された人です。またエリヤという人は、旧約聖書の列王記上18章から列王記下2章にかけて登場する人で、歴代の預言者の最初に現れた人物で、預言者の最初の者に数えられます。エリヤは地上の死に出遭っていない人としても有名で、最後は嵐の中、火の車に乗って天へと引き上げられていきました。それで、旧約聖書最後のマラキ書の、しかも一番最後3章23節24節を見ますと、神が最後の審判をなさる直前に再びエリヤを地上にお遣わしになり、民の心を神の方に向かせ、それによって人々が破滅しないで済むようにしてくださるという約束が語られていました。
ヨハネにしろエリヤにしろ預言者であり、二人については、「ヨハネが最後の預言者、エリヤが最初の預言者」と呼ばれることもあるのですが、要するに、主イエスに対する噂に彼らの名が出されるということは、「イエスはただものではない」ということを語っているのです。当時の人々は「イエスという人物は、神さまが人間の歴史の中で特別な役目を果たさせようとして送ってくださった預言者である。神さまがイエスに御言葉を与え、イエスがそれに従って生活しているのだ」と、好意的に、畏れと敬いの念を持って受け止めていたのでした。
けれども当時の、主イエスについての巷の評判がそうであったということは、これを別の角度から言うならば、確かに人々は主イエスのことを「特別に偉大な人で、預言者たちの系譜に連なるような、ただならない方」と考えてはいたのですが、しかし、「歴史の中に現れ、人間の列に連なる、そういう人物。やはり人間の一人である」と思っていたということにもなるでしょう。
「主イエスを何者だと思うか」という問いは今日でも問われることがあるかもしれません。しかしこう問われるとき、その答えはもはや昔のようではないかもしれません。「昔の偉人の一人」という答えが返ってくればまだマシなほうで、むしろ、「自分には何の関わりもない大昔の人、全く知らない人だ」という答えが、特に日本の社会からは聞かれるかもしれません。「人の噂も75日」という諺がありますが、主イエスの時代から既に2000年経っているわけですから、主イエスに対する人間の評価や考え方も、世の移り変わりと共にすっかり変わってしまったとしても、当たり前のことかもしれません。
現に主イエスの時代であっても、主イエスに期待して大変好意的なことを言っていた人たちの中から、しばらくすると「イエスを十字架につけろ」と態度を豹変させた人たちもいたに違いないのです。
ところで主イエス御自身は、御自分についての世の中の評判がさほど気になってはおられなかったようです。主イエスは巷での御自分の評判についてお尋ねになった後、今度は弟子たちにお尋ねになりました。実は主イエスは、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と、今日の私たちにもお尋ねになっておられます。主イエスの本心は、実はここにあるのです。
世の中の噂話が問題なのではありません。時代が主イエスのことをどう思っているか、あるいは主イエスのことはもはや全然相手にしていないのか、そういうことが問題なのではありません。「周りの人たちではなく、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と、「あなたがた教会は、そしてまた弟子であるあなたがた自身は、このわたしを何者だと言うのか」と、主イエスは尋ねてくださっています。
この問いかけに、私たちはどう答えるでしょうか。今日の箇所では、ペトロが弟子たちを代表して答えています。「あなたは、メシアです」。「あなた」は「メシア」とは、どういうことを言っているのでしょうか。ペトロはどういうつもりで、こういう返事をしているのでしょうか。
ここではっきりしていることがあります。それは、ペトロがこう答えることで、ペトロをはじめとする弟子たちは主イエスのことを、「他の人間たちと同列に置かない」と言い表しているということです。「あなたは、メシアです」とペトロが言った「メシア」というのは、元々の言葉の意味は「油を注がれた者」です。当時のユダヤはローマ帝国の属国として厳しい管理と支配を受けていました。けれどもユダヤ人たちは、そういう支配を受けながらも、やがてメシアと呼ばれる方が自分たちの間から現れ、自分たちの本来あるべき姿を知らせてくださり、自分たちを団結させてローマ帝国の支配から救い出してくださると考え、そういうメシアの訪れを心待ちにしていました。したがってメシアというのは、当時の考え方からすれば、決して他の人々と比べられたり並び立ったりするような存在ではありません。「神さまの御許から遣わされて、救いと自由と平和を願う人たちに対して新しい生活を与えてくださる方」、それが「メシア」なのです。
「あなたは、メシアです」。私たちもまた、「メシアと呼ばれる主イエス」に聞き、この方に従って生活していくことを通して、新しい生活を歩むようにされていきます。私たちは主イエスを信じて歩んでいく生活の中で、「古い生活に別れを告げ」、「新しい生活を生きるように」と招かれているのです。
古い生活とはどういう生活でしょうか。それは、自分本位の、当たり前のように自分を中心に置いた生活のことです。自分の思いや願いが実現することが良いことだと考え、自分の願った通りに生きることができなければ決して気が済まないと思う。ところがそれでいて、自分の願いや思いは決して変わらず不変なのかというと、そんなことはなく、自分でも気づかないうちにくるくると変わってしまうのです。私たちの心は風見鶏のように節操がなく、今日考えていたことが次の日にはまるで違うということすらあるのです。ところが実際にそうであるにもかかわらず、自分自身が移り気で決して首尾一貫していないことに私たちはなかなか気づかず、いつでも自分の思いは一つの方向に向かっているのだと思い込んでいたりします。
私たちの心は移り気で首尾一貫しないのです。その証拠に、私たちの人生の若い時と歳を取ってからのあり方を比べて見ると、はっきりするでしょう。私たちが若い頃、人生の始まりだった頃にどう考えていたかというと、「自分のなりたいものになれるのだから、早く大人になりたい」と思っていたのではないでしょうか。「早くその道を駆け上がっていきたい」と思って、意気揚々と生きていたかもしれません。ところが人生の最後までいくと、逆なのです。「最後のことは起こらない方がよい」と願います。生きて、そして最後は死んでいく人生で、私たちが生きていく姿勢というのは、始めの頃は確かに前向きなのですが、終わりに差し掛かってくると、いつの間にか、過去を懐かしんだり、その栄光にすがったりしながら、後ろ向きになって終えていくようなところがあります。
私たちは決して、首尾一貫していつも変わらず同じ姿勢でいることはできません。歳を取るにつれて、過去の自分ばかりを追い求めながら、まるでお尻を先頭にして背中向きで人生を生きるようにしてしまう、それが私たちの古い生活であり、私たちの誰もが、元々はそのように生きていたのです。
ところが、主イエスがそこに来てくださって、私たちがたとえどんなに弱っていこうが、惨めになろうが、「それでもあなたの上には、父なる神さまの慈しみが絶えず注がれている」と教えてくださいました。人生の中で、困難で耐え難く思うような苦しみや悲しみや痛みが臨み、それによってすっかり打ち倒されてしまう、そういう時でも、「なおそこで神さまが憐れみをもって支えてくださり、そして休ませてくださって、もう一度そこから立ち上がって、先へと進んでいくことができる命の道を備えてくださる」ことを、主イエスは私たちに知らせてくださるのです。
「どんなに大変な人生でも、そこになお神さまの愛があり慈しみがあるのだ」ということを私たちに教えてくださるために、主イエス御自身は、どんな人よりも辛く険しい道を歩まれました。それが「十字架への道行き」です。主イエスは十字架への道を辿りながら、いつも神に信頼をして歩んで行かれました。「わたしはすっかり見捨てられた。どうしてわたしは見捨てられたのか」と言わざるを得ないほど険しい道を辿っても、なお神への信頼を捨てなかった主イエスを、神は「それで正しい」として甦らせてくださいました。主イエスの十字架の苦しみと復活が、私たちを新しい生活、新しい生き方へと導き入れてくださるのです。
ですから、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問いかけてくださる主イエスの言葉は、十字架と復活の主を信じる者たちを新しい生活へと招いてくださる招きの言葉でもあるのです。
そこで、この大きな招きについて、もう少し踏み込んで考えたいのです。
主イエスが弟子たちに問われた時に、三つの福音書ではそれぞれ書き方が少し違っていました。それに似ていますが、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と主イエスから尋ねられた弟子たちの答えも、三つの福音書で少しずつ違っています。
今日聞いているマルコによる福音書では、ペトロが弟子たちを代表して「あなたは、メシアです」ときっぱり答えています。これによって、主イエスが他のどの人とも比べようがない特別な方なのだということがはっきりと言い表されています。
ところがこのペトロの答えは、マタイによる福音書ではもう一言付け加わっています。16章16節に「あなたはメシア、生ける神の子です」とあります。マタイによる福音書の返事では、主イエスは確かに他の人たちと比べようのない特別なメシアだというだけではなくて、「生ける神の子、神さまの独り子である。従って、人間と比べるなどということは最初から出来るはずのない方だ」ということが強められた形の返事になっています。またルカによる福音書では、「あなたは神からのメシアです」と答えます。これは、主イエスが他の預言者たちのように、神からただ言葉を託されているということではなく、「直接神さまの許からおいでになった救い主であって、神さまに由来する方だ」と語っています。
福音書が書かれた順番から言いますと、マルコによる福音書が一番古く、従ってマルコによる福音書は他の福音書に比べて素朴であることが多いのです。二番目がマタイ、三番目がルカだと言われます。最初のキリスト者たちが「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねられた問いかけを、ただ昔の言い伝えとしてオウム返しに反復して伝えたのではなく、マルコによる福音書が書かれ、マタイによる福音書が書かれ、ルカによる福音書が書かれていく、その当時において、常に今を生きている自分に問いかけられた問いとしてこれを聞き取った結果、時代が新しくなって行くにしたがって、主イエスへの返事にも少しずつ新しい気づきの要素が加わっていったことが分かります。
主イエスはいつの時代にも、私たちに問いかけられます。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。主イエスはここにいる私たち一人ひとりの口からも、主イエスが自分にとってどういう方であると思っているかをお聞きになることを楽しみにしておられるのです。私たちは一体どう返事をするのでしょうか。私たちにとって、主イエス・キリストという方はどのような方なのでしょうか。主イエスはただ古びた教えを説くだけの口うるさい説教者なのでしょうか。それとも日毎に私たちの生活に伴ってくださって、御言葉をもって私たちを慰め、神の慈しみに気づかせてくださる「救い主キリスト」なのでしょうか。
日毎に私たちに伴ってくださるということを巡って、今日の記事からは、なお一つ、聞かされることがあります。
それは、主イエスが弟子たちに向かって、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」とお尋ねになった場所のことです。改めて言うまでもありませんが、主イエスが弟子たちにこの問いをお尋ねになったのは、エルサレムから遠く離れた遙か北の果て、フィリポ・カイサリア地方を巡っている道すがらでした。どうして主イエスはこんなに遠方で、弟子たちにこの問いをお尋ねになったのでしょうか。「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と主イエスがお尋ねになった問いは、ペトロを始めるとする弟子たちから、「あなたはメシアです。あなたは私たちの救い主です」という返事を導き出しました。当然主イエスは、そういう答えがペトロの口から出るかもしれない、あるいは出てほしいと思いながら、この問いを語っておられるのです。
けれども、「あなたはメシア、救い主です」という返事は、最も根本的な主イエスに対する信仰を言い表す言葉です。信仰告白の言葉なのです。今私たちが持っている新共同訳聖書では「メシア」と訳されていますが、原文であるギリシャ語の聖書には、「キリスト」と記されています。つまり、ペトロはここで、「あなたはキリストです」と返事をしています。「主イエスはキリストである」、これを最も短く表す言葉が「主イエス・キリスト」です。
私たちも教会に来るたびに、毎週の礼拝の中で、「主イエス・キリスト、主イエスはキリストである」と口にします。そうしますと、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねられて、「あなたはキリストです」とお答えするのに最もふさわしい場所というのは、礼拝の場所ということになるのではないでしょうか。
そしてこれを主イエスの旅路で考えるならば、この旅はエルサレムに向かっていて、やがてはエルサレム神殿の境内にまで主イエスは行かれるのですから、旅路の最後、エルサレム神殿の境内で、礼拝の場所に至ったところで、主イエスが「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問い、そして弟子たちが「あなたは救い主です。あなたは主イエス・キリストです」と答えるということが相応しいのではないかと思います。
けれども主イエスが弟子たちにお尋ねになった場所は、旅路の途上、遥か北の果ての地であるフィリポ・カイサリアでした。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」、もちろん主イエスはこの問いを、どこで弟子たちに尋ねようかと深く考えて、このフィリポ・カイサリアでお尋ねになったに違いないのです。しかしどうして、こんなに遠くエルサレムから隔たった辺境の地でお尋ねになったのでしょう。
それは、「主イエスはキリストである。私たちの救い主である」ということは、ただ神殿の境内においてだけ、礼拝の時や場所においてだけ、それを口に出しておけば良いというものではないからだろうと思います。
私たちは礼拝から送り出されて、そしてまた次の礼拝に戻ってくる、そういうリズムの中で生活をしています。そして礼拝から礼拝へと過ごしている間には、私たちの日常の生活があるのです。礼拝から送り出された私たちは、それぞれに自分の生活を大変忙しく過ごします。そして、そこからまた次の日曜日に向かって歩んでいく、そういう生活を過ごすのですが、そのように私たちが礼拝から送り出されて次の礼拝へと戻ってくる間の最も遠い地点、ある意味では、日曜日から私たちが最も離れた場所、そのところで主イエスは「あなたは、わたしのことを何者だと思っているのか」と問い、そして私たちの口から、その答えをお聞きになりたいのではないでしょうか。
幼い子供たちは、全身を用いて両親への愛情を表します。それは、一度表しておけばもうそれで十分というものではなくて、子供たちは何度でも「お母さん大好き、お父さん大好き」と言って親しみを表します。また両親の側も、一度聞いたからもう分かっているとうるさがらないで、何度でもその愛情表現を喜んで受け取るのではないでしょうか。
主イエスもそうなのです。主イエスが弟子たち、私たちに「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」とお尋ねになる時、それは、主イエスのために尋ねておられるのではありません。弟子たち、そして私たちが、日毎に主イエスに近くある者だということを言い表して、自分自身を確認できるように、「わたしは主イエスに伴われて、この命を生きることを許されている。本当に幸いな者だ」ということを言い表せるようにと、主イエスは尋ねてくださるのです。
そして主イエスは、私たちの、弟子たちの信仰の言い表しが、たとえどんなに素朴であろうと、どんなに未熟であろうと、非難したりはなさらず、喜んでそれを受け止めてくださいます。私たちは素朴に主の御名を呼んで、「わたしのイエスさま、主イエス・キリスト」と申し上げてよいのです。
教会にいるこの時だけではなくて、私たちがそれぞれの生活を過ごしているその時にも、主イエスは私たちに伴ってくださり、そして私たちが御名を呼ぶときに、絶えず、「神さまの慈しみが、わたしの上に注がれている」ということを思い出させてくださいます。
主の御名を日毎に呼びまつり、そして主イエスに祈りを捧げながら、神の慈しみのもとに置かれている幸いな者であることを確認させられ、歩む者とされたいと願います。お祈りをささげましょう。 |