ただ今、マルコによる福音書12章28節から34節までを、ご一緒にお聞きしました。28節に「彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。『あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか』」とあります。
主イエスの前に進み出た律法学者は、この直前のところで、主イエスがサドカイ派の人々と交わしていた議論を聞いていたと言われています。直前の議論というのは、復活ということを信じていないサドカイ派の人々が復活を信じる人たちに好んで仕掛けた議論でした。「地上の生活の中で、色々な理由により複数の夫と家庭を持つことになった女性がいる。もし復活があるのなら、この女性は復活した時に一体どの夫の妻になるのか。十戒には姦淫してはならないと命じられていて、結婚は一人の夫と一人の妻によるものと定められている。復活などということがもしも本当にあるのなら、この十戒の定めは成り立たなくなるではないか」というのがサドカイ派の言い分でした。彼らは復活の事柄をよく分かっていないため、復活してよみがえることは、この世の生活へと逆戻りしてもう一度生きることだと思っていたのです。
主イエスはそれに対して、きわめて適格に、急所を押さえた返事をなさいます。即ち、サドカイ派の人たちがそのように考えるのは、聖書に語られている事柄も、また神の力についても無知なため思い違いをしているのだと教えられます。「復活といっても、それは悩みと問題を抱え、嘆きの多かった地上の生活にもう一度立ち帰ることではない。神さまを賛美する天使たちのように、永遠の世界において生きることなのだ」と教えられました。律法学者は、そのやりとりを聞いていたのです。
当時の律法学者の中には、ごく少数、サドカイ派に属する人もいたようですが、圧倒的多数はファリサイ派の人たちでした。おそらく、ここで主イエスの前に進み出た人もファリサイ派に属していたものと思われます。彼は、主イエスが完全にサドカイ派の人々との議論にお答えになり、しかも、確かに聖書に照らして正しいことをおっしゃっていると感じました。律法学者である彼がこの場所にいるということは、元々は何か議論を仕掛けて、主イエスの教えの矛盾点を人々の前に明らかにし、そして群衆から主を引き離す目的で、ここに送られていたに違いないのです。しかし、主イエスが大変鮮やかにサドカイ派の人々にお答えになったのを聞いて、挙げ足取りの質問を仕掛けることを止めにしました。むしろファリサイ派である彼自身が、永年の間、疑問に思ってきたことを、率直に主にお尋ねしてみようという気持ちになったのです。彼は、お世辞やおべんちゃらを言わず、率直に、また素直に、永年の疑問を口に出して、「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」と尋ねました。即ち、「律法の中で最大の掟は何か」と彼は尋ねます。
この律法学者が真摯になり、真面目に主イエスに尋ねた問いは、今日ここで礼拝をささげている私たち一人ひとりにとっても、決して関わりのない問いというのではありません。何故なら、私たちが神の御言をそこから聞き取る聖書は、新約聖書だけではないからです。もしも、「主イエスが私たちのために十字架に掛かって下さり、私たちの罪を全て償い清算して下さった。そして復活して私たちと歩んで下さるのだから、あなたはもう、旧約聖書の古い掟からはすっかり自由だ。どんなに自分勝手な生き方をしても良いし、掟などもう一切関係がない」というのであれば、キリスト教会の信じる聖書は新約聖書だけで良いということになってしまいます。しかし実際には、私たちは新約聖書だけでなく、旧約聖書からも神の御言を語りかけられ、聞かされて生活しているのです。
旧約聖書は新約聖書に比べると、はるかに分量が多く、また内容も様々です。古いイスラエルの人々の歩んだ歴史や、神を賛美する詩や掟や約束や預言の言葉も記されています。そのような旧約聖書は、全体として一体何を教えているのでしょうか。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」と尋ねたこの律法学者の問いは、旧約聖書が全体として何を語ろうとしているのかという問いにつながる、とても大切な問いなのです。
この律法学者はこの問いをまことに真摯に、また真剣に主イエスに問うています。主イエスはこの問いにどのようにお答えになるでしょうか。29節から31節に「イエスはお答えになった。『第一の掟は、これである。「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」第二の掟は、これである。「隣人を自分のように愛しなさい。」この二つにまさる掟はほかにない』」とあります。
「旧約聖書の中に記されているあらゆる掟のうち、どれが第一か」という問いかけに対して、主イエスは2箇所の旧約聖書の言葉をお示しになります。1箇所は申命記6章4節から5節に、もう1箇所はレビ記19章18節の後半に述べられている言葉です。主イエスは、2箇所の聖書の言葉をお示しになりました。1つではなく2つお答えになりました。どうしてでしょうか。この2つの掟はどちらも大切で甲乙つけ難いということなのでしょうか。旧約聖書の全体は1つの言葉に集約できるのではなく、集約しようとするとどうしても2つになってしまう、円ではなくて楕円のように2つの中心があるとおっしゃっているのでしょうか。
そうではありません。主イエスは旧約聖書の2つの言葉を示しながら、実はまさに「第一の掟、中心の事柄はただ一つである」ことを教えておられるのです。ただ、その唯一の中心となっている事柄は、2つの面を持っていることを教えられました。ちょうどコインに表と裏があるように、ここで主イエスが教えられた2つの事柄は、両方で1つなのです。
最初に教えられたのは、旧約聖書の申命記6章4節と5節の引用です。「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と教えられます。「神は、ただお一人だけである。この方以外にあなたを本当に守り、導き、持ち運んで下さるような方はおられない。あなたはただこの方だけを、全身全霊をもって愛しなさい」と勧められています。この言葉には、私たち人間が、ただお一人だけの神に対してどのようにあるべきかが語られ、命じられているのです。「心と精神、思いと力を尽くしてこの方を愛しまつること」が求められています。
最初の求めがそのように、「神に対して、あなたがどのようであるべきか」を語っていたのに対し、主イエスが2番目に引用した言葉では、神に対してではなくて、隣の人に対して、即ち人間同士の間柄が教えられています。「隣人を自分のように愛しなさい」というのです。
人が神に向かうということと、人が隣の人に向かうということとは、決して混同されてはなりません。私たちは誰であれ、人間にすぎない相手を神であるかのように畏れたり拝んだりしてはならないのです。人は人であり、決して神ではありません。人をそのように畏れたり有り難がったりすることは、本当の神に対して失礼なことなのです。
日本では卓越した技能を持つ職人のような人について、「神業を行う」とか、「この分野の神である」と言ってもてはやしたりします。しかしそれは、真に唯一の神に対して申し訳ないことをしているのです。
ところで、心の底から神を愛しまつるということと、隣の人を自分自身のように愛するということは決して混同してはならないですが、しかし、この2つを全く別物のように思うことも間違いなのです。神を愛することと、隣人を愛することは、ここで主イエスのおっしゃっていることからすると、コインの表裏のことです。決してそれぞれが別々の事柄というのではありません。
たとえば、神のことは心の底から熱心に愛しているけれども隣の人のことは愛せないという時、それは2つの大切な事柄の半分ができて、あと半分ができていないというのではないのです。そういうあり方は、たとえ本人とすれば神を深く愛しているようなつもりであったとしても、実は全体が歪んで、いびつなあり方になってしまっているのです。
神は一人ひとりの人間が、自己愛だけの中に閉ざされ孤立しないように、交わりの中を生きることを望んでおられます。ですから私たちは、教会の交わりの中に招かれて、共々に神を礼拝する生活へと招かれているのです。礼拝をささげる時、私たちは、ぽつんと自分一人だけが神の前に立つのではありません。たとえ様々な事情によって教会堂に出向くことができず、自宅や今いる場所で一人きりで礼拝をささげざるを得ない状況の下に置かれる時も、私たちは、主イエスを頭とする1つの群れの中にある者として、交わりに抱かれている中で礼拝をささげるのです。
教会の群れは、そこに集う人々お互いの利益のために作られるのではありません。親睦や趣味のために作られるのでもありません。二人または三人がキリストを信じて集まるところには、生けるキリストがいて下さるのですから、教会はどんなに小さくてもキリストを中心とした群れです。主イエス・キリストを救い主と仰ぐ群れです。主イエス・キリストを礼拝し、この主によって私たちに示された三位一体の神を礼拝する群れです。置かれた状況がどのように厳しく、困難であっても、教会が神や主イエスから切り離されて、自分たちだけになることはあり得ません。世俗化しないように、この世の誘惑に抵抗し、困難に耐え、主イエス・キリストがいらっしゃる群れに相応しくなるように努めます。
「隣人のことを、自分を愛するように愛する」ということは、神も主イエスも離れたところで、ただ自分たちだけで好き勝手にすれば良いということではありません。牧師も信徒も、自分たちの気ままに、お互い同士が楽しければそれで良いというのではないのです。神が深く憐れみ、主イエス・キリストの十字架の救いの下に、また神の慈しみの下に私たちを共々に置いて下さり、生きるようにして下さっている生活を、私たちは生きてゆくのです。皆で神を礼拝し、御業をほめたたえながら感謝して、主に支えられていることを喜んで、与えられている一日一日の生活を生きてゆきます。
そのように主イエスは、2つの掟を1つの事柄として下さるのです。「第一の掟、最も大切な掟は何か」と尋ねられて主イエスは、この2つの聖書箇所を示されたのでした。
ところでもしかすると、この主イエスのおっしゃりように怪訝な思いをおぼえる方がいらっしゃるかも知れません。旧約聖書のあらゆる掟、即ち律法の一切は、まずモーセが神から十戒を頂いたことから始まります。すると、最も大切な掟というのは十戒の中に記されている言葉のどれかではないでしょうか。どうして主イエスは、旧約聖書の十戒以外の言葉を2つお選びになるのでしょうか。
実は、主イエスがここで「最大の、第一の掟である」とおっしゃった言葉は、その内容を考えてみますと、十戒そのものと重なる事柄なのです。
シナイ山の頂でモーセが神から十戒を頂いた時には、よく知られているように、2枚の石の板に十戒の言葉が刻まれたものを頂いたのでした。旧約聖書の出エジプト記32章15節にそのことが述べられています。「モーセが身を翻して山を下るとき、二枚の掟の板が彼の手にあり、板には文字が書かれていた。その両面に、表にも裏にも文字が書かれていた。その板は神御自身が作られ、筆跡も神御自身のものであり、板に彫り刻まれていた」とあります。これが最初の十戒です。最もこの板は、細々に砕かれてしまいました。もう一度モーセが手にした十戒は、今度はモーセ自身が石の板を用意して、そこに神の御言を書き記したものだったことが、34章28節に述べられています。しかしいずれにしても、十戒は2枚の石の板に記されていたのです。
このうち、1枚目の板には「神に対して人間がとるべきあり方」、即ち、「神お一人だけを神として、他に偶像があってはならないこと」、「神だけを礼拝してお仕えし、人間の都合でみだりに神のお名前を使ってはならないこと」、そして「安息日を重んじること」が記されていました。それは主イエスがおっしゃった最初の戒めの言葉、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という言葉に通じています。主イエスはこの最初の掟で、十戒の1枚目の板に記されていた事柄全体を要約しておられるのです。そして、2つ目に挙げられた「隣人を自分のように愛しなさい」という掟では、今度は十戒の2枚目の板に記されていた事柄が要約されています。十戒の2枚目の板には、「あなたの父と母を敬いなさい」という戒めに始まって、人間同士の間柄のあるべき姿が考えられているからです。それを要約すれば「隣人を自分のように愛する」ということになるのです。
主イエスのそのような言葉を聞いた律法学者は感銘を受けました。そして、まさにそのとおりだと賛成します。32節と33節です。「律法学者はイエスに言った。『先生、おっしゃるとおりです。「神は唯一である。ほかに神はない」とおっしゃったのは、本当です。そして、「心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する」ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています』」とあります。
この律法学者は、主イエスの教えられたことが全く正しいと同意したのでした。 元々は、主イエスの挙げ足をとって群衆の前で恥をかかせ、主イエスの評判を落としてやろうと思ってこの学者を主イエスの許に送った人たちの思惑からすると、結果は正反対のことになってしまいます。この記事は、ある意味では、読んでいて大変痛快に感じる記事なのですが、しかし私たちは、この記事を読んで溜飲を下げるだけで良いのでしょうか。どうもそうではないような気がするのです。
この律法学者は主イエスに、掟の第一は何かを尋ねました。そして主イエスの言葉を聞いて、真に正しい教えだと言って満足しています。
しかし、ここで問われている事柄は、「最も大切な掟、私たち自身のあり方は何か」という問いです。そしてそれは、あるべき正しいあり方はこれだと聞かされて、それで終わるようなものではありません。正しいあり方、あるべき姿はこれなのだと知らされたなら、次には、そう生きなくてはならない筈なのです。
律法学者は、主イエスの答えの正しさに満足したのですが、私たちもそうするのでしょうか。実際には、主イエスが教えて下さったあり方は、私たちにとって、とても難しいものではないでしょうか。たとえば、「心と精神と思いと力を尽くして、神を主とあがめ、愛する」と口で言うことはできても、実際にそのようなあり方をできるかと考えてみると、私たちにはとてもできないのではないでしょうか。全身全霊をもって主に仕え、主を愛すると口で言うことはできても、実際の私たちのありようは、いつもそういうあるべき姿からは外れていってしまって、気がつけば自分中心に行動し、神のことも主イエスのことも、すっかり忘れ果てているのではないでしょうか。また、隣人を自分のように愛するということも同じです。私たちは実際には、まことに愛に乏しい者ではないでしょうか。愛されることについてはいつもそうなることを願いながら、隣人のことを思ったり、そのために忍耐したりすることは、極めて不得手ではないでしょうか。
そんなことを思うと、主イエスがここで人間のあるべき姿について、2つの言葉に要約し語って下さっていることを聞いても、手放しでは喜べないのです。律法学者は、まことに正しいことを聞いたと言って喜んでいるのですが、しかしそこでは、自分自身がどのような者であるかということは、すっかり失念して喜んでいるのです。
ですから主イエスは、この律法学者に向かって「あなたは、神の国から遠くない」とだけおっしゃいました。遠くないということは、近くにいるけれども、しかし、まだ神の国に入っているというのではないのです。自分の力や自分の知恵では、私たちは、神の国、神のご支配の中に生きることはできないのです。
それならば、私たちはどうしたら良いのでしょうか。それについては、最初から主イエスが教えて下さっています。この福音書の1章15節です。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」とあります。主イエスはおっしゃいます。主イエスが私たちに近寄って来て下さいます。「あなたと一緒に生きてあげよう。だからあなたは、わたしを主と信じなさい」と主イエスはおっしゃるのです。
クリスマスは、そのために起こった出来事です。神の御子である主イエスが私たちと共に生きて下さるために、この世にお生まれになったのです。「主がいつもわたしと共にいて下さる。そして御言をかけ、わたしを正しい道へと導いて下さる」、そのことを信じて悔い改めます。私たちはこのクリスマスに、私たちのために十字架に掛かって下さり、私たちの罪を赦して下さった方が復活して、私たちに出会い、共に生きようと招いて下さる招きを確かに聞き取って、この方に従って生きるように、生き方の向きを変える幸いな者とされたいのです。
御言に心を刺され、自らの破れと弱さを覚えつつも、伴って下さる主によって慰められ、力と勇気を与えられて、ここから歩み出したいのです。
そしてキリストの体の一部として、今日与えられている生活を、心をこめて一歩一歩あゆむ幸いな者とされたいのです。 |