2020年7月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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キリストの宣教 | 2020年7月第4主日礼拝 7月26日 |
宍戸俊介牧師(文責/聴者) |
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聖書/使徒言行録 第19章11〜20節 |
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<11節>神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた。<12節>彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気はいやされ、悪霊どもも出て行くほどであった。<13節>ところが、各地を巡り歩くユダヤ人の祈祷師たちの中にも、悪霊どもに取りつかれている人々に向かい、試みに、主 の名を唱えて、「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」と言う者があった。<14節>ユダヤ人の祭司長スケワという者の七人の息子たちがこんなことをしていた。<15節>悪霊は彼らに言い返した。「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ。」<16節>そして、悪霊に取りつかれている男が、この祈祷師たちに飛びかかって押さえつけ、ひどい目に遭わせたので、彼らは裸にされ、傷つけられて、その家から逃げ出した。<17節>このことがエフェソに住むユダヤ人やギリシア人すべてに知れ渡ったので、人々は皆恐れを抱き、主イエスの名は大いにあがめられるようになった。<18節>信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行をはっきり告白した。<19節>また、魔術を行っていた多くの者も、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てた。その値段を見積もってみると、銀貨五万枚にもなった。<20節>このようにして、主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増していった。 |
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ただいま、使徒言行録19章11節から20節までをご一緒にお聞きしました。使徒パウロの手を通して不思議な癒しの業や徴が行われていたと述べられています。11節12節に「神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた。彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気はいやされ、悪霊どもも出て行くほどであった」とあります。 ですから、今日の記事は、形の上の異常さとか不思議さに首をかしげ心を奪われるのではなく、まさにキリスト者一人一人と共に生きてくださっている甦りの主、命の主が支配なさるところでは、死と闇の勢力が力を失い過ぎ去っていく、その具体的な例としてこの記事を受け止めたいのです。 エフェソの町でパウロを通して神が御業を行ってくださり、信仰の奇跡が生じました。ところがその時、この町にいた魔術師たちは、大変な興味を覚えました。今日の箇所にはその一例が記されています。ユダヤ人の祭司長スケワという人の7人の息子たちがいて、彼らはパウロを通して行われた信仰の奇跡を、パウロ自身が操っている一つのテクニックだと考えました。ですから、同じような手順を踏んで同じよう行えば、人間の心理はうまく働いて同じように病気が治るかも知れないと考えました。それでテクニックを真似て行ったところ、とんでもないことが起こりました。13節から16節に「ところが、各地を巡り歩くユダヤ人の祈祷師たちの中にも、悪霊どもに取りつかれている人々に向かい、試みに、主イエスの名を唱えて、『パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる』と言う者があった。ユダヤ人の祭司長スケワという者の七人の息子たちがこんなことをしていた。悪霊は彼らに言い返した。『イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ。』そして、悪霊に取りつかれている男が、この祈祷師たちに飛びかかって押さえつけ、ひどい目に遭わせたので、彼らは裸にされ、傷つけられて、その家から逃げ出した」とあります。 ところで、このような魔術師たちの失敗の噂は、エフェソの町の中で瞬く間に広まりました。まことの神を自分の都合や目的のために用いようとした、そのことへの恐れ、また、神の御前に偽りのない者にならなければならないという思いが、この町の人たちの中に巻き起こります。ユダヤ人もギリシア人も、信仰に入りキリスト者となった大勢の人たちも一様に恐れを覚え、自らの安易さと過ちをはっきりと言い表して悔い改めるようになったと言われています。17節18節に「このことがエフェソに住むユダヤ人やギリシア人すべてに知れ渡ったので、人々は皆恐れを抱き、主イエスの名は大いにあがめられるようになった。信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行をはっきり告白した」とあります。 すなわちこの出来事を通して、エフェソのキリスト者たちは、すっかり目が醒めました。目から鱗が落ちたという思いだったのだろうと思います。改めて振り返ってみると、エフェソの教会の人たちは、確かに自分たちは聖書を持っているし神の御言葉により頼んでいるけれど、それと同時に、なおたくさんの魔術の本も抱え込んでいることに思い当たりました。神に仕える信仰生活が自分の全てになっているのではなく、神に仕えているけれど、しかし自分のためにも神を役立てようとする。場合によって、都合が悪ければ神を無視したり、神に背中をむけて御言葉が聞こえないようなふりをしている信仰生活だったということに思い当たります。 しかし、そういうあり方では全てが神に知られてしまっているということに気付いて、エフェソのキリスト者たちは、様々な本を家から持ち出してきて、町の広場に積み上げ火をつけて燃やしてしまいます。計算高い人というのはどこにでもいて、このように燃やされた本の値段はいくらくらいだろうかと計算したところ、銀5万という巨額になったのだと言われています。19節に「また、魔術を行っていた多くの者も、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てた。その値段を見積もってみると、銀貨五万枚にもなった」とあります。 そしてまた、エフェソの町で焼き捨てられたたくさんの本が魔術の本だったということからは、他のことも考えさせられます。最近では地球環境への関心が高まっていて、私たちの生活の仕方によっては、将来、自然がすっかり荒れ果てて人間が住めなくなってしまうのではないかと、そんなことが真剣に取り沙汰される時代です。環境にかかる負荷を抑えるために、スーパーやコンビニでは、もはやレジ袋を無料で配ってはいません。いわゆる持続可能な世界を作ることができるかどうか、それが問われています。けれども、元々を辿っていくと、地球環境の悪化、汚染はどこから生まれてきたのでしょうか。汚染物質ということだけではなく、元々を辿れば、私たち人間が自分の都合の良いこと、便利なこと、楽なことを追いかけてきた結果と言えます。そう考えますと、この世界の汚染の原因は、私たち人間の魂が汚染されている、そして私たちがこの世界、自然を守っていくような生き方ができなくなりつつあるというところに原因があるのではないでしょうか。自分自身の利益、経済的な利潤ばかりを求め有り難がる、そういうあり方を私たちは当たり前にしています。そしてその結果、私たちが自分の利益を得ようとして自然からどんどんと搾取してくるので、もはや水も土も空気も安全と言えないような深刻な事態が生まれつつあるのです。 神はエフェソの町に福音を伝えました。エフェソの町は「アルテミス神殿」があることで有名でしたが、その町に救いをもたらすために、神はまず何をなさったか。町の人たちの魂を清めるというところから手をつけられました。神がそのようにして福音をお伝えになったのであれば、私たちもまた、私たちの教会のあるこの町の人たちが救いに入れられますようにと祈り願いながら生きる時、まず祈り願うべきことは、ここに集められている私たち自身の魂が神によって清められるということではないでしょうか。自分の利益や都合が第一に来るのではなく、「神がお造りになったこの世界で、皆で生きていくために、わたしは命を与えられている。だからそのように生きたい」という志を与えられ、また祈りをもってここから生き始めることが私たちに求められているのではないでしょうか。 悪霊が私たちを狙って攻め寄せてくる時、もし私たちが上辺だけのキリスト者の生活をしているとしたら、それはちょうど砂で作った堤防を水が突き破るようなもので、あっという間に悪霊は私たちの全てを押し流していくに違いありません。 |
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