2020年7月 |
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7月5日 | 7月12日 | 7月19日 | 7月26日 | |||
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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知られざる神 | 2020年7月第1主日礼拝 7月5日 |
宍戸俊介牧師(文責/聴者) |
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聖書/使徒言行録 第17章15〜34節 |
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17章<15節>パウロに付き添った人々は、彼をアテネまで連れて行った。そしてできるだけ早く来るようにという、シラスとテモテに対するパウロの指示を受けて帰って行った。<16節>パウロはアテネで二人を待っている間に、この町の至るところに偶像があるのを見て憤慨した。<17節>それで、会堂ではユダヤ人や神をあがめる人々と論じ、また、広場では居合わせた人々と毎日論じ合っていた。<18節>また、エピクロス派やストア派の幾人かの哲学者もパウロと討論したが、その中には、「このおしゃべりは、何を言いたいのだろうか」と言う者もいれば、「彼は外国の神々の宣伝をする者らしい」と言う者もいた。パウロが、イエスと復活について福音を告げ知らせていたからである。<19節>そこで、彼らはパウロをアレオパゴスに連れて行き、こう言った。「あなたが説いているこの新しい教えがどんなものか、知らせてもらえないか。<20節>奇妙なことをわたしたちに聞かせているが、それがどんな意味なのか知りたいのだ。」<21節>すべてのアテネ人やそこに在留する外国人は、何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、時を過ごしていたのである。<22節>パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。<23節>道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。 <24節>世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。<25節>また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。<26節>神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。<27節>これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。<28節>皆さんのうちのある詩人たちも、『我らは神の中に生き、動き、存在する』『我らもその子孫である』と、言っているとおりです。<29節>わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。<30節>さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。<31節>それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」<32節>死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。<33節>それで、パウロはその場を立ち去った。<34節>しかし、彼について行って信仰に入った者も、何人かいた。その中にはアレオパゴスの議員ディオニシオ、またダマリスという婦人やその他の人々もいた。 |
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このところ、パウロたちが福音を携えて世界中を旅して回った伝道旅行の出来事を聖書から聞いています。今は第2回目の旅行の最中ですが、パウロたちはこの旅行でエーゲ海を渡りヨーロッパに来ました。そしてまず最初に、ヨーロッパの玄関口に当たるフィリピやテサロニケというマケドニア州の町々に福音を伝えます。 さて、今日聞いた箇所では、マケドニアを離れて南のアカイア州へと来ています。マケドニアを離れたのはどうしてでしょうか。テサロニケでならず者に命を狙われましたが、難を避けるためにパウロたちはベレアへと避難しました。ところがベレアまでテサロニケのならず者が追いかけてきて、伝道活動を邪魔するということが起こりました。パウロたちを避難させようとした人たちは、マケドニアにパウロたちが居たのでは、いつまでも活動を邪魔されると思ったのか、マケドニアとは別の行政区画であるアカイア州のアテネまで連れて行きました。17章15節には「パウロに付き添った人々は、彼をアテネまで連れて行った。そしてできるだけ早く来るようにという、シラスとテモテに対するパウロの指示を受けて帰って行った」とあります。 それで、パウロはアテネでは、これまでにない新しいことを始めました。つまり、アテネには、アゴラと呼ばれていた哲学者たちが集まる広場がありましたが、パウロはそこに出かけて行き、ギリシア哲学の哲学者たちを相手に、主イエスの福音を宣べ伝えようと試みたのでした。16節17節に「パウロはアテネで二人を待っている間に、この町の至るところに偶像があるのを見て憤慨した。それで、会堂ではユダヤ人や神をあがめる人々と論じ、また、広場では居合わせた人々と毎日論じ合っていた」とあります。 パウロが議論をふっかけた相手は、どう反応したでしょうか。18節に「また、エピクロス派やストア派の幾人かの哲学者もパウロと討論したが、その中には、『このおしゃべりは、何を言いたいのだろうか』と言う者もいれば、『彼は外国の神々の宣伝をする者らしい』と言う者もいた。パウロが、イエスと復活について福音を告げ知らせていたからである」とあります。パウロは「おしゃべり者」と嘲られました。この言葉は元々は「タネの言葉」という文字です。鳥が喜んで種をついばんでいる時にピーチクパーチク鳴いている、そういう言葉と聞こえたということです。文語訳聖書では「囀る者、何を言わんとするか」と書かれています。パウロの言葉はまるで小鳥の囀りのようだと言われたのです。 パウロはそういう場所に呼び出されました。そして、その尋問の場において、まことに歯に衣着せず辛辣と思えるようなことを言います。パウロはまず、町中で見かけた一つの祭壇から話の糸口を求めました。22節に「パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。『アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、「知られざる神に」と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう』」とあります。「知られざる神に」という言葉に、パウロは糸口を見出しました。アテネの人たちにとって、パウロが伝えようとしている神は、まさしく「知らない神、知られざる神」だからです。アテネの人たちは、この時まで、聖書に示された神について何も知りません。町中にユダヤ教の会堂があるにも拘らず、パウロが伝えようとする神については、ほとんど知りません。それで、パウロは神のことを伝えようと、この日、三つのことを話しています。 第一は、「あなたがたが知らないこの神さまは、天地の造り主であって、この地の外に立っておられる」ということです。神はギリシア哲学者が考えるような、この世界にある第一原因のような者ではない。神は何もないところから、この世界とその中の万物をお造りになった方、創造主なので、世界の外に立っておられるのだと語りました。24節25節で「世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです」と言っています。 二番目のこととして、パウロは「神はまことの支配者であり主であるお方だ」と語りました。30節です。「さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます」。高い文化があり知恵があると思っていたギリシア人の前で堂々と、パウロは、「あなたがたが過ごして来たのは、無知な時代である。これまで神さまは、そういう無知を大目に見てくださったので、『知られざる神に』と書いてある祭壇も通用させてくださった。けれども今からは違う」と語りました。今や、パウロを通してアテネの人たちにも「知られざる神」がどなたであるかが告げ知らされたのだから、これからは「神さまについては知らない」では済まされないと語りました。今やアテネの人たちは聖書の神に対して悔い改めなければならない。真の神に立ち返って創造主である神を信じなければならないと語りました。そしてそのことは、アテネの人たちが様々な偶像や悪霊の呪縛から解放されて行くことになるのだと伝えました。 三番目のことは、「神は審判者であり裁き主だ」ということです。神は創造主であり、天地の支配者であり同時に裁き主であるとパウロは語りました。神は決して侮られるようなお方ではない。神はご自身が主であることを示し、やがて裁きの日を訪れさせてくださる。その日には、ユダヤ人にもギリシア人にも、すべての人が責任を問われるようになる。神はその裁きを、甦りの主イエスを通してなさるのだと、パウロは語りました。31節「それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです」。神が裁き主であって、その裁きは先に選ばれた一人の方によって行われる。その方は死者の中から復活したのだと、パウロは語りました。 ところが、パウロがこの三番目のことを語り始めると、ここまで辛抱してパウロの言葉に耳を傾けていたアレオパゴスの議員たちが、パウロに語ることを止めさせました。恐らく、今までのところで十分パウロの言葉に対する反発は高まっていたと思います。ある人は露骨に嘲りを示し、別の人は、上辺は平静を装っています。32節です。「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った」。しかし、パウロはもう二度と評議所に呼び出されることはありませんでした。そして程なくして、パウロはアテネを後にしました。その後、パウロがアテネに戻ったかどうかは分かりません。アテネに教会ができたとも伝えられていません。 けれどもパウロは、そのような成り行きにも少しも動じません。パウロは、信仰というものがどのようなものか、よく弁えていたからです。すなわち主イエスが、富める青年と対話をなさった後で、「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。金持ちが神の国に入るよりも、ラクダが針の穴を通る方がまだ易しい」とおっしゃった言葉の意味を、パウロはよく分かっていました。金持ちというのは、ただ金銭的な財産がある人だけを指しているのではありません。知識や能力、教養、文化、社会的名誉、あるいは自分の誇り、そうしたことで鼻が高くなり驕っている人、そういう人たちは神の前に膝を屈めて、神の御支配に服するということがなかなかできないのです。自分を一角の者だと思っている人は、神の前に平になることができません。 主イエスが確かに呼びかけてくださり、神が奇跡を行ってくださることのしるしとして、アテネの町でも、ごく僅かですが信じる人が起こされました。34節に「しかし、彼について行って信仰に入った者も、何人かいた。その中にはアレオパゴスの議員ディオニシオ、またダマリスという婦人やその他の人々もいた」とあります。豊かな人が信仰に召されるという奇跡が起こる時に、そこでは、その出来事が感謝の業になって現れます。豊かな人は自分の豊かさによって感謝し、神にお仕えするということが起こります。財産のある人であれば、自分に委ねられている富を、自分のためではなく隣の人のために用いるようになります。知識のある人であれば、知識を、あらゆる知恵の源である神を礼拝することに用いるようになります。芸術家であれば、それを神を賛美することに用いようとします。けれども、そういうものが何もなくても良いのです。 17章を通して教えられていることは何でしょうか。「貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたのものだからである」ということです。アテネの町の人たちは、豊かであるために却って、神の福音を受け入れることが難しかったのです。パウロはまさに、このことを経験させられました。 私たちは、自分が主イエス・キリストを通して、「神を賛美する群れに加えられた」ことだけで十分ではないでしょうか。私たちは、何ができるとか、どうしなければいけないという以前に、「あなたはわたしのものだ。わたしに従って来なさい」と主イエスが語りかけてくださって、主イエスを通して神の恵みと保護のもとに生きる者たちとされています。このことを心から感謝して、私たちはそれぞれ自分なりに感謝の生活を歩む者とされたいと願います。 |
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