聖書のみことば
2021年1月
  1月3日 1月10日 1月17日 1月24日 1月31日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

1月24日主日礼拝音声

 神の子、イスラエルの王
2021年1月第4主日礼拝 1月24日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ヨハネによる福音書 第1章43〜51節

<43節>その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。 <44節>フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。<45節>フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」<46節>するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。<47節>イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」 <48節>ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。<49節>ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」<50節>イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」 <51節>更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」

 ただいま、ヨハネによる福音書1章43節から51節までをご一緒にお聞きしました。43節に「その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、『わたしに従いなさい』と言われた」とあります。
 この時までに、主イエスのもとには何人かの弟子が招かれ従うようになっていました。洗礼者ヨハネから主イエスを示された二人の弟子は、一人がアンデレで、もう一人は名前を記されていませんが恐らくこの福音書を著したヨハネだろうと言われています。
 アンデレは、兄のシモンを主イエスのもとに連れてきて、主はシモンに「ペトロ」というニックネームをお付けになりました。けれどもヨハネの兄であるヤコブのことは、この福音書には一切触れられていません。それは、著者ヨハネが自分も含めて近しい者たちの名を伏せているからだと思われます。ですから断定はできませんが、この時主イエスのもとには、アンデレとヨハネ、ペトロとヤコブがいたかもしれません。そして今日の箇所では、さらに二人の弟子が招かれます。フィリポとナタナエルです。そのようにして、証しの一週間の間に主イエスの周りには、弟子たちが一人また一人と招かれていきました。

 けれども、ここに語られていることは、弟子が増えていったということだけではありません。先週聞いたことですが、ヨハネは自分の経験をとして主イエスに招かれた時間のことを述べていました。「それは午後4時のことだった」と言っています。ヨハネは時刻を記しながら、恐らく自分が主イエスから招かれた時の光景をありありと思い起こしていたものと思われます。夕方4時、日が暮れて夜の帳が下りて、辺りが闇に包まれる夜がきます。夕から夜に向かう時は、ユダヤでは新しい一日の始まりの時でもありました。
 主イエスに招かれることで、ヨハネには新しい時が訪れました。しかしそれは、差しあたっては輝かしい昼の時間ではなく、主イエスが十字架にお架かりになる暗闇に向かう、その主と共に歩んでいく、そういう生活でした。
 ヨハネによる福音書のこの先を読みますと、13章でイスカリオテのユダが主イエスを裏切り、敵の手引きをするために過越の食卓から立ち上がって外に出ていく場面が出てきます。30節に「ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった」とあります。ユダの裏切りの時間は夜だったと、ヨハネは記しています。昨べから夜になり、宵の口に主イエスは処刑されてしまいます。けれども、それで終わりではありません。十字架の死の時は復活の朝へと向かって行きます。暗闇がまだ残っている朝早く、朝日によって間もなく完全に明るい光へと変えられる時刻に、主イエスは甦られました。ヨハネにとっては、主イエスは深い闇の時を共に歩んでくださる光であるお方なのです。
 この福音書の初めのところで、「光は暗闇の中で輝いている」と言われていました。暗闇は光を理解しなかったけれども、しかし暗闇は光に勝つことはなかったと言われている通りです。主の御栄光は、暗闇が極まり真っ暗になるところにおいて光輝くのです。ヨハネ自身は、「弟子の招き」についてそのように考えて、「わたしが弟子に招かれたのは、午後4時のことだった」と記しました。けれどもヨハネは、それは自分一人だけのことではなく、「自分たち弟子が主イエスから招かれ弟子になるということがどういうことなのか。弟子になる、そのところで何が起こっているのか」ということをよくよく考え抜いて語っています。
 その結果、ヨハネによる福音書では、主イエスの弟子とされていく「召命」の記事の描かれ方が他の3つの福音書と全く違っています。その違いが最もはっきりした形で表されているのが、今日の箇所の最初でフィリポが招かれているところです。

 フィリポの招きについて、43節に「その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「『わたしに従いなさい』と言われた」とあります。ここには、他の福音書であれば当然書かれているはずの一言が記されていません。省略されている言葉は何か。「フィリポはこれを聞いて主に従った」という一言です。他の福音書では、主に招かれたならば、「主に従う」ということがとても大事にされています。
 例えばマルコによる福音書では、弟子の招きは1章に記されています。主イエスがガリラヤ湖で網をうっているシモンと兄弟アンデレに出会われ、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と声をかけてくださいます。「二人はすぐに網を捨てて従った」と言われています。そしてまた先に進みますと、主イエスが「ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしている」のを御覧になりお呼びになると、「この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った」と言われています。2章では、徴税人のレビが弟子に招かれます。「アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った」と言われています。マルコを例に取りましたが、マタイでもルカでも、主イエスから招かれた人は、その後、「主イエスに従った。ついて行った」と、必ず語られます。
 主イエスが一人一人をお招きになると、招かれた人は今まで歩んできた生活に別れを告げて、主イエスと共に生きていく新しい生活へと踏み出していくのです。「新しい生活に踏み出していくこと、それこそが主の弟子になることだ」と、ヨハネ以外の3つの福音書は異口同音に語ります。そこにあるのは一つの決断です。「今から主イエスに従って行こう。主と共に生きる人生を生きよう」とする思い、決心です。もちろん、そこにはまず主イエスの招きがあります。自分から主の弟子になるというのではないのですが、3つの福音書では、それまでの日常生活から、「主イエスに従っていく生活へと入っていく」こと、それが主の弟子になることだと語るのです。

 ところが、ヨハネによる福音書は違っています。フィリポの招きの記事には「フィリポは従った」と記されていません。一体どうしてでしょうか。主イエスに招かれたフィリポは従わなかったのでしょうか。そんなことはなく、フィリポは主イエスに従っています。
 ヨハネは、一連の弟子の招きの記事の中で、一人一人の弟子が従ったということを記すのではなく、「どうしてその人が主イエスに従うことになったのか。なぜ主イエスに従っているのか、なぜ、どうして」を言い表そうとしています。弟子たちの方から従おうとしたということではなく、「主イエスの御言葉や不思議な力に圧倒されて生きる、そういう生活が弟子とされて生きることなのだ」と言い表そうとしているのです。
 証しの一週間と呼ばれている箇所では、出てくる人たちが口々に、主イエスがどういうお方であるか、その人なりの証しをします。最初は洗礼者ヨハネでした。ヨハネは、主イエスの上に聖霊が留まっているのを見て、この方こそ霊によって自分たちを新しい生活に入らせてくださるお方だという意味で、主イエスを「神の小羊」と言い表しました。そのヨハネの言葉を聞いて主イエスの後をついて行ったアンデレは、主イエスのもとに宿った後、兄のシモンに会って「私たちはメシアに出会った」と証しました。

 そして今日の箇所では、フィリポがナタナエルを訪れて主イエスを証しました。45節に「フィリポはナタナエルに出会って言った。『わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ』」とあります。フィリポは主イエスを「モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方」と言いました。この時代、聖書とは旧約聖書で、「律法と預言者の書」と呼ばれていました。ですからフィリポが言ったことは「主イエスは、旧約聖書に証しされている方。やがてこういう救い主が現れると約束されている方、そういうお方にわたしは出会った」ということです。
 先に、証しの一週間は天地創造の一週間に合わせて記されていると申しました。今日の箇所で、フィリポは主イエスに出会った瞬間に、「わたしに従いなさい」とひとこと言われただけで「主イエスは旧約聖書に証しされているお方だ」と分かったようにも聞こえてしまいます。けれどもそうではないと思います。フィリポは、先に主に招かれていたペトロやアンデレと同じベトサイダの出身だと言われています。同郷の兄弟子たちのいる群れに招かれ、兄弟子たちに主イエスのことを教えてもらいながら、またフィリポ自身も主イエスと共に生活していく中で、「この方は、まさに聖書に証しされているお方に間違いない」という信仰に導かれたものと思われます。44節に「フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった」とわざわざ書かれていることで、そのような経緯をそれとなく語っています。

 ところで、フィリポの証しを聞いたナタナエルは、最初はフィリポの言ったことを受け入れませんでした。46節前半に「するとナタナエルが、『ナザレから何か良いものが出るだろうか』と言った」とあります。フィリポは「旧約聖書がずっと待ち望んできたお方に、わたしは出会った。それはナザレ出身の人だった」と言いましたが、ナタナエルはそれを聞いて訝しく思い、聞き返しました。そもそも旧約聖書には「ナザレ」という地は出てきません。その土地に関する神の約束も何も語られていません。ナタナエルはそれで「ナザレから何か良いものが出るだろうか。そんな約束は聖書に書かれていないではないか」と言ったのでした。ナタナエルは、フィリポの言葉だけでは納得しませんでした。
 それに対してフィリポは「とにかく来てみなさい」と招きました。主イエスに実際に一度会ってみるようにと勧めています。主イエスについての話を聞いても、それはただの情報に過ぎません。フィリポは情報を与えるのではなく、主イエスその方との出会いを持つようにとナタナエルを導きました。

 そして、ナタナエルは主イエスと出会いました。その出会いの中で不思議なことが起こりました。主イエスがナタナエルの人柄を一目で見抜かれました。47節48節に「イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。『見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。』ナタナエルが、『どうしてわたしを知っておられるのですか』と言うと、イエスは答えて、『わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た』と言われた」とあります。「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に」とは、その直前ということではありません。また「いちじくの木の下にいた」というのは、ナタナエルがラビから聖書の教えを熱心に学んでいたことを表しています。当時、学者たちは、大きな木の下で聖書を教えました。ですから、フィリポがナタナエルを招こうとするずっと以前から、主イエスはナタナエルを知っていたということです。「あなたは熱心に聖書のことを聞こうとしていた。だからあなたを『まことのイスラエル人だ』と言ったのだ」と、それが主イエスの返事でした。
 ナタナエルは驚きました。自分の過去を主イエスに言い当てられて、すっかりそのことに圧倒されてしまいました。そしてナタナエルは、「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」と言いました。主イエスに向かってナタナエルは「あなたは神の子です」と告白しています。
 少し前に、アンデレがペトロに主イエスのことを伝えた際には、「私たちはメシアに出会った」と言っていました。アンデレもナタナエルも「あなたはメシアです。あなたは神の子です」と言い表しています。主イエスに向かって弟子たちが「あなたは神の子、メシアです」と告白するのは、マタイ、マルコ、ルカ福音書では、主イエスが弟子たちをお招きになり、生活を共にされた先のところです。主イエスが弟子たちと共に生活され、随分な時が経ったところで、こういう弟子たちの信仰の言葉が聞かれるようになります。そして、主イエスはそういう弟子たちの信仰の言葉をお聞きになって、いよいよ救い主としての御業を果たすためにエルサレムに向かう決心を固められます。
 どの福音書も同じですが、マタイによる福音書16章15節16節には「イエスが言われた。『それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。』シモン・ペトロが、『あなたはメシア、生ける神の子です』と答えた」とあります。この場面は、主イエスが弟子たちとガリラヤ地方を巡りながら共に生活して、ガリラヤで多くのことを教えられ、そして最後に信仰の言葉が弟子たちの口から語られる、そういう場面です。これは3つの福音書でいえば、ハイライト、頂点をなすような場面です。主イエスはこの信仰の言葉を大変喜ばれ、マタイでは、「この信仰の言葉の上に教会を建てよう」と言って、シモンに「ペトロ=岩」というあだ名を与えられたと語られます。

 さて、3つの福音書で語られているそういう言葉が、ヨハネによる福音書では早々と、主イエスが弟子たちを招かれた最初の場面で語られています。これは一体どういうことでしょうか。主イエスと弟子たちが生活を共にしてしばらく経って、弟子たちに与えられた信仰の境地というのは、初めから分かっていたことなのでしょうか。そうではありません。
 今日聞いている証しの一週間の記事は、1章19節で洗礼者ヨハネが証しをするところから始まって、2章11節で主イエスが最初のしるしである奇跡を行われ、主イエスがご自身の栄光を表され、弟子たちが主イエスを信じるというところまで続きます。証しの一週間の記事は、時間的な一週間を行っているのではありません。神が7日で世界をお造りになり、最終日には安息の時を迎えて、そこで命を喜ばれたと語られていますが、それと重なるように語られています。証しの一週間は、主イエスの周りに主を信じる弟子たちの群れが形作られれいく、そして最後の日に、主イエスの栄光がしるしの奇跡という形で示される、そこに向かって行きます。弟子たちは「主イエスを信じ、主イエスを中心にして神を礼拝し賛美して、与えられた命を感謝する。そういう新しい共同体が形作られていく。主を信じる群れとして育てられていく」のです。
 そういう中で、主イエスを「メシア、神の子」と告白するということが起こってきます。この福音書を書いているヨハネは、そういうことが、主イエスの招きに圧倒されることで生じるのだということを伝えようとしています。

 ナタナエルもまた、主イエスに出会って、その言葉に大変驚かされています。初めて会ったのに、主イエスが自分のこれまでのあり方をすべてご存知だったからです。このように自分のことを言い当てられる経験というのは、ナタナエルやあるいは初対面で「岩」と渾名されたペトロだけに起こっていることでしょうか。私たちも実は、毎週の礼拝の中で、聖書の御言葉が説き明かされる時に、どうして自分のことを言い当てられているのだろうかと不思議に思うことはないでしょうか。教師になる前の私にもそういう経験がありました。教師になって御言葉を説き明かす務めに当たっていますと、時々「今日のお話はまるでわたしのために話されているみたいでした。どうしてわたしのことが分かるのですか」と尋ねられることがあります。もちろん、分かって話しているのではありません。主イエスが私たちのことをご存知でいてくださり、主イエスの言葉が聖書の中に語られているので、それを説き明かすと、聞く人は皆まるで自分のことを言われているように思う、そういうことが起こるのです。
 「聖書の言葉がわたしを知っている」、そう思うからこそ私たちは信仰へと導かれるのではないでしょうか。ここに出てくる弟子たちは口々に、主イエスの不思議な力を証しします。「神の小羊、メシア、ラビ、神の子イスラエルの王」など、それはいずれも主イエスの不思議な言葉、不思議な力に圧倒された人たちが自分の経験を言い表そうとしている賛美の言葉なのです。

 弟子たちはそのように口々に主イエスを証ししますが、主イエスご自身はそういう弟子たちに向かって言われます。50節51節に「イエスは答えて言われた。『いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。』更に言われた。『はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる』」とあります。
 かつて旧約聖書の時代に、族長ヤコブが家を追われ、故郷を捨てて放浪の旅に出た時、最初の晩にヤコブは一つの夢を見ました。天が開け梯子が下りてきて、その梯子を通って天使たちが自分の上を昇ったり下りたりしながら忙しく働いている、そういう夢です。その夢は、「神さまがヤコブと共に、どこまでも居てくださる。どこにいても守り、持ち運んでくださる」という約束を表す夢でした。
 主イエスは言われました。「わたしに従ってくる生活の中で、あなたがたもヤコブが見たのとよく似た幻を示されるようになる」と。「神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」、「人の子」とは主イエスのことです。主イエスの上に天使たちが昇り下りして、主イエスの御業に仕え、主と共にいる人々をも守り、それによって人々は慰められ生きるようになるのです。「あなたは、わたしに従ってくる生活の中で、そういう経験をするのだよ」と、主イエスは言われました。ヤコブが梯子の夢を見たのは、彼の生涯の中で最も心細く危険の中に置かれていた晩でした。主イエスもまた、この世の闇が極まったところで十字架に架けられ、死に、そして復活へと進まれ、闇の中に輝く光となってくださいました。

 教会生活は、ただ御言葉の説き明かしによって自分のことが言い当てられたとか、この世の闇に光が当てられこの世の善悪がはっきり示される、そういうことだけではありません。何よりも「神さまがわたしと共に生きようとしてくださる。神さまの保護のもとにわたしは生かされている」ことを知らされて生きていく生活なのです。神の力に圧倒されるというのは、そういうことだろうと思います。私たちは、自分一人で生きていると思っていたけれど、そうではなく、「神さまが確かにわたしの上にいてくださる。そしてわたしの上に御使いたちを昇り下りさせてくださっている。本当に必要な支えが、語りかけが与えられ、慰めと勇気が与えられながら自分の人生を歩んでいくようにされる」、それが弟子として生きる生活であることを、この福音書は語っています。

 「わたしに従いなさい」とフィリポに主イエスが語ってくださった招きが、今日ここにいる私たちの上にも呼びかけられています。主イエスに従っていく生活の中で、神に支えられ、慰められ、勇気づけられ、主イエスを証しする者へと育てられていきたいと願います。
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