聖書のみことば
2020年3月
  3月1日 3月8日 3月15日 3月22日 3月29日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

3月22日主日礼拝音声

 救い主を送られる神
2020年3月第4主日礼拝 3月22日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/使徒言行録 第13章16〜25節

<16節>そこで、パウロは立ち上がり、手で人々を制して言った。「イスラエルの人たち、ならびに神を畏れる方々、聞いてください。<17節>この民イスラエルの神は、わたしたちの先祖を選び出し、民がエジプトの地に住んでいる間に、これを強大なものとし、高く上げた御腕をもってそこから導き出してくださいました。<18節>神はおよそ四十年の間、荒れ野で彼らの行いを耐え忍び、<19節>カナンの地では七つの民族を滅ぼし、その土地を彼らに相続させてくださったのです。<20節>これは、約四百五十年にわたることでした。その後、神は預言者サムエルの時代まで、裁く者たちを任命なさいました。<21節>後に人々が王を求めたので、神は四十年の間、ベニヤミン族の者で、キシュの子サウルをお与えになり、<22節>それからまた、サウルを退けてダビデを王の位につけ、彼について次のように宣言なさいました。『わたしは、エッサイの子でわたしの心に適う者、ダビデを見いだした。彼はわたしの思うところをすべて行う。』 <23節>神は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです。<24節>ヨハネは、イエスがおいでになる前に、イスラエルの民全体に悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。<25節>その生涯を終えようとするとき、ヨハネはこう言いました。『わたしを何者だと思っているのか。わたしは、あなたたちが期待しているような者ではない。その方はわたしの後から来られるが、わたしはその足の履物をお脱がせする値打ちもない。』

 ただいま、使徒言行録13章16節から25節までをご一緒にお聞きしました。16節に「そこで、パウロは立ち上がり、手で人々を制して言った。『イスラエルの人たち、ならびに神を畏れる方々、聞いてください』」とあります。パウロの長い説教が始まっています。この説教は、この先41節まで続いています。この日、この説教を聞いた人たちの中には、大変強い印象を受けた人がいたようで、42節には「パウロとバルナバが会堂を出るとき、人々は次の安息日にも同じことを話してくれるようにと頼んだ。集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神をあがめる改宗者とがついて来たので、二人は彼らと語り合い、神の恵みの下に生き続けるように勧めた」とあります。パウロの説教がどんなに強い印象を与えたかということが窺えます。
 「人々は次の安息日にも同じことを話してくれるようにと頼んだ」と言われる説教ですので、私たちも何回かに分けて、少しゆっくり聞きたいと考えました。この説教の全体を見ますと、今日の箇所では「イスラエルの人たち、ならびに神を畏れる方々、聞いてください」と呼びかけて話が始まっていますが、似たような呼びかけの言葉が26節、38節にも出て来ますので、その呼びかけの言葉で区切りになっていることが分かります。ですので、3回に分け、今日から受難週に入る日曜日まで聞きたいと思います。

 16節「イスラエルの人たち、ならびに神を畏れる方々、聞いてください」、この呼びかけから、まず分かることがあります。この日、アンティオキアの会堂でパウロの説教を聞いた人たちの中には、二種類の人たちがいたということです。「イスラエルの人たち」、あるいはユダヤ人以外の人たちのことですが「神を畏れる人たち」と呼ばれている人たちがいたということです。ユダヤ人の会堂ですから、普通にはユダヤ人が集まっていることが多いのですが、アンティオキアの教会はそうではなく、聖書の神に心を寄せ神を信じる者として歩みたいと願いながら、しかしまだ割礼は受けておらずユダヤ教に改宗していない人たちもいました。今日の私たちの教会と少し似ているかもしれません。
 キリスト教会の礼拝は、多くの教会がそうだろうと思いますが、まずはその土地に暮らしていて主イエスの十字架と復活を信じてキリスト者となっている人たちが礼拝の中心にいるでしょう。けれどもそれだけではなく、まだ洗礼を受けていないけれど、聖書の語ることに興味があり、聖書の神のことを知りたい、出来たら信じて生きる者となりたいと願っている熱心な求道者も礼拝に来られます。あるいは、キリスト教学校や教会学校を入り口にして教会に通い始めた比較的若い方々も礼拝に集っている、それが多くの日本の教会の姿だと思います。そして、この日のアンティオキアの会堂もそのようだったと言われています。

 毎週の礼拝では、聖書全体を取り上げて話されるわけではありません。毎回は聖書全体のほんの断片しか取り上げません。そうすると、大人になってから教会に来るようになった方たち、聖書のことをまだあまりよく知らずに礼拝に来ておられる方たちは、聖書に興味はあるものの聖書全体についてはよく分からないということも起こると思います。そしてその結果、何回か礼拝に来るけれど、聖書をよく分からないので離れてしまうということもあるかもしれません。
 礼拝の中では、実は、私たちが信じていることがどういうことか分かる見取り図のようなものがあります。それは先ほども告白した信仰告白・使徒信条です。毎週私たちは信仰告白の終わりの部分である使徒信条を告白し、第1週には日本基督教団信仰告白全文を告白しています。信仰告白は聖書全体が言っていることを、大変短い言葉で要約して語っている言葉です。分厚い聖書の要約ですから、使徒信条や信仰告白に語られていない、いろいろな物語が聖書の中にはあります。ですからやはり全部を分かるわけではないのですが、それにしても、聖書に語られている一番大事なことは信仰告白の中に語られていますので、私たちは毎週礼拝に集まって賛美し、信仰告白の言葉を皆で口にしているうちに、聖書全体が伝えようとしている最も根本的な事柄については、それを耳にして知ることができるようになっています。もちろん、信仰告白の言葉をただ字面で覚えたとしても、理解していくのには時間はかかるかもしれません。週毎の礼拝で聖書を聞き、説き明かしを聞きながら、聖書が何を語っているのか、キリスト者が何を信じているのか、私たちが何によって支えられているのかを知っていくようになるのだと思います。

 パウロも今日の説教の中で似たようなことをしています。パウロが今日の箇所で語っていることは、旧約聖書に語られている、神の民イスラエルの歴史全体をなぞっているような話です。
 一番最初、17節に「この民イスラエルの神は、わたしたちの先祖を選び出し、民がエジプトの地に住んでいる間に、これを強大なものとし、高く上げた御腕をもってそこから導き出してくださいました」とあります。信仰者全体の先祖であるアブラハムが選び出されて、神がアブラハムと関わりを持つようになってくださったというところから、パウロは話し始めます。そして、アブラハムの孫であるヤコブとその12人の子供たちの時代に、飢饉のためエジプトに移住することになり、そのエジプトで神の守りの中、極めて強大な一つの民とされたこと、しかしそのことがエジプト人から妬まれ警戒されて一度は奴隷とされてしまうものの、神がモーセを遣わして出エジプトの出来事を起こしてくださったということが、実はこの17節に一言で語られています。大変短い言葉ですから、もしかすると、パウロがアンティオキアの教会で語った説教は、これよりも長かったのではないかと想像する人もいますから、そうだったかもしれませんが、しかし大筋はこういうことです。一節の中に創世記と出エジプト記の全体が語られています。
 今日のところには語られていませんが、使徒言行録7章6節には、エジプトに移住してから奴隷にされ、再びそこから導き出されるまでの間に400年かかったと記されています。ですから、パウロはこの一言のうちに400年の歴史を語っています。

 そして、出エジプトの後、神がどうなさったかということが続きます。導き出した民のために住むべき土地を用意して、そこに向かうようにと神は言われましたが、出エジプトして来た人たちは神に信頼することができず、与えられた約束の地に入ることができなかったので、神は忍耐してその世代が過ぎ去るまでの間、荒れ野で民を保護したのだと言われています。そして40年が経ち、一つの世代が過ぎ去った時に、次の世代の人たちを約束の地に導き入れてくださった、それが18、19節に語られていることです。「神はおよそ四十年の間、荒れ野で彼らの行いを耐え忍び、カナンの地では七つの民族を滅ぼし、その土地を彼らに相続させてくださったのです」。エジプトで400年過ごし、荒れ野で40年過ごし、そして20節を見ると、約束の地に入って12部族がそれぞれの嗣業の地を受け取り、そこでの生活が始まるまで、約450年にわたることだったと語っています。

 けれども、このようにして約束の地が与えられて終わりではありません。約束の地に入ってからは、裁き司、士師たちの時代が始まります。「その後、神は預言者サムエルの時代まで、裁く者たちを任命なさいました」というのが士師記の話であり、最後の士師がサムエルですが、サムエルの時代にはサウル、ダビデという王を立て王国の歴史を神が与えてくださったということ、パウロが語ったのはそのようなイスラエルの歴史でした。
 ですからここは、わずか数節ですが、旧約聖書の歴史がアブラハムから始まってダビデの時代までの歴史がひと繋がりに語られていることになります。神がこの歴史を貫いて、最初にアブラハムと立ててくださった約束を持ち運んでくださっているのだと、パウロは語っています。

 ところで、パウロがこのように旧約聖書全体の見取り図のような話をすることで、一体何を伝えようとしたのでしょうか。一つは、この日アンティオキアの会堂に、神を畏れる方々と呼ばれている、聖書のことにまだ慣れ親しんでいない人たちがいるので、その人たちに旧約聖書の歴史を一通り語っているというところがあります。けれども、パウロはそれで満足しているわけではありません。ここで旧約全体の歴史を語りながらパウロが語ろうとしていることは、例えて言うならば、イスラエルという大きな山の上に恵みの雨が降ってくる、それが山間に刻まれている無数の小さい渓谷を労しながら流れ下って、やがて麓で一本の川に流れ込んでいくというような、そういう話をしようとしています。旧約の時代のことを一息に語っていますが、その時代その時代に神は人間に働きかけ、ご自身の民の歴史、イスラエルの歴史を持ち運んでくださいました。
 旧約に記されているたくさんの出来事というのは、どれを取っても、神が人間とどのように関わりを持ってくださり、人間にどう向き合ってくださり、そこに生きた一人ひとりをどのように持ち運んでくださったかということを語っています。神の前で人間はどのようであったかというと、決して天使のような存在ではありませんでした。様々な問題を抱え、なかなか神に対して素直で正直になれない人間の姿が旧約聖書にはたくさん出てきますが、そういう人間を神がどのように持ち運んでくださったのか、一つ一つのエピソードがそこに語られているのです。
 けれども、その小さな谷間にあるようなエピソードはそこで終わっているのではなく、山を流れ下って一本の川に合流し、とうとうとした流れになっていく、そしてそれがさらに広い平野を潤しながら先へ先へと流れていくという歴史が語られています。

 パウロはここで「主イエスがその大きな一本に合わさる川のようなお方なのだ」と話を続けていきます。23節に「神は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです」と言っています。このお一人の方にたくさんの神の恵みが流れ込むようになっていると言うために、パウロは注意深く言葉を選んで、「神は約束に従って、主イエスを送ってくださったのだ」と言っています。救い主であり主イエスの誕生が神の約束の出来事だったと言うのです。
 「約束」とは何か。旧約聖書に「主イエスがお生まれになります」と書いてあるかというとそうではありません。始まりに、神がアブラハムを選んでくださり「わたしはあなたを祝福の基とする」という約束があることは間違いありません。最初に神の恵みの雨の一滴がこの世界の上に落ちた、それがアブラハムの出来事だったと言われているのですが、そこからいろいろな時代の無数の人たちと神が関わってくださっているという話が続いて、その全てが約束によって、主イエスがお生まれになるというところに向かって来ていると言われているのです。

 ですから、23節の「約束に従って」というのは、どの一つの約束ということではなく、旧約聖書全体を通して語り続けられていること、神が恵みを持ってイスラエルを持ち運んでくださるということです。神がイスラエルの民に祝福を与えてくださるという、全体の約束に従って主イエスがお生まれになったと言われているのです。中でも、その直前を見ますと、ダビデについて神がお語りになった言葉が挙げられています。22節の二重鉤括弧のところですが、「それからまた、サウルを退けてダビデを王の位につけ、彼について次のように宣言なさいました。『わたしは、エッサイの子でわたしの心に適う者、ダビデを見いだした。彼はわたしの思うところをすべて行う』」。ダビデが王の位に就いたときに、神がおっしゃったことです。ダビデという人が、すっかり神の思い通りに生きた人であるかのように、ここには記されています。
 けれども、実際のダビデの有り様を見ますと、ここに言われていることは、少し良く言い過ぎだと思います。ダビデには弱いところもありました。例えば自分の部下だったヘト人ウリヤを自分の失敗を誤魔化すために戦争の最前線に送り出して戦死させるということをしました。あるいは、晩年になると息子のアブサロムを溺愛して周囲とのバランスを失ったこともありました。ですから神が、「エッサイの子でわたしの心に適う者、ダビデを見いだした。彼はわたしの思うところをすべて行う」とおっしゃるような生き方を、必ずしもダビデはしていないことを、私たちは聖書を通して知っています。ダビデが神の御心を全て行っていると言われると戸惑います。人間の悪も神が行わせておられることなのかと思う方もいるかもしれません。
 けれども、これはそういうことではありません。神は御心に適う王としての役割を果たさせようとしましたが、ダビデはそれを行いませんでした。しかし神は、ダビデがそういうあり方なのでダメだとおっしゃるのではなく、ダビデの子孫から、本当に神の御心に適うお一人の方を生まれさせてくださるのです。ですから、「神は約束に従ってダビデの子孫からイスラエルに救い主を送ってくださった」と言われているのです。
 そして、子孫である一人のお方、主イエスとダビデの名がいつも結びつくようにしてくださいました。そこに、神のダビデに対する憐れみと慈しみが示されています。

 今日の箇所でパウロが語っている旧約の歴史は大変簡単なものですが、この歴史の一コマ一コマを考えてみますと、その時代その時代でそこにいる人たちは、神に従い切れないようなところがありました。一番最初に神が選んでくださったアブラハムは、祝福の基とされた人ですが、彼も神に信頼できないために、妻であるサラを妹と偽ってエジプト王のハレムに入れてしまうという失敗をしました。あるいは、出エジプトして40年間荒れ野を彷徨った人たちは確かに大変な思いをしたでしょうけれど、しかし元々は、神が示してくださった約束の地に行かなかったために、そうなったのでした。神に従わなかったために労苦しているのです。それでも神は、従わなかった者を滅ぼすのではなく、その世代を忍耐なさり、抱えこみ持ち運んでくださり、次の世代へと歴史を進めてくださり約束の地に至らせてくださいました。では約束の地に入った後は、ずっと神に従ったかというと、そうではありませんでした。もともとのイスラエルの民は、神だけが自分たちの主であり王なのだから、人間の王を必要としないはずでした。ところが、約束の地に定住するようになると、周囲を見回して、異民族たちが王を持っていることを知り、自分たちも人間の王に率いられたいと願うようになりました。そして、サウル、ダビデが王になりました。このことも、神に信頼し神こそが王であることを嫌がった結果のことです。また今日の箇所には触れられていませんが、異民族たちがしている偶像礼拝にもイスラエルの民は心を寄せる生活をするようになっていきました。
ですから、今日の箇所で語られている旧約聖書の歴史を一つ一つ思い出しながら聞くとすると、ただ神が恵みによって持ち運んでくださった歴史というだけではない歴史になるのです。旧約の民を神が持ち運んでくださった歩みというのは、一つ一つの谷を見ると深い亀裂があり、影があり、闇があり、険しいところがある。そういうところを神のなさりようが流れ下っている。そういう歴史です。

 神は人間の過ちを、過ちの嵩に従って測ろうとするのではなく、神に対して人間が忠実でないときにも、なお、何とかして人々を神のもとに悔い改めさせ、神と共に生きる者としようとして、先へ先へと持ち運んでくださった、その結果が「約束に従って、救い主、主イエスを生まれさせてくださった」ということに至ったのだと言われています。
 今日の箇所では、あえて、旧約の人たちがどんなに神に逆らったかということは全て触れないような仕方でパウロは語っています。ここには人間の破れや反逆にも拘らず、神が恵みを持って時代を先へ先へと持ち運んでくださったことが語られています。もし、人間が神に逆らった一つ一つを問題にするならば、その一人一人は裁かれ滅んでも文句は言えません。けれども神は、人間が不誠実、不正直であっても、何とかして、アブラハムに約束された祝福を人間に与えようとなさる、そして、救い主を与えてくださったのです。

 救い主である方がどのような方であり、どのようなことをなさったのか、人々がどのようにこの方を扱ったのかということについては、来週聞く箇所でパウロが改めて語りますので多くを触れませんが、しかし、「救い主を送ってくださる」ということは決して、ある時、神の思いつきで起こったことではないということを聞き取りたいのです。
 神が一番最初に、「アブラハムに祝福を与える。アブラハムは全ての人の祝福の基となる」とおっしゃってくださって、人間を顧み、人間と共に生きてくださると約束してくださったにも拘らず、人間の方ではそのことに信頼を寄せられませんでした。今置かれている状況が自分にとって良いか悪いか、そのことの方にばかり気持ちが行ってしまうのです。神が確かに私たちを持ち運んでくださっているのだから、どんな目に遭っても大丈夫だと、なかなか思えません。どんな試練があったとしても、神が私たちを守り支えてくださって生きるようにされているのに、人間はなかなかそこに思いを致すことができません。嫌なことに出会うと、その嫌なことがあることに気持ちが行ってしまい、「それでも神が共にいて支えてくださっているのだ」ということを忘れてしまい、自分は本当に辛い嫌な人生を生きていると思い込んでしまいます。
 確かに、この世に様々な問題があります。またそれは、人間が神に逆らっているからかもしれません。けれども神は、逆らう者だからそこで滅んでしまえというような乱暴なことはおっしゃらないのです。逆らう者たちも皆、もう一度神のもとに集められ、「神が共にいてくださるのだから、わたしは今日を生きてよい。この命を精一杯生きていこう」という希望を与えられて生きるようにと、神が導こうとしてくださっています。

 パウロは、長い説教の初めのところで、旧約聖書の歴史をなぞるように語りました。それは、神がどんなときにも共に歩んでくださるのだから神に信頼して生きてよいのに、人間はなかなかそう生きることができない、だから救い主を送ってくださったのだと、主イエス・キリストのことを伝えているのです。

 私たちは、主イエスが私たちのために与えられていることを本当に感謝し、歩みたいと思います。ここで私たちが捧げている礼拝も、またここから歩んでいく私たちの一週間の生活も、その全てが神に覚えられています。旧約の人たちの歩みが全て神に覚えられ、支えられて歩んだように、私たちもここから、神に導かれた新しい歩みに遣わされるということを覚えたいと思います。

 たとえ私たちが弱く臆病で、自分の弱さや不安に思いが行ってしまうことがあるとしても、そういう一人一人をそれでも神が大切な一人として、今日を生きる者として歩むように、私たちを招いてくださっていることを聞き取って、過ごす者とされたいと願います。
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