2022年12月 |
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12月4日 | 12月11日 | 12月18日 | 12月25日 | |||
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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降誕 | 2022年12月第4主日礼拝 12月25日 |
宍戸俊介牧師 |
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聖書/ルカによる福音書 第2章8〜20節 |
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<8節>その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。<9節>すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。<10節>天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。<11節>今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。<12節>あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」<13節>すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。<14節>「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」<15節>天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。<16節>そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。<17節>その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。<18節>聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。<19節>しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。<20節>羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。 |
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ただ今、ルカによる福音書2章8節から20節までをご一緒にお聞きしました。10節に「天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる』」とあります。 クリスマスの天使はまず、そういう大きな喜びがやって来ていることを告げた後、それに続けて、それがどこにやって来ているかを指し示します。別に言えば、神のこの度の御業がどこで始まったかを告げ知らせます。11節に「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」とあります。 クリスマスの天使も、この救い主の誕生について、ミカが述べたのと同じことを伝えようとしています。11節で、救い主がどこにお生まれになったかを伝えようとした際、ベツレヘムという町の名前そのままを言う代わりに「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」と言うのです。これは、もったいぶって格好をつけているのではありません。そうではなくて、神御自身の御心のうちでは、主イエスの誕生から1000年も昔、 ダビデがベツレヘムの野原で預言者サムエルによって見出され、イスラエルとユダの王となるように油を注がれたその時に、もう既に救い主がやがて生まれる御計画をお持ちであったことを、こういう言い方で伝えようとしているのです。もちろん、当時、ダビデもサムエルも、この油を注がれた野原がやがて町になり、救い主をお迎えする宿屋がそこに立つことなど知る由もありません。人間からすると1000年というのは途方もない長い時であるように感じられます。しかし「神にとっては、千年は一日のようだ」という聖書の言葉(詩編90編4節、ペトロの手紙二3章8節)がありますけれども、まさしく事情はそのとおりなのです。永遠の昔に神が決意され、計画されたことが、時満ちて地上の人々の前に現れます。それは丁度、私たちが夜空を見上げて瞬く星々の光が、実際には何千年も旅をして私たちに届いているのに似ているかもしれません。 ところで、そういう救い主が私たちのためにも生まれてくださっていることのしるしとして示される光景は、何と不思議なものではないでしょうか。クリスマスの天使は告げます。12節に「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」とあります。「布にくるまれ」、「飼い葉桶の中に」、「寝かされている乳飲み子」、これが、救い主が与えられていることのしるしだと天使は言うのです。クリスマスの場面を描いた絵画やページェントなどで私たちはこの光景を見慣れてしまったので、もはやあまり不思議には思わないかも知れません。いつの間にか当たり前に思っているかもしれません。けれども考えてみると、これは何とも驚かされる光景ではないでしょうか。 しかし考えてみますと、救い主がこの世に来られ、救いがこの世にやって来ているしるしだと聞かされて示されているこの情景と地上の教会の姿には、どこか似ている点が感じられるのではないでしょうか。私たちは今日ここでクリスマスの礼拝をささげ、救い主のお生まれを祝っていますが、しかし、このようにして時を過ごしているのは、社会全体の中では圧倒的に少数者でしょう。日本に限ったことではありません。地上の教会が歩んで来た歴史の中で、たとえば中世のヨーロッパでは、社会全体がキリスト教に彩られていたかのような説明を聞かされることがあります。けれども、興味をもって少し詳しく同べてみますと、中世の封建制度の下で土地の領主がキリスト教に改宗したので、その土地の人たちが皆キリスト教徒として数えられるようになっただけで、実際の生活は元々のままであったりします。人々の間では民俗宗教の妖精たちや森の精霊たちが信じられているままであったり、キリスト教に改宗した領主自身も自分の経済上の利害のために形だけ洗礼を受けただけという場合が少なくないのです。むしろ教会政治的には、突然にキリスト者の人数が増えてしまい、教会が見かけ上豊かになったのと引き換えに、信仰の筋道が分からなくなったり、聖職者たちが不足して堕落してしまうことが珍しくありませんでした。宗教改革というのは、そんな中で、聖書に示されている本来の信仰の筋道に立ち返らなければならないはずだという思いから生まれてきた運動です。そして、そういう本来の信仰のあり方をしなくてはならないと考える群れは、当時のカトリック教会の豊かさに比べれば、はるかに見劣りのするものでした。教会がこの世的に豊かになれば、その分信仰的にはゆるみや堕落が生まれて、「もう一度、本来の飼い葉桶の上に横たえられている乳飲み子の許に立ち返ろう」とする動きが、教会の歴史の中ではくり返し見られてきたのでした。 けれども、私たちは日曜日に礼拝をささげる時、そのような不安や恐れを感じません。むしろここで経験するのは、神との交わりでしょう。御言を通して神が確かに私たち一人ひとりを見守っていて下さり、それぞれに生きるように慰め、励まし、また違った道に進んでしまわないように戒め導いてくださるという経験をします。そして、主イエスがどんなことがあっても確かに私たちと共に歩んでいて下さるということを、いよいよ知るようにされるのです。そのことを実際に感じ経験しているので、私たちは教会の礼拝につながり続けているのではないでしょうか。 そして、そういう教会の歩みは、ただ地上で私たちが熱心に主を拝み礼拝しているだけではありません。地上の教会の歩みを後押しし、応援するかのように、天においても喜び一杯の賛美と喜びの声が響きわたります。13節14節に「すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ』」とあります。 |
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