聖書のみことば
2020年7月
  7月5日 7月12日 7月19日 7月26日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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1月5日主日礼拝音声

 キリストの宣教
2020年7月第4主日礼拝 7月26日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/使徒言行録 第19章11〜20節

<11節>神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた。<12節>彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気はいやされ、悪霊どもも出て行くほどであった。<13節>ところが、各地を巡り歩くユダヤ人の祈祷師たちの中にも、悪霊どもに取りつかれている人々に向かい、試みに、主 の名を唱えて、「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」と言う者があった。<14節>ユダヤ人の祭司長スケワという者の七人の息子たちがこんなことをしていた。<15節>悪霊は彼らに言い返した。「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ。」<16節>そして、悪霊に取りつかれている男が、この祈祷師たちに飛びかかって押さえつけ、ひどい目に遭わせたので、彼らは裸にされ、傷つけられて、その家から逃げ出した。<17節>このことがエフェソに住むユダヤ人やギリシア人すべてに知れ渡ったので、人々は皆恐れを抱き、主イエスの名は大いにあがめられるようになった。<18節>信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行をはっきり告白した。<19節>また、魔術を行っていた多くの者も、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てた。その値段を見積もってみると、銀貨五万枚にもなった。<20節>このようにして、主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増していった。

 ただいま、使徒言行録19章11節から20節までをご一緒にお聞きしました。使徒パウロの手を通して不思議な癒しの業や徴が行われていたと述べられています。11節12節に「神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた。彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気はいやされ、悪霊どもも出て行くほどであった」とあります。
 パウロが関わった奇跡ですが、聖書は注意深く、「これはパウロが自分で行ったことではない。神がそれをパウロの手を通して行ってくださったのだ」と述べています。ここでは、パウロが誰かに手を触れるとか、言葉をかけるとか、そういうことで癒しを行ったということ以上のことが語られています。
 パウロが身につけていた手拭いや前掛けに触れることで心身の病が癒されることがあったと言われています。本当にこのようなことがあったのであろうかと不思議に思われるかもしれません。実は、こういう出来事はパウロが初めてではありません。既にマルコによる福音書5章には、主イエスが、長年の出血性の病気で悩んでいた婦人に後ろから触れられ、その婦人が主イエスの衣の裾にでも触れれば癒されるのではないかという期待を持って触れたところ、本当に病が癒されたと語られています。あるいは使徒言行録5章では、使徒ペトロの影がかかることで病気が癒されたと語られています。いずれにせよ、不思議なことが聖書には語られています。
 ただ、そういう聖書の言葉を聞く際に、きちんと弁えておきたいことがあります。不思議な癒しを伝える出来事は、主イエスの衣、ペトロの影、パウロの手拭いや前掛けに、何か魔法の力が宿っていて起こるということではないのです。そうではなく、主イエスを信じることで、主イエスの真の御支配が一人一人の上に及んでくる、その結果として病の癒しも起こっているということを覚えたいと思います。
 主イエスがこの世の様々な悩み、嘆き、悪の力に打ち勝ってくださることの目に見える徴として、癒しとか悪霊が人から出ていくということが起こるのです。パウロやペトロが主イエスを信じ、主イエスに仕えて働いた、そのときにペトロやパウロに出会った人たちが同じように主イエスを信じる、そこで不思議なことが起こったのだということを聖書は伝えています。甦った主イエスが信じる一人一人と共にいてくださる。そして、一人一人を好ましい方向へと変えてくださる結果として、不思議な徴や奇跡の出来事が起こりました。この点を聖書は注意深く語っていて、神がパウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われたのだと言っています。

 ですから、今日の記事は、形の上の異常さとか不思議さに首をかしげ心を奪われるのではなく、まさにキリスト者一人一人と共に生きてくださっている甦りの主、命の主が支配なさるところでは、死と闇の勢力が力を失い過ぎ去っていく、その具体的な例としてこの記事を受け止めたいのです。
 もし、今日のこの記事を命の主が完全に勝利してくださった出来事だと、信仰によって真剣に受け止めようとしないならば、その時には、ここに起こっている一切のことが魔術になってしまいます。この記事は、既に1世紀において、不思議な癒しの出来事が行われたその当時、その現場においても、出来事を魔術的に受け止めて誤解してしまうことがあったのだということを伝える記事でもあります。
 不思議な癒しや奇跡というものを、信仰の側から受け取って、「主イエスが勝利してくださったので、わたしはそれによって力をいただくことができる」と感謝して歩む場合もありますが、そうならない場合もあるのです。そしてその時には、全く違う受け止めになります。信仰によって生じる奇跡は、人間が神にそれを祈り願う、「どうか、わたしを何とかしてください」と祈る、そしてその祈りを神が引き上げてくださるという仕方で生じます。その時に、キリスト者である人はしばしば経験することですが、私たちの祈りは必ずしも、自分が祈り求めたその通りの形で聞かれるとは限りません。自分が思いもしなかった形で、あるいは、「祈ってもすぐには聞かれなかったけれど、随分後になって思いがけない仕方でいろいろなことに解決が与えられた。それはずっと遡って考えてみると、わたしが祈っていたことだった」というふうに祈りが聞かれることを経験します。「祈りに答えてくださって奇跡をなさるのは、あくまでも神なのだ」ということが、信仰によって奇跡を願う人の場合には、はっきりしています。
 ところが、魔術の場合にはそうではありません。魔術の場合には、神が中心ではなく人間が中心になります。それを行おうとする人が中心になって不思議を起こします。その際に、神を利用して神を操ろうとするのです。神はこの世で何か得体の知れないものを持っているようだから、それを巧みに利用して何かを行ってやろうとするのです。ですから、魔術を行おうとする人にとっては、神とはアニメのドラえもんに出てくる「どこでもドア」のようなもので、それを出しさえすれば、どこへでも自分の行きたいところに辿り着けるように用いようとする、人間が起こそうとする不思議、魔術にはそんなところがあります。
 信仰による奇跡というのは、いつも畏れをもって神にお仕えするところに生じますが、魔術による不思議は自分のために神を利用する、神的なものを利用するという形で行われます。神を自分の思いのままに、自分の願いや都合に合わせて利用しようとすることこそ、魔術の正体です。

 エフェソの町でパウロを通して神が御業を行ってくださり、信仰の奇跡が生じました。ところがその時、この町にいた魔術師たちは、大変な興味を覚えました。今日の箇所にはその一例が記されています。ユダヤ人の祭司長スケワという人の7人の息子たちがいて、彼らはパウロを通して行われた信仰の奇跡を、パウロ自身が操っている一つのテクニックだと考えました。ですから、同じような手順を踏んで同じよう行えば、人間の心理はうまく働いて同じように病気が治るかも知れないと考えました。それでテクニックを真似て行ったところ、とんでもないことが起こりました。13節から16節に「ところが、各地を巡り歩くユダヤ人の祈祷師たちの中にも、悪霊どもに取りつかれている人々に向かい、試みに、主イエスの名を唱えて、『パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる』と言う者があった。ユダヤ人の祭司長スケワという者の七人の息子たちがこんなことをしていた。悪霊は彼らに言い返した。『イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ。』そして、悪霊に取りつかれている男が、この祈祷師たちに飛びかかって押さえつけ、ひどい目に遭わせたので、彼らは裸にされ、傷つけられて、その家から逃げ出した」とあります。
 主イエスのことを宣べ伝えているパウロを悪霊たちは恐れています。けれども、本当には主イエスの保護のもとにいない魔術師たちを悪霊たちは少しも恐れません。彼らに襲いかかって大怪我をさせたと記されています。悪霊は、勝利の主の前にはおののきますが、その主の御名を自分の都合のために利用しようとする偽物には襲いかかります。主の支配と保護のもとにいない人間であれば、何を言っていても悪霊にとっては恐れではありません。
 このエフェソで起こった出来事は大変示唆的です。この事件は、私たちが神そのお方を自分自身の目的や自分の都合のために利用しようとする時には、とんでもない結果に繋がってしまうということを教えているからです。
 私たちが仮に口先だけで「主よ、主よ」と唱えながら、しかしその実は、主の御名を自分のために利用しようとしているに過ぎないならば、私たちはいずれ偽りの衣を剥ぎ取られて、惨めな裸の自分自身を晒すことになるのです。悪霊たちは、自分と同類の者に対して全く恐れません。けれども、真の主である主イエス、聖なるお方の前には打ち伏せられてしまいます。
 私たちの教会、私たちの信仰生活は果たしてどうなのだろうかということを、この聖書の記事を聞かされながら考えさせられます。私たち自身は、本当に、神が送ってくださる聖霊が宿るのに相応しい場になっているでしょうか。真の主である主イエスを私たちの中にお迎えして、「どうぞ、わたしの中にお住みください。イエスさま、あなたはわたしの主です」と、主イエスが宿ってくださるのに相応しいところとなっているでしょうか。エフェソでの事件は、そういうことを私たちに教え戒めています。

 ところで、このような魔術師たちの失敗の噂は、エフェソの町の中で瞬く間に広まりました。まことの神を自分の都合や目的のために用いようとした、そのことへの恐れ、また、神の御前に偽りのない者にならなければならないという思いが、この町の人たちの中に巻き起こります。ユダヤ人もギリシア人も、信仰に入りキリスト者となった大勢の人たちも一様に恐れを覚え、自らの安易さと過ちをはっきりと言い表して悔い改めるようになったと言われています。17節18節に「このことがエフェソに住むユダヤ人やギリシア人すべてに知れ渡ったので、人々は皆恐れを抱き、主イエスの名は大いにあがめられるようになった。信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行をはっきり告白した」とあります。
 主イエスや神を信じていないギリシア人やユダヤ人が恐れただけではありません。ここには、「信仰に入った大勢の人たちが自分たちの悪行をはっきり告白した」と言われています。今回のことでは何よりも、キリスト者たちが最もショックを受けました。それはどうしてかと言いますと、自分自身の信仰生活の中に、何か自分中心に生きてしまおうとする力、魔術の方に向かってしまおうとする傾きがあるということに気づかされたからです。神に向かい神にお仕えして生きる、それが信仰生活であるはずなのに、知らず知らずのうちに不順なあり方が忍び込んできてしまう。そして、信仰と言いつつ、いつの間にか自分の利益や都合のために神を利用しようとしている、魔術を操ろうとするような傾きが自分の中にあるのではないかと気づかされて、キリスト者たちは自分の過ちをはっきりと言い表すようになったと言われています。

 すなわちこの出来事を通して、エフェソのキリスト者たちは、すっかり目が醒めました。目から鱗が落ちたという思いだったのだろうと思います。改めて振り返ってみると、エフェソの教会の人たちは、確かに自分たちは聖書を持っているし神の御言葉により頼んでいるけれど、それと同時に、なおたくさんの魔術の本も抱え込んでいることに思い当たりました。神に仕える信仰生活が自分の全てになっているのではなく、神に仕えているけれど、しかし自分のためにも神を役立てようとする。場合によって、都合が悪ければ神を無視したり、神に背中をむけて御言葉が聞こえないようなふりをしている信仰生活だったということに思い当たります。

 しかし、そういうあり方では全てが神に知られてしまっているということに気付いて、エフェソのキリスト者たちは、様々な本を家から持ち出してきて、町の広場に積み上げ火をつけて燃やしてしまいます。計算高い人というのはどこにでもいて、このように燃やされた本の値段はいくらくらいだろうかと計算したところ、銀5万という巨額になったのだと言われています。19節に「また、魔術を行っていた多くの者も、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てた。その値段を見積もってみると、銀貨五万枚にもなった」とあります。
 ここには銀5万枚と書いてあるだけで、銀貨とはっきり書いてあるわけではありません。ですから何を数えて5万なのか、よく分からないのですが、仮にこれがデナリオン銀貨であるとすれば、当時の1デナリオンは一日働いて得られる、生活できる収入ですから、1年に310日働くとすれば、5万デナリオンは一人の人が170年働いて得られる金額ということになります。一人の人の一生分以上の収入に相当する魔術の本が家の中に隠されていました。それではいけないと気付いた人たちは、魔術の本を惜しげもなく燃やしてしまいました。
 計算高い人がいると先ほど言いましたが、そういう人であれば、もしかすると、本を燃やしたりしないで古本屋に売れば収入にもなるのにと考えたかもしれません。けれども、エフェソ教会のキリスト者たちは、計算高く、また一時の熱情で行っているのではありません。愚かな行動だったということではないのです。そうではなく、本当に心からの悔い改めを表す、そういう行動でした。
 というのも、もしもこれらの本が古本屋に売られたとすると、その先どうなったでしょうか。悔い改めて一時は魔術の本を手放したとしても、町中を歩いていますと、古本屋の店先には毎日毎日、自分が手放したはずの魔術の本が並んでいることになります。今は一時魔術を離れたようであっても、やがてまた「何か都合の良いことないだろうか」と考え始め、ついそのような本に手が伸びてしまうのではないかと思います。ですから、エフェソのキリスト者たちは、どうしても焼き捨てなければならないと思ったのでした。
 主イエスに捕らえられた人は、もはやこの世の損得の打算で動くのではなく、本当に自分は主イエスのものとなって生きているかどうか、それが問題だと考えるようになるのです。

 そしてまた、エフェソの町で焼き捨てられたたくさんの本が魔術の本だったということからは、他のことも考えさせられます。最近では地球環境への関心が高まっていて、私たちの生活の仕方によっては、将来、自然がすっかり荒れ果てて人間が住めなくなってしまうのではないかと、そんなことが真剣に取り沙汰される時代です。環境にかかる負荷を抑えるために、スーパーやコンビニでは、もはやレジ袋を無料で配ってはいません。いわゆる持続可能な世界を作ることができるかどうか、それが問われています。けれども、元々を辿っていくと、地球環境の悪化、汚染はどこから生まれてきたのでしょうか。汚染物質ということだけではなく、元々を辿れば、私たち人間が自分の都合の良いこと、便利なこと、楽なことを追いかけてきた結果と言えます。そう考えますと、この世界の汚染の原因は、私たち人間の魂が汚染されている、そして私たちがこの世界、自然を守っていくような生き方ができなくなりつつあるというところに原因があるのではないでしょうか。自分自身の利益、経済的な利潤ばかりを求め有り難がる、そういうあり方を私たちは当たり前にしています。そしてその結果、私たちが自分の利益を得ようとして自然からどんどんと搾取してくるので、もはや水も土も空気も安全と言えないような深刻な事態が生まれつつあるのです。
 エフェソの町で起こっている魔術の本の焼却というのは、単なる不用品の焼却と言えないのではないかと思います。
 この世界が今日、脅かされ住みにくくなっている、その原因は、実は私たち自身の魂が汚染され毒されている、そしてそこから私たちの公共性が歪んでしまっているところにあります。自分のことばかり考えていて、一緒に生きるということが蔑ろになっている。私たちはこの世界を、更に若い世代に、あるいはまだ生まれていない次の世代に手渡していくために、自分自身の中にある魔術の本を引っ張り出してきて、それを積み上げ焼き捨ててしまわなければならないのではないかと、この記事を読んでいて思わされます。

 神はエフェソの町に福音を伝えました。エフェソの町は「アルテミス神殿」があることで有名でしたが、その町に救いをもたらすために、神はまず何をなさったか。町の人たちの魂を清めるというところから手をつけられました。神がそのようにして福音をお伝えになったのであれば、私たちもまた、私たちの教会のあるこの町の人たちが救いに入れられますようにと祈り願いながら生きる時、まず祈り願うべきことは、ここに集められている私たち自身の魂が神によって清められるということではないでしょうか。自分の利益や都合が第一に来るのではなく、「神がお造りになったこの世界で、皆で生きていくために、わたしは命を与えられている。だからそのように生きたい」という志を与えられ、また祈りをもってここから生き始めることが私たちに求められているのではないでしょうか。

 悪霊が私たちを狙って攻め寄せてくる時、もし私たちが上辺だけのキリスト者の生活をしているとしたら、それはちょうど砂で作った堤防を水が突き破るようなもので、あっという間に悪霊は私たちの全てを押し流していくに違いありません。
そうならないためにも私たちは、自分の内側にある、焼き捨てるべきものへの注意をいつも持つようでありたいと思います。
 私たちが福音の御言葉に耳を傾け、それが自分の拠り所であると確かに覚えて、「神さま、どうか、わたしが生きるべき相応しいあり方をさせていただけますように」と祈りながら、心の底から清められて、御言葉に励まされ、喜んで生活できる幸いな者とされたいと願います。

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