2020年3月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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聖霊の導きに委ねられ | 2020年3月第1主日礼拝 3月1日 |
宍戸俊介牧師(文責/聴者) |
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聖書/使徒言行録 第13章4〜12節 |
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<4節>聖霊によって送り出されたバルナバとサウロは、セレウキアに下り、そこからキプロス島に向け船出し、<5節>サラミスに着くと、ユダヤ人の諸会堂で神の言葉を告げ知らせた。二人は、ヨハネを助手として連れていた。<6節>島全体を巡ってパフォスまで行くと、ユダヤ人の魔術師で、バルイエスという一人の偽預言者に出会った。<7節>この男は、地方総督セルギウス・パウルスという賢明な人物と交際していた。総督はバルナバとサウロを招いて、神の言葉を聞こうとした。<8節>魔術師エリマ――彼の名前は魔術師という意味である――は二人に対抗して、地方総督をこの信仰から遠ざけようとした。<9節>パウロとも呼ばれていたサウロは、聖霊に満たされ、魔術師をにらみつけて、<10節>言った。「ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか。<11節>今こそ、主の御手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう。」するとたちまち、魔術師は目がかすんできて、すっかり見えなくなり、歩き回りながら、だれか手を引いてくれる人を探した。<12節>総督はこの出来事を見て、主の教えに非常に驚き、信仰に入った。 |
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ただいま、使徒言行録13章4節から12節までをご一緒にお聞きしました。4節5節に「聖霊によって送り出されたバルナバとサウロは、セレウキアに下り、そこからキプロス島に向け船出し、サラミスに着くと、ユダヤ人の諸会堂で神の言葉を告げ知らせた。二人は、ヨハネを助手として連れていた」とあります。先にアンティオキアの教会で礼拝が捧げられていたときに聖霊が働いて、バルナバとサウロを世界伝道の働きに送り出すと決まったのでした。アンティオキア教会の人が断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させました。送り出された二人は、まずアンティオキア付近のセレウキアに下り、そこからキプロス島に向かいます。この二人に加えてバルナバの従兄弟であるヨハネ(マルコと呼ばれることもある)も一緒でした。人間的に言えば、これは大変無謀な企てだったと言えるかもしれません。 けれども、バルナバとサウロは、そういうことでは何も悩んでいないようです。二人には、主イエスが生きて自分たちと共にいてくださるということ、そして主イエスが今から自分たちが行おうとしていることを望んでくださっている、それが分かっていました。そういう意味で二人は神ゆえの天真爛漫さ、あるいは神ゆえの愚かさ、そういうところがありました。神が自分たちをお遣わしになっている。そうであれば何が起こるかは分からないけれど、神がすべてのことを配慮してくださるに違いないのだから、神にすべてをお委ねしよう。そう決めて二人は海に乗り出しています。行く先の世界はどのようであるか、出会う人たちはどんな人か、どこにどんな危険が潜んでいるのか、何も分かっていません。 しかし二人は、ある一つのことをよく知り、わきまえていました。それはほんの一瞬であっても、主イエス・キリストが共にいてくださるという信頼に歩む代わりに自分自身の判断や人の判断、人間的な思いを先立たせてしまうならば、この企ては水の泡になると知っていました。主イエス・キリストが自分たちを遣わしておられる。遣わされて行く世界は、全て、このお方の御支配のもとにある。すべての民が主のもとに生かされているのだから、それで十分ではないか。バルナバもサウロもそう考えています。 バルナバとサウロはキプロス島に渡りました。この島は交易で栄えていました。サラミスとパフォスを中心にしてユダヤ人も大勢暮らしていました。そしてこの島を治めていたのは、ローマから派遣されて来た地方総督で、セルギウス・パウルスという人物でした。このセルギウス・パウルスに神の御言葉が語られ、バルナバとサウロを通して、この人に永遠の救いがもたらされようとしています。それは大変不思議な仕方で生じます。そもそも、バルナバやサウロのように、昨日今日この島にやって来た者が、この島を治める最も地位の高い人に会えるということ自体が、普通では考えられないことです。しかし、神がそのように取り計らってくださいました。 総督セルギウス・パウルスのごく近いところに、バルイエスという魔術師がいたことが語られています。バルイエスとは、「イエスの息子」という意味です。御述では「エリマ」と名前が変わっていて、「魔術師」という意味です。ですからこの人は、「イエスの子」とも名乗り「魔術師」とも名乗り、しかし本当の名は明かしていません。 今日の箇所の筋道を追いかけて行きますと、聖霊がバルナバとサウロを遣わして働きかけようとした相手、最初の人はセルギウス・パウルスだったのではないかと思われます。聖霊が初めからセルギウス・パウルスをターゲットにしています。ここに述べられていることを考えてみたいと思います。 ところで、セルギウス・パウルスは、彼らが会堂で語っていることに興味を持ちました。バルナバとサウロの話を聞きたいと思い、彼らを招きました。7節に「この男は、地方総督セルギウス・パウルスという賢明な人物と交際していた。総督はバルナバとサウロを招いて、神の言葉を聞こうとした」とあります。ここでもセルギウス・パウルスが望んだことは「神の言葉を聞こうとした」ということです。聖書について議論したいと思ったのではなく、神の言葉に直接触れることを望みました。つまり二人を通して、神の御前に立って神の御言葉を聞き、それによって生きたいと願いました。なぜセルギウス・パウルスがそのような思いになったのか、大変不思議な感じがします。 セルギウス・パウルスはバルイエスと交際していましたが、「賢明な人物である」と語られています。「賢明な」と訳されている言葉は、別に訳すと「聞いて悟る、理解する」と訳せる言葉です。例えばマルコによる福音書4章12節に「それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである」とありますが、「聞くには聞くが、理解できず」とある「理解」という言葉が「賢明な」と同じ言葉です。つまりセルギウス・パウルスが賢明だということはどういうことなのか、「福音を聞いて、それを理解することができる」人物だったと言われているのです。バルイエスはそうではありません。バルイエスは聞きかじった言葉で自分を賢明な人物だと見せるアクセサリーのように主イエスの言葉を使いました。バルイエスがそのようなあり方をしていたので、実は、バルナバとサウロがやって来たときに、バルイエスは自分の化けの皮が剥がれてしまうことを恐れました。バルイエスはイエスの子と名乗っていますが、彼は自分のことしか考えていないのです。自分がアクセサリーのように纏っている主イエスが、神の御心によって十字架に向かっていかれたのとは、まるで逆の方向に向かっています。自分を大きく見せるため、自分が深い知恵を持っているように見せるための装いでしかありません。 同じ福音の言葉を聞いても、ある人はその言葉を信じて受け入れるけれど、別のある人は自分のアクセサリーみたいに情報だけ持っていって、本当には受け入れることができないかもしれません。セルギウス・パウルスは信じた。けれどもバルイエスは手を引いてもらわなくてはならない姿になったと言われています。けれども、このバルイエスにも「時が与えられる」と語っているパウロの言葉を心に留めたいと思います。 私たちにはすべてを理解することはできませんが、神がきっと時を与えてくださり、私たちが本当に喜んで「神さまの言葉によってわたしは生きることができる」と思わせてくださり、御言葉によって与えられた日々の生活を送る時が与えられることを信じて、希望を持って礼拝を捧げながら、なお歩む者とされたいと願います。 |
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