2022年6月 |
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6月5日 | 6月12日 | 6月19日 | 6月26日 | |||
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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弟子たちの無理解 | 2022年6月第2主日礼拝 6月12日 |
宍戸俊介牧師(文責/聴者) |
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聖書/マルコによる福音書 第8章14〜21節 |
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<14節>弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。<15節>そのとき、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められた。<16節>弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた。<17節>イエスはそれに気づいて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。<18節>目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。<19節>わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。<20節>「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、<21節>イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。 |
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ただいま、マルコによる福音書8章14節から21節までをご一緒にお聞きしました。 パン種は、小麦粉と水で練られた生地を大きく膨らませます。しかしその一方で、パンが大きく膨らんでいくときには、生地の中には目に見えない小さい穴が無数に開くことになります。小さな穴がたくさん開くことで、パンはふっくらと膨らむのです。ところが、そのように小さな穴がたくさんできますと、そこにはパンを悪くするカビの胞子や雑菌が入り込んでくる隙間も生まれることになります。そのようなパン種とパン生地の特性を捉えながら、ここで主イエスはある警告を弟子たちにお語りになったのでした。 ところがこの日、弟子たちは、主イエスのおっしゃった言葉の意味を見事に受け止め損ないました。弟子たちは、主イエスがパン種の話をなさると、それは自分たちの持っているパンが乏しいからそうおっしゃったのだろうと誤解してしまいました。16節に「弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた」とあります。主イエスは、見せかけばかり人間を大きくするようなパン種に気をつけるようにとおっしゃったのですが、弟子たちはそれをパン種ではなくて、パンの話だと思ってしまいました。これは完全な思い違いですが、実は弟子たちがこういう思い違いをしたというところには、私たち人間の実際の姿というものが非常によく表れされているのではないかと思います。弟子たちだけではなく私たちも同じですが、地上の人間の生活の中では、「自分の食べる分のパンがいつも潤沢にあるかどうか」ということが大問題なのです。 主イエスはかつて荒野で空腹になられた時、サタンから誘惑を受けましたが、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きると書いてあるではないか」とおっしゃって、その誘惑を退けられました。しかし弟子たちは主イエスとは違うのです。僅かな空腹も弟子たちには恐るべき驚異のように感じられます。本当に、僅かな空腹にも耐えられないかのようです。 主イエスはそういう弟子たちの心の内を見抜いて言われました。17節に「イエスはそれに気づいて言われた。『なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか』」とあります。「心がかたくなになっている」いうのは、頑固になっているということです。「どうしても十分満腹できるほどのパンが欲しい。それが無いなら決して満足しない」というふうに、頑固になっているのです。「自分の願うものを自分が願ったように手に入れないと気が済まない」、そのように頑固になってしまうと、「神さまが与えてくださっているものを感謝して数え、いただく」ということができなくなってしまうのです。 そのような弟子たちに主イエスは、かつて弟子たちが経験した「ごく僅かな食料で、主イエスが大勢の人々を養われた出来事」を思い起こさせようとします。19節から21節に「『わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。』弟子たちは、『十二です』と言った。『七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。』『七つです』と言うと、イエスは、『まだ悟らないのか』と言われた」とあります。五つのパンで5,000人が、七つのパンで4,000人が養われた時に、弟子たちは人々が満腹して残したパン屑を籠に集めました。つまり、主イエスが大勢の人を僅かなもので養った時、弟子たちはその場にいて、主イエスがそのように人々を満腹させておられる出来事を自分たちも経験していたのです。弟子たちは決して、その時のことを忘れているわけではありません。その証拠に、余ったパン屑を幾つの籠に集めたかと尋ねられると、12とか7とか、正確にその数を言うことができています。 こういう聖書の記事を聞きますと、これもまた、私たち自身の本当の姿がここに語られていると感じる方もいらっしゃるのではないでしょうか。私たちには、4,000人、5,000人の人たちと一緒に腰をおろして野原でパンを食べたという経験はありませんけれども、しかし私たちにもそれぞれに、礼拝の中で御言葉が説き明かされる、あるいは御言葉が直接語りかけられることによって、本当に満ち足り、慰められ解放されたという記憶はあるのではないでしょうか。聖書の御言葉が朗読され説き明かされる中で、自分が気がかりになっている事柄や抱えている心配事や不安から解放させられ、ほっとさせられたという経験を、私たちはそれぞれに持っているのではないかと思います。御言葉と説き明かしによって不安な思いを落ち着かせていただいて慰めが与えられる、そして礼拝から帰っていく時には、置かれている状況は何も変わっていないけれど、しかしもう一度明るい気持ちで自分の生活に向かっていくことができたという経験を、多くの方がお持ちだろうと思います。 しかしそれならば私たちは、今を生きる生活の中で、何の恐れも不安も感じないようなあり方ができているでしょうか。実際の生活の中で、困難や不安や恐れというものに出会う時に、私たちは、「主イエスが一緒なのだから大丈夫」と大船に乗った気持ちでいられるでしょうか。おそらく、そうはならないだろうと思います。 しかしそういう弟子たちに、主イエスはお語りくださり、主イエスに伴われてきた日々の中で何があったかを思い出すように促されました。「5,000人と共に養われた時、あなたはどこにいたのか。4,000人と共に養われた時、あなたはそこで何をしていたのか。あの時、残ったパン屑の籠はいくつあったか」と、主イエスは弟子たちの記憶をもう一度思い返させるようにお語りになりました。 主イエスが「ファリサイ派のパン種とヘロデのパン種によくよく気をつけるように」と言われた時、そのパン種というのは、いずれも内容がないのに人間を高慢にさせて、「自分は貧しくない」というような幻想を抱かせるという誘惑でした。けれども主イエスは、「あなたがたは、たとえ自分は乏しいと思っているとしても、自分自身のありのままの、そのままで大丈夫なのだ」と、そして「実際のあなたの姿よりももっと大きな者だと思い込んで、高慢な者にならないように気をつけなさい」と言われました。私たちは、実際の自分以上の者でなくてもよいのです。弱さや乏しさを抱え、自分の弱さや未熟さに困り果てることがあるとしても、神がそういう私たちを憐れみ、労わり、慈しんでくださるからです。 「まだ悟らないのか。あなたの祈りを聞こうと、わたしは待っている。あなたは自分自身をわたしに委ね、祈り願ってよいのだ」と、主イエスが語りかけ、呼びかけてくださる御声をしっかりと聞き取り、主に願い求める者として育てられていきたいと願います。 |
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