聖書のみことば
2022年12月
  12月4日 12月11日 12月18日 12月25日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

12月4日主日礼拝音声

 神の前に生きる
2022年12月第1主日礼拝 12月4日 
 
宍戸俊介牧師 

聖書/マルコによる福音書 第12章18〜27節

<18節>復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスのところへ来て尋ねた。<19節>「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。<20節>ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。<21節>次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。<22節>こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。<23節>復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」<24節>イエスは言われた。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。<25節>死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。<26節>死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。<27節>神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」

 ただ今、マルコによる福音書12章18節から27節までを、ご一緒にお聞きしました。
 27節で主イエスは「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている」と言われました。主イエスが今日のところでお語りになっておられる言葉は、私たちにとって、あらゆる希望の源となるような言葉です。私たちがすっかり打ちのめされ、深い嘆きと絶望の渕の底に沈む時、主イエスがここで教えて下さっている事柄は、この上ない慰めを与え、力をもたらして下さいます。
 しかしそうであるだけに、もしもここで主イエスが教えようとなさっている事柄を受け取り損なってしまうと、その時には、私たちは深い悲しみと絶望しか自分の周りにないように思ってしまいかねない、そういう御言でもあります。今日のところで主イエスが語りかけて下さっている事柄を心して聞くようでありたいのです。

 主イエスは、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」と言われます。
 この言葉をもしも聞き違えたら、大変なことになります。神が私たちの神でいてくださるのは、私たちが地上で生きている間だけのことで、死んでしまったら縁が切れてしまうというような意味で受け取るなら、それは取り返しのつかない誤った受け取り方をしていることになるのです。それはただの誤解では終わりません。私たちは絶望する他なくなります。即ち、生きている間だけ、神は私たちの神でいて下さり、色々な言葉によって励ましたり、あるべき道を示して下さるけれども、死んでしまったら、もう一切は終わりになるという意味で、「神は死んだ者の神ではない」と言われていると思うなら、それは主イエスのおっしゃっているように「大変な思い違い」をしていることになるのです。
 主イエスに限って、そのようなことをおっしゃる筈はありません。何故なら、主イエスは御自身が私たちの罪と過ちを執り成すために、自ら十字架にお掛かりになられ、死んで下さった方だからです。主イエスは御自身が十字架にお掛かりになり、神に呪われた者の死にざまである木に掛けられた者の死を死んで下さり、陰府の一番深い場所まで降ってくださいました。
 それは、どれ程過ちを重ね、神と人間の前で罪深い失敗を犯し、罰当たりな人生を送った人間の魂でも、主イエスがそこまで降って救って下さるためです。即ち、陰府の最も深いところに沈み込んだ魂でも、主イエスが羊飼いのようにその魂を追い求め、見つけ出し、共にいて下さり、両の腕に抱き取って、よみがえりの命へと導いて下さるために、主イエスは十字架の死を遂げて下さり、復活なさいました。
 そういう主のおっしゃることであれば、「人間は死を境にして、神との関わりがすっかりなくなってしまう」とか、「死を境にして、神はもう私たちの神であることを止めてしまう」などということは、おっしゃる筈がありません。
 ここで主イエスが教えようとしておられる事柄は、むしろまるっきり逆の事柄です。それは、私たちがいわゆる肉体の死と呼ばれるような経験をする時にも、神の力によって私たちはなお存続させられているということ、「主イエスを信じる時、あなたは死んでも生きる者となり、神さまの保護の下に置かれ、神さまの御前に真剣に、また大切に持ち運ばれるのだ」ということが語られているのです。
 このことが、どのような経緯の中で語られたか、また、主イエスがこのことをどのような言い方でおっしゃったかを、今朝はしばらく、聖書に耳を澄まし、聞き取りたいのです。

 発端は数人のサドカイ派の人々が主イエスの許にやって来て、復活をめぐり、議論をしかけたことでした。18節に「復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスのところへ来て尋ねた」とあります。この人々は、主イエスに何事かを教えてもらいたくてやって来ているのではありません。そんな平らな思いでやって来てはいません。むしろ主イエスの挙げ足を取って、大勢の群衆の前で体面を失せ、人々を主イエスから引き離そうという暗い思いを抱いて、主イエスの許に来ています。彼らは、上辺はいかにも低姿勢に、主イエスから復活の事柄について教えてもらいたいような顔をして現れるのですが、しかし既に「復活はない。復活などあり得ない」と自分では答えを持っているのです。その限り、彼らサドカイ派は大変現世的な考え方をする人たちです。この世の富や成功が彼らにとっては唯一のものであり、死後のことなどはまるで考えないのです。
 彼らの質問は復活をめぐっての問いでしたが、いかにもどこかに実例があったかのように見せかけて尋ねます。古い時代には、女性が単独で生きてゆくことは難しいため、幼い時には父親の保護の下にあり、結婚してからは夫の保護の下にあり、そして年を取ってからは息子の保護の下に生活することがごく一般的でした。ところが結婚した相手の男性が早くに亡くなり、その家庭にまだ跡継ぎの息子がいなかった場合、その女性のそれからの生活は、まるで見通しが立たないということになりかねません。それで、そういう場合には、亡くなった夫の兄弟がその女性を妻に迎え、当面の保護を与えると同時に、男子が生まれるように協力し、男子が生まれた時には、最初の夫の名前を嗣がせて元々の家庭が滅びないように配慮することが律法に定められていました。旧約聖書の申命記25章5節6節に、「兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない」とあります。
 このように未亡人を保護する習慣が元々ユダヤにあったのですが、サドカイ派の人々は、この習慣を下敷きに、あるところにいた7人の兄弟たちに起きた出来事を主イエスに物語ります。7人の兄弟たちがある一人の女性と次々に結婚し、しかしその中の誰一人として、彼女のために跡取り息子を残さなかったと言うのです。そしてそのような場合に、もしも復活するということが起こったなら、この女性は7人の兄弟たちの、一体誰の妻になるのだろうかと尋ねます。23節に「復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです」とあります。
 さも不思議そうな顔をして、サドカイ派の人々は主イエスに尋ねます。しかし腹の底には、主イエスに答えを言い淀ませて群衆の前で体面を失わせてやろうという魂胆があります。サドカイ派の人々には復活ということは考えられないのですから、彼らにとっては今の生活があるだけです。命を生きるということは、この地上の生活のことだと思っていますから、死人の復活というのも、死んだ人が今の生活に再び舞い戻ってくるという風にしか考えられません。それで、7人の男性と次々と家庭をもった女性が復活したなら、一体彼女はどの夫の妻になるのかという問いが難問であるように思われるのです。

 実はこういう場合、もしファリサイ派の人々が同じ問いをぶつけられたなら、既に答えが用意されていたのだったと、旧約聖書の研究者たちは口を揃えます。ファリサイ派の理屈に従えば、復活した女性は最初に結婚した男性の妻になるはずだということになります。何故なら、二人目以降の夫は皆、最初の男性の家が断絶しないために、いわば女性に手を貸しただけだからです。当時ファリサイ派の人々はそのように考えたのでした。
 しかし主イエスは、それとは違う答えをなさいます。24節に「イエスは言われた。『あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか』」とあります。主イエスのこの言葉を逆から言うならば、「聖書の中に語られている事柄や、神の力を知らないならば、復活ということは分からない」ということになります。復活という事柄は、まさしく神が力を振るって行なわれる神の御業なのです。神がどのように復活させるか、お決めになるのです。7人の夫に嫁いだ女性が復活の時、またしてもそのように混み入った、そして報われなかった生活に戻されるというのではありません。地上の生活で苦労の多かった人は、よみがえってもまた苦労の多い生活の中に投げ込まれるというのではないのです。
復活の時にはもはや、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだと教えられます。天使といっても、背中に羽が生えるのではありません。そうではなくて、もはや永遠に神を賛美する生活、そして神に仕え、神のみに従って生きるように、私たちは復活させられるのです。そして、そのような中で、永遠に生きる者とされてゆきます。
 主イエスはこのことをイメージさせるために、ユダヤ人にはよく分かる人々をたとえに出して説明されました。26節に「死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の箇所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか」とあります。主イエスはここで、アブラハム、イサク、ヤコブといった彼らの祖先に当たる族長たちの名前をお出しになります。既に地上の歩みを終え眠りについた者たちという意味で、ここに登場しているのではありません。もしも死んだ人たちの代表としてここに名前が出ているのであれば、次の27節のところで、「神は死んだ者たちの神である」ということになるでしょう。しかし、そうではなくて、「神という方は、死んだ者たちではなく生きている者たちの神なのだ」と言われていますから、アブラハム、イサク、ヤコブといった人々は、神の御許の永遠のうちにあって、今も生かされ生きている人たちの代表として、ここに登場しているのです。
 彼らは、地上とは違う天の領域において復活させられ、天使のように盛んに神を賛美し、御業を喜んで見守る民の内に迎えられています。ファリサイ派の人々が考えた、7人の夫に嫁いだ女性が復活の時には最初の夫の妻になるのだということは、苦し紛れに語られた人間の理屈にすぎません。

 しかし、本当の復活は、世を去った一人ひとりが、神によってなおも大切な人として憶えられ、神の力によって永遠の世界に移され、御業を喜び賛美する者に変えられるということなのです。神の力が、か弱く過ちの多かった人間を覆い包み、全く清らかな者に造り変えて下さいます。
 ですから私たちは、世を去った方々について、悲しみ淋しさを覚えるだけでなく、なお希望を持つことができます。

 私たちは、地上の人生を終える時には、神の御力に包まれて、まことに清らかな主の民に変えられ、天の民の一員に迎えられるのです。そのことを信じて、今ここでも、神の御名を崇め、賛える者たちとされたいのです。
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