聖書のみことば
2020年7月
  7月5日 7月12日 7月19日 7月26日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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7月12日主日礼拝音声

 神様の民
2020年7月第2主日礼拝 7月12日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/使徒言行録 第18章1〜17節

 <1節>その後、パウロはアテネを去ってコリントへ行った。<2節>ここで、ポントス州出身のアキラというユダヤ人とその妻プリスキラに出会った。クラウディウス帝が全ユダヤ人をローマから退去させるようにと命令したので、最近イタリアから来たのである。パウロはこの二人を訪ね、<3節>職業が同じであったので、彼らの家に住み込んで、一緒に仕事をした。その職業はテント造りであった。<4節>パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人やギリシア人の説得に努めていた。<5節>シラスとテモテがマケドニア州からやって来ると、パウロは御言葉を語ることに専念し、ユダヤ人に対してメシアはイエスであると力強く証しした。<6節>しかし、彼らが反抗し、口汚くののしったので、パウロは服の塵を振り払って言った。「あなたたちの血は、あなたたちの頭に降りかかれ。わたしには責任がない。今後、わたしは異邦人の方へ行く。」<7節>パウロはそこを去り、神をあがめるティティオ・ユストという人の家に移った。彼の家は会堂の隣にあった。<8節>会堂長のクリスポは、一家をあげて主を信じるようになった。また、コリントの多くの人々も、パウロの言葉を聞いて信じ、洗礼を受けた。<9節>ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。<10節>わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」 <11節>パウロは一年六か月の間ここにとどまって、人々に神の言葉を教えた。<12節>ガリオンがアカイア州の地方総督であったときのことである。ユダヤ人たちが一団となってパウロを襲い、法廷に引き立てて行って、 <13節>「この男は、律法に違反するようなしかたで神をあがめるようにと、人々を唆しております」と言った。<14節>パウロが話し始めようとしたとき、ガリオンはユダヤ人に向かって言った。「ユダヤ人諸君、これが不正な行為とか悪質な犯罪とかであるならば、当然諸君の訴えを受理するが、<15節>問題が教えとか名称とか諸君の律法に関するものならば、自分たちで解決するがよい。わたしは、そんなことの審判者になるつもりはない。」<16節>そして、彼らを法廷から追い出した。<17節>すると、群衆は会堂長のソステネを捕まえて、法廷の前で殴りつけた。しかし、ガリオンはそれに全く心を留めなかった。

 ただいま、使徒言行録18章1節から17節までをご一緒にお聞きしました。1節に「その後、パウロはアテネを去ってコリントへ行った」とあります。
 先にアテネの町を訪れたパウロは、町の至る所に様々な神々の祭壇や偶像があるのを見て憤慨し、ただお一人のまことの神について、また神がお遣わしになった救い主ついて、熱心に伝えようとして、その町の哲学者たちに論争を挑みました。しかし彼らはパウロの言葉を理解せず、パウロをアレオパゴスの評議所に呼び出し話をさせましたが、パウロが最も伝えたかった福音、神がお遣わしになった救い主が復活されたのだという話を聞くと、あからさまに嘲る人もいて、殆ど聞いてもらえませんでした。ですからパウロは、アテネで懸命に働きましたが、成果はというとあまり芳しくありませんでした。信じた人の名は二人しかなく、後が続かない状況でした。
 そして、パウロはアテネでの伝道に区切りをつけ、アカイア州の都であるコリントへ移りました。それがこの1節です。

 コリントに来たときのパウロは、人間的な言い方をするならば自信喪失の状況でした。後にコリントの町の教会に向けて出した手紙、コリントの信徒への手紙一2章3節にパウロは「そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした」と書いています。パウロがコリントに来た当初は、決して、伝道の先行きに明るさを見出すことができませんでした。パウロ自身の自信喪失に加えて、コリントの町も、およそ神を信じる信仰と縁の無さそうな町でした。
当時のコリントは、アカイア州の州都として、商業、貿易の町として栄えていましたが、繁栄の光の影に暗闇の部分も宿していました。当時のコリントについては「コリント風」と呼ばれるような、遊興三昧の挙句、身を持ち崩してしまうまで放蕩に明け暮れるという暮らしがある、歓楽街の連なる町と見られていました。
 パウロはコリントに滞在中に、ローマの信徒への手紙とテサロニケの信徒への手紙を書いたと言われていますが、ローマの信徒への手紙に人間の悪徳について書き連ねている箇所があり、それはパウロがコリントの町で実際に見聞きした事柄を記したのだろうと言われています。ローマの信徒への手紙1章28節から31節に「彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です」とあります。何ともすざまじい悪徳のリストですが、パウロはコリントをこのように見ていました。ですから、この町に福音を根付かせることは、とても出来そうにないと思っていました。まさに「衰弱と恐れと不安」の中にありました。

 ところが、そんなパウロに神が一つの御言葉をお与えになりました。それは大変不思議な言葉です。今日の箇所の9節10節です。「ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。『恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ』」。
 「わたしの民が大勢いる」と主イエスは言われました。「わたしの民」とは「主を信じる群れ」を指しているのですが、これは本当のことでしょうか。興楽的な空気に彩られているコリントの町に、本当に、主を信じる人が大勢いるのでしょうか。神は言葉だけでパウロを励ますだけではなく、実際の有様によっても支えてくださいました。
 アテネで上手く伝道できなかった苦い思いを持ってコリントにやって来て、町の様子を見て、とても取りつく島のないと思っているパウロが、しかしこのコリントで思いがけず、キリスト者との出会いを与えられるのです。アキラとプリスキラという夫婦です。アキラの仕事がたまたま同業のテント作りであったために、パウロは彼らの家に身を寄せ、仕事を手伝いながら何とか生計を立てることができました。そして、そういう徴を与えられる中で、恐れ怯えていたパウロは、少しずつ伝道者としての活力を回復されていくようになるのです。パウロは神の御言葉に勇気を与えられ、徴に励まされながら、少なくとも1年6ヶ月、2年近くこの町に腰を据えて福音を伝えました。
 こういう伝道者パウロの姿、また教会の成り立ちを考えますと、教会というものがどういうものなのかということを教えられるのではないでしょうか。コリントの町は、伝道者パウロにとって前途有望な町とは思えませんでした。またパウロ自身も疲れ切っていて、とても力ある宣教活動を展開するというような状況ではありませんでした。ですからこの町の教会の成り立ちの発端にあったのは何かというと、パウロの頑張りでも、町の人たちの素直さでもなく、「この町には、わたしの民が大勢いる」という主イエスの御言葉でした。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ」、パウロはこの御言葉に支えられ勇気づけられて、腰を据え、その結果、コリントの町にキリストを信じる教会が栄えるようになっていきました。

 コリント教会の成り立ちについて、パウロは、町の中でもあまり目立たず重んじられることの少ない人たちが、まずパウロの言葉に耳を傾けてくれたと語っています。コリントの信徒への手紙一1章26節から31節です。「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。 また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりになるためです」。
 コリント教会で最初のメンバーになっていった人たちは、大通りに面したビルや大邸宅の中からやって来たのではなく、いわば小さな路地から湧き出てくるような、そういう人たちでした。そして、そういう人たちの中には、かつて怪しげな生活を営んでいた人たちも多くいたようです。そして、キリスト者になっても、そういうものに引っ張られるということもあったようです。コリントの信徒への手紙一6章9節から11節に「正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。あなたがたの中にはそのような者もいました。しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています」とあります。コリント教会の中には、こういう人たちがいたとパウロは言っていますから、パウロからすれば、最初は決して自分の話に耳を傾けてはくれないだろうと思っていた人たちの中から、実際には、パウロの語る福音に耳を傾け信じるようになった人たちが現れたことを表しています。コリントの町にキリストの教会が誕生し、神を畏れ、神に従って生活する人たちが現れたことは、まさに奇跡としか言いようがありません。

 コリントの教会の成り立ちはこのように不思議ですが、パウロが最初この町で伝道を始めるにあたり、大変困り戸惑うことがありました。この町での伝道はゼロからの出発でした。アキラとプリスキラに会うことによって、ようやく一息つくことができましたが、それまでのパウロは無一文のまま困窮していたようです。コリントの信徒への手紙二11章9節に「あなたがたのもとで生活に不自由したとき、だれにも負担をかけませんでした」とあります。生活に不自由したと、パウロはあからさまに書いています。けれども、この町に人たちに養ってもらおうという気は更々なかったようです。ですから、この町でアキラとプリスキラに出会ったということは本当に有り難いことだったに違いありません。
 ところが、この夫婦は、元々からコリントにいた人たちではありませんでした。彼らは元々はローマに住んでいましたが、ローマでユダヤ人の迫害が起こったために、コリントに逃げて来たと言われています。ですから、この夫婦がコリントに住んでいたことも、人間的に言えばたまたまということになりますが、本当に不思議な神のなさりようで、困窮しているパウロを助けるために夫婦をコリントに先に送ってくださっていたのだと言えると思います。それで、パウロは夫婦の家に同居して仕事を手伝い、その日暮ですがかろうじて生計を立てていました。

 そして、そういう生活の中から、安息日にはユダヤ人の会堂に出かけていき、福音を伝えようと努めました。しかしここでもアテネと同様に、シラスやテモテという同労者がいませんので、パウロの言葉を裏付けてくれる人がいない中で、やはりコリントでもユダヤ人の会堂ではなかなか福音を信じてもらえませんでした。会堂でユダヤ人に話しても、誰も聞いてくれません。ですから、パウロは自信喪失していくことになるのです。
 そういうパウロの元に、伝道の協力者であるシラスとテモテが、漸く追いついて来てくれました。二人がマケドニアでの教会の働きに一定の目処をつけてコリントに来てくれたことは、パウロにとって本当に力を与えられることでした。二人はまず、フィリピ教会から献げ物、伝道協力のための献金を持って来てくれました。それによってまずパウロの生活は安定しましたが、それ以上に嬉しかったことは、パウロが敵に追われて心を残しながら去ったテサロニケ教会が、町の険悪な空気にも拘らず大変意気軒昂に礼拝を守っている様子が伝えられたことです。その知らせを聞いたときにパウロがどんなに喜んだかは、テサロニケの信徒への手紙一3章6節7節に「ところで、テモテがそちらからわたしたちのもとに今帰って来て、あなたがたの信仰と愛について、うれしい知らせを伝えてくれました。また、あなたがたがいつも好意をもってわたしたちを覚えていてくれること、更に、わたしたちがあなたがたにぜひ会いたいと望んでいるように、あなたがたもわたしたちにしきりに会いたがっていることを知らせてくれました。それで、兄弟たち、わたしたちは、あらゆる困難と苦難に直面しながらも、あなたがたの信仰によって励まされました」とありました。これがまさに、マケドニアからテモテがパウロを訪れたときに、パウロが感じた喜びです。「今、わたしたちはあらゆる困難に直面しているけれど、あなたがたの信仰によって励まされている」と語っています。
 テサロニケ教会は、敵の迫害によってパウロが命の危険に晒され心を残したまま去らなければならなかった教会でしたが、しかし健気に信仰生活に励み、パウロとの再会を心待ちにしてくれているという知らせを聞いて、パウロは励まされながら、自分が伝道者として働いたことを神が用いてくださることに気づかされて、少しずつ力を与えられ、元気になっていきました。

 シラスとテモテが合流してくれたことで、コリントの町でもユダヤ教の会堂において、パウロの言っていることが確かだと証言してくれることになり、大いに助けられ、パウロは見違えるように力強く福音を語るようになりました。
 ところが、その結果はというと、会堂のユダヤ人たちとパウロは激しく衝突するようになってしまいました。パウロにとっては大変辛いことでしたが、ユダヤ人からは憎しみのこもった反抗が繰り返し行われ、とうとうパウロは言いました。6節です。「しかし、彼らが反抗し、口汚くののしったので、パウロは服の塵を振り払って言った。『あなたたちの血は、あなたたちの頭に降りかかれ。わたしには責任がない。今後、わたしは異邦人の方へ行く』」。
 このように、パウロが礼拝の場所と決別しましたので、別の礼拝の場所が必要になりますが、恐らく、会堂でパウロの言葉を聞いて信じた人だと思われるティティオ・ユストという人が、自分の家をキリスト者の集会のために提供することを申し出てくれました。
 けれども、これも不思議な成り行きですが、ユストの家はユダヤ教の会堂と隣り合わせだったため、キリスト者の集会とユダヤ人の集会の間にどんどんと緊張感が高まりました。そのような中で、ユダヤ教の会堂長だったクリスポが一家をあげてパウロの言っていることを信じて洗礼を受け、またユダヤ人の中に何人もの改宗者が現れました。キリスト教会にとっては嬉しいことですが、ユダヤ教の側では怒り心頭に発する状況でした。
 そして、そういう激しい敵意のために、パウロはとうとう本当に病気になってしまいました。テサロニケの信徒への手紙一2章18節に「だから、そちらへ行こうと思いました。殊に、わたしパウロは一度ならず行こうとしたのですが、サタンによって妨げられました」とあります。「サタンによって妨げられた」というのが、パウロが病気になったことを言い表しています。
 この時の病気については、コリントの信徒への手紙二12章7節に「また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです」とあります。 どちらの書簡にも、サタンがパウロに関わって自由を奪ったということが語られています。パウロはテサロニケ教会に是非行きたいと願いましたが、コリントの緊張した状況の中で病気になってしまったために行けなかったと語っています。

 そういうわけですから、パウロはコリントを去ろうと考え始めました。ところが、まさにそのような時に与えられている御言葉が、今日の使徒言行録の箇所です。「ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。『恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ』」。この言葉に励まされ支えられて、疲れ切って病を得ているパウロは、なお1年6ヶ月の間コリントに留まり続け、腰を据えて伝道し、コリント教会が建てられていったのです。

 そしてコリントは、どのようになっていったでしょうか。紀元51年の初夏になって、コリントにガリオンという新しい総督が赴任して来ました。ガリオンは、大変有名な哲学者であるセネカの兄に当たります。総督が変わった時に、ユダヤ人たちは、パウロとキリスト教会を訴えました。裁判の日、ユダヤ人たちは、皇帝の手前、ガリオンがどうしてもパウロを裁かなければならないと思うような口実を設けて訴えを起こしました。ところが、ガリオンは聡明な人なので、訴えの本質が宗教上の論争であることを見抜き、それには関わらないという態度を貫き、訴えを退けました。ユダヤ人たちは思い通りにならなかった腹いせに、クリスポの後任の会堂長ソステネを責め、打ちたたきました。
 それでパウロは、ここでは捕らえられたものの害を受けることはありませんでした。まさに「わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない」との御言葉の通り、パウロは守られていました。

 コリント教会について、使徒言行録を読む限りでは、著者であるルカが同行していなかったために詳しいことが記されていませんが、パウロがこの時期に書き送った手紙、ローマの信徒への手紙、テサロニケの信徒への手紙、また後にこの時のことを振り返って書いたコリントの信徒への手紙を読んでみますと、大変多くの苦難を経験したことがわかります。
 また、パウロは本当に、アキラとプリスキラに支えられながら、この町で伝道していくことができたのですが、この二人については、ローマの信徒への手紙16章3節に「キリスト・イエスに結ばれてわたしの協力者となっている、プリスカとアキラによろしく。命がけでわたしの命を守ってくれたこの人たちに、わたしだけでなく、異邦人のすべての教会が感謝しています」と書かれています。コリントにいたはずの二人がなぜローマにいるのか、少し理屈が合わないように思いますが、これは彼らが一時的にローマに戻っていた時に手紙が書かれたためだろうと思われます。この二人が「命がけでわたしの命を守ってくれた」というのですから、逆に言えば、バウロの命に関わる事柄が他にもあったということになります。ただそのことを、パウロは何もルカに語らなかったために、使徒言行録には記されていません。パウロのコリント滞在は、使徒言行録に書かれているよりもはるかに多くの苦労がありました。
 パウロを批判した人たち、憎む人たちが、その当時やつれ果てていたパウロの様子を嘲っていたことが、コリントの信徒への手紙二10章10節で分かります。パウロは「わたしのことを、『手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない』と言う者たちがいるからです」と書いています。
 パウロは確かに、コリントですっかり疲れ、弱り果てていました。けれども、外面に現れた弱さや苦しみや困難にもかかわらず、神はパウロを祝福して、コリントの町に教会を建てるという業のために用いてくださいました。

 パウロはコリントの教会に宛てた手紙の中で、有名な言葉を残しています。「力は、弱さの中でこそ十分に発揮される」という言葉です。教会はどうして建てられていくのでしょうか。人間が大勢集まって、人間が建てていくと思う方が多いと思いますが、ここには、そうではないと示されています。神がこの地に教会を建てるのだとおっしゃり、そのために働き人を用いていかれます。私たちは、自分はそのような働きに用いられるような者ではないと思うかもしれませんが、本当に弱り果て、くたびれ果てていても、あるいは病気であっても、神はそのままの姿で、その人を意味ある者として持ち運んでくださるのです。パウロも厳しい状況がありましたが、神に用いられ祝福されて、コリント教会を建てていくことに用いられていったのです。
 神が御言葉をもって支え、建ててくださるのでなければ、教会は立ちません。人間の業は本当に虚しく、自分たちだけでは滅んでいくほかありません。しかし、神が御言葉によって支えてくださる時に、私たちがどんなに弱かろうと、どんなに貧しかろうと、どんなに小さい者であろうと、どんなに社会的に信用がなかろうと、私たちはそれでも神に用いられ、神の業に仕える僕とされていきます。この町で福音を告げ知らせ、神が「わたしの民が大勢いる」とおっしゃるその人たちが、福音に招かれ、主イエスを信じて終わりまで生きることができるために、私たちも与えられている務めを精一杯果たす者とされたいと願います。

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